神明裁判 その3
「お時間になりましたので、議場へ移動をお願い致します」
静かに襖を開けた女官がそう言って、アキラは唾を飲み込んだ。
とうとう来た、という思いがある。巻き込まれたようなものだが、しかし拒絶せず着いて行ったというなら、確かにアキラも同罪だ。
本庁の邪魔をしたのも事実なら、それに対して報いる義務がある。
そして、その罪と罰をオミカゲ様御自ら見定めようというのだ。
これまで何もかもが異例づくしの展開だったが、何よりこの裁定がアキラの度肝を抜いた。
現代において科学技術は、小さな痕跡すら残さぬ事を不可能にした。どれだけ巧妙であっても、何かしら痕跡はあるものだ。だから神に頼るような裁判形式はなくなったし、頼る事は恥だという風潮も出来上がった。
人の雑事を神に片付けて貰おうという考え自体が浅ましいのだ。だから例え未解決事件が出たとしても、神に頼って犯人捜しをするという事もしない。
だから今回の神明裁判は、何か大きな事情を明らかにする為にある。そうに違いないのだ。
それが何かはアキラには予測すら付かないが――。
先程の女官の言葉を聞いて、まさに立ち上がろうとするミレイユを見た。
その顔に緊張は見られなかった。単に図太い神経をしている訳でも、無神経という訳でもないのだろう。大した事態にはならない、と考えているのかもしれない。
あるいは何があっても、切り抜けられる自信が現れているだけなのかも。
アキラは、次々とミレイユに続いて立ち上がるアヴェリン達にも顔を向けた。
そこにはやはり緊張は見られない。アヴェリンなどはふてぶてしいまでの笑みすら浮かべていた。ユミルは飄々と、ルチアは澄まし顔で、いつもと変わらぬ表情を見せている。
それに励まされる形でアキラも立ち上がったが、しかし膝が震えて上手く立ち上がれない。卓上に手をついた腕が無様に震えていた。
「ほら、ちゃんとしろ。お前が緊張したところで、どうにもならん。潔く腹をくくれ」
アヴェリンから励ましらしきものを受け、その背を叩かれる。
それで肺から息が飛び出し、咳き込む羽目になってしまった。
「ゲホッ、エホッ! 師匠、叩くにしても、もっと手心を……!」
「お前は私に何を期待しているんだ。いいから早く立て、ミレイ様をお待たせするな」
「待たせて拙いのは、むしろ議場にいる人達なのでは……」
傍聴人がいるとは思えないが、被告人より後に入ってくるものでもあるまい。そして何より、アキラたちが入廷しなければ、オミカゲ様もまた入廷できないだろう。
裁判の様式など知らないが、神を待たせるなどあってはならない。
アキラは促されるまま立ち上がり、ミレイユ達の後を着いていく。
広い廊下とそれより遥かに長い廊下を、女官の先導で進む。窓から見える景色は長閑で美しい。世界そのものが輝いているようですらあった。
視線を戻せば幾つかの角を曲がり、時に階段を上って歩いて行く。どこを歩いても衣擦れ以外の物音がしないのは、静謐な空間を犯してはならない、と誰もが心得ているせいなのかもしれない。
優に十分は歩かされて、一つの巨大な扉の前で女官は足を止めた。
振り返って一礼し、ミレイユに向けて逆側にある小さな扉を示す。
「皆様は先に議場へお入り下さい。ミレイユ様におかれましては、少々控室でお待ち頂ければ幸いと存じます」
「私だけ別室で待機なのか?」
「はい、追ってご入廷して頂きますが、それはまた別の者が指示いたします」
アヴェリンもユミルも剣呑な視線を女官へ向けたが、ミレイユは手を挙げて黙らせる。
「……なるほど。言うとおりにしろ。お前も、案内ご苦労だった」
「勿体ないお言葉でございます」
女官はまるで、感動に打ち震えている様を隠すように頭を下げる。
アキラから見ても、今の女官の表情は異常に見えた。オミカゲ様と似た顔だから混同しているという訳でもないだろう。むしろ過去の事例を思えば似た顔には忌避感を覚える筈だし、不敬だとすら思う筈だ。
彼女は一体ミレイユに何を見たのだろう。
思っている内に、ミレイユは女官の開けた扉をさっさと潜り、控室へと入って行ってしまった。
アヴェリン達は顔を見合わせ、ユミルが顎を動かして扉を示せば、アヴェリンが扉に手を掛けようとした。そこへ女官が戻ってきて扉を開ける。
重厚な音を響かせながら、議場の様子が見えてくる。
天井が高く、そして明るい部屋だった。板張りの床と重厚な色をした板壁、全体的に道場のような雰囲気がある。用意された席なども、元よりあるというよりは今回の為に準備したように見える。
入り口脇には二名の武装した兵が立っていて、穂先を上に向けた槍を握っている。見てみれば、傍聴席を囲むように計四人の兵もいる。
入廷した扉から見て左手に傍聴席があり、そこには既に多くの人が座っていた。
アキラ達の入室と同時に、鋭く向けられた多くの視線が射抜く。
そこに座る誰もが和服を着用し、そしてそれが非常に高価な礼服だと分かる。この場にいるのは全て貴族や華族だけなのかもしれない。最も手前に座る者の中には、生霧会ビルでも見た阿由葉結希乃の姿もあった。
艶やかではあるが質素にも見え、押し付けない美麗さがある。
