御影の意思 その5
御影神宮のある市内、そこより幾らか離れた一等地に、一つの武家屋敷が建っていた。塀も高く漆喰で縫い固められた壁には一片の染みもない。
門扉も立派で背は高く、横幅も乗用車が三台は通れるような大きさだった。扉の端には使用人が出入りする為の小さな入口もある。
門を抜ければ屋敷まで長い道が続き、広々とした庭園まである。大きめの池には鯉が泳ぎ、そこに日陰が差すよう松の木が植えられていた。
この立派な庭を擁しているのが、御由緒家の一つ阿由葉家の屋敷だった。
その日、夜分遅くの事だった。
書斎の一室で一人の男がノートパソコンを広げながら書類を読んでいる。
武家屋敷、和風建築にあたる阿由葉家だが、この書斎だけは洋風に改築してある。大きく広い机と、それを囲む書棚は和室に置くには障りがあった。
机に見劣りしない立派な椅子に座るのは、細身にも鍛えられた体躯を持ち、まだ若々しく見えるも既に齢五十の男。まだまだ働き盛りと言い張るこの男こそ、阿由葉家の当主、阿由葉京之介だった。
今は執務机の上でブランデーを転がしながら、食後に昨今の業務傾向を精査していた。
鬼退治は御由緒家の生業だが、それだけで食っていける訳でもない。御由緒五家は全てオミカゲ様の興した事業に携わり、それを経営する事で生活している。
単に生活費を得る為に利益を追求するのではなく、その利益を元にした資金が鬼退治に関わるあらゆる物事に使われている。
贅沢は敵とする意図はないものの、あくまで余剰分を家に入れるというような方針だった。
今では更に業績を伸ばし、世界に名を知られるようにすらなっている。御由緒家としての名前だけで仕事をしている訳でもないが、やはりその名の力は信用を得るには甚大で、阿由葉家もまたその信用に背かぬ仕事ぶりを見せている。
それが呼び水となり、更に仕事が舞い込むようになった。
京之介自身、既に年齢を考慮して一線を引いている。当主となれば会社の経営にも携わる必要がある為、長く戦い続ける事はできない。身体にも多くの傷を残したし、五体満足でいられるのはオミカゲ様の御神徳だと感謝している。
理力が少ないと言われる男子にあって、当主にまでなれたのは一重に例外的な強大さを生まれ持つ事ができたからだ。他の御由緒家が例外なく女性当主なのは、単純な実力勝負で多くは女性に及ばないからだが、京之介は例外でそれらを押し退けて当主の座に収まった。
今は寮暮らしの末娘の七生の世代では、京之介のように理力に恵まれた男児が多いという。今後の世代は明るいと思いながら、長女・結希乃の事を思い返した。
既に次期当主として内定している彼女だから、その実力に疑いようはない。京之介がこうして会社の動向に注力できるのも、今日も結希乃が御影本庁で揉まれているからだ。
御由緒家の人間は多くが本庁に入って働く。京之介もそうだった。鬼退治と深く関わる庁だけに、年頃になれば入庁するのは義務ですらあった。
あと数年もすれば立派に当主と認められるだけの実力を得られると、京之介は確信している。
――自慢の娘だ。
末の七生も、もし結希乃がいなければ当主になれるだけの実力を有している。姉妹仲も良好、もし姉がいなければと思わずにはいられないだろうに、七生は結希乃を支えると決めたようだ。
実に惜しい、と京之介が思ったところでどうにもならない。
父としては七生に日の目を見て貰いたいと思うも、当主としては諦めて貰う他ないと決めている。
ブランデーを一口呷り、熱い息を吐き出した時、扉を叩く音がした。
叩き方一つでその人の癖が出るものだ。この叩き方は結希乃だ、と思うのと同時に、この時間に珍しい、とも思う。
遅く帰ってくる事はままあるが、遅い時間に書斎までやって来る事は滅多にない。だが、京之介に娘の来訪を拒む気持ちはない。
軽く返事をして、入室するよう声を掛けた。
「入りなさい」
「失礼します、父上」
入室して来たのは、予想とおり結希乃だった。凛とした佇まいに見惚れるような美貌は母譲りだが、今はそこに陰りが見える。
はてどうした事か、と京之介は眉を顰めた。
殊更明るい性格をした娘ではないが、己の力量や職務に誇りを持ち、自信に満ちた顔をしていたものだ。それが今では憂いを帯びた表情をしていた。
結希乃は執務机の前に立ち、小さく一礼する。
「ただいま帰りました」
「ああ、お帰り。……それにしても、どうしたというのだ。仕事の事だと言うのなら、深くは聞かないが」
結希乃は緩やかに首を振った。
「