彼女以外にも女性の姿は多く見えた。御由緒家がこの場にいると言う事に疑問はない。神明裁判ともなれば、そういう御大家が傍聴席にいるのは、むしろ当然かもしれなかった。
そして右手側には、テレビで見た物とは違うものの、高い位置に設けられた法壇がある。ここにも兵が二名配置されていた。
法壇には一席だけ用意されていて、おそらく裁判長が座るのだろう、まだ誰も着席していない椅子がある。その一段下には裁判書記官が既に着席していて、こちらはアキラ達を見ず、ただ正面を一点に見つめていた。
検察官と弁護人の座る当事者席には誰もいない。
ここは原告と被告という立場で座る場でもないだろうから、単に遅れているだけなのか。だが弁護人がいるなら、事前に面通しや説明などがある筈だ。何一つ準備なく法廷に立てというのは無理がある。
傍聴席の前に仕切りとして用意された柵より手前にも席があった。アキラは物理的な圧を持って刺さるような気がする視線を背に受けながら、そこへ促されるまま着席した。
着席した場所からは証言台が見え、そこでようやく裁判官席より更に上、御簾の降ろされた席がある事に気が付いた。
陰になって見えにくいが、その背後には扉も見える。
――おそらく。
おそらく、あの扉からオミカゲ様が入って来るのだろう。あのような席を見ると、そうであるとしか思えない。アキラは今更ながら背筋が伸びる思いがした。
そうこうしている内に、扉から裁判長らしき男が入廷して来た。立派な顎髭を蓄えた壮年の男性で、着ている服も裁判官らしき黒服なものの、やはり和服を着用している。
その後に続いてミレイユも入廷して来た。その顔にはどのような感情も浮かんでいなかったが、被告人席に座るアキラたちを見てチラリと笑う。
ミレイユの後に続いて入ってきた、先程とは違う老齢の巫女が入ってきて扉を閉め、その前へ陣取るようにして留る。背筋を伸ばし、両手を前に揃えた見事な起立だった。
傍聴席に座る者たちからは、ザワつくような動揺が感じられた。
背後を窺ってまで確認する勇気はないが、ミレイユの容姿を見たのが原因で間違いないだろう。ミレイユの容姿は見慣れた人でも間違っても不思議でないほど、オミカゲ様と良く似ている。
ミレイユは被告人席ではなく、そのまま証言台へと向かった。
裁判長の前には名前の書かれた札が立っていて、そこには
あの時、思わず気絶してしまった前後で聞いたのかもしれない。今でも裁判があると聞かされた前後の記憶は曖昧で、実を言えば今も何もかもが曖昧に思える。
現実を直視したくないだけかもしれないが、座っているというのに足元がふわふわとして落ち着きがない。どういう質問が飛んで来るのかと緊張していたが、どうもミレイユが代表して質疑に応えるようにも見えるし、形式としてどう進行するかも分からない。
そもそも弁護人とか証人とか、そういう人物はいないのだろうか。
あるいはこれは裁判とは名ばかりの、尋問に終始する気なのかもしれない。
緊張が輪をかけて高まり出した時、一度席についた頭師裁判長が立ち上がる。見た目を裏切らない太く伸びる声で、厳かに告げた。
「
背後から整然と立ち上がる音が聞こえて、アキラも同じように立ち上がった。
アヴェリン達はそれより遅れて立ち、冷ややかな視線を頭師裁判長に向けている。
「……礼!」
自身もまた最敬礼の角度で頭を下げるのを見て、慌ててアキラも真似て下げる。背後からも衣擦れの音が聞こえて、同様に頭を下げたのだろうと察した。
隣にいるアヴェリンが頭を下げていないと横目で察して、音が出ないよう軽くその足を叩いてみたが、まるっきり無視された。
頭上より扉が静かに開く音がして、何者かが足を踏み入れたと察した。一足動かす度、衣擦れと金属同士が接触するシャラシャラとした音が聞こえてくる。
今まさに、オミカゲ様が入廷し、その席につこうとしている。
アキラは身が振るえて来るのを抑える事が出来なかった。例え裁かれる身であろうとも、このような機会がなければ決して、ここまで近くで存在を感じる事は出来なかったろう。
その事実だけに目を向ければ、決してこの状況も悪くはない。
衣擦れと金属音が聞こえなくなるまで礼は続いた。
何か重いもの――恐らく御簾――を動かす音が聞こえ、それも聞こえなくなると、よく通る、そして聞き覚えのある声が耳朶を打った。
「一同、
ミレイユと良く似た声だった。しかし、決定的に違うのは、その声に温かみがないという点だ。厳かで押さえ付けるような重みを感じさせる声だった。
あるいはそれが、神から受ける威厳というものなのかもしれない。
アキラは言われるままに顔を上げ、そして御簾の向こうに感じられるオミカゲ様を思って胸の奥が熱くなった。このような場でなければ、涙していた可能性もある。
アキラはぐっと口元を引き絞り、不躾なところを決して見せまいと心に決めた。
着席、と頭師裁判長が再度声を張り上げ、全員に倣ってアキラも座る。
「本裁判は
裁判長はゆっくりと睥睨し、どこからも異論が出ないことを認めて改めて言った。
「……結構。では、開廷!」
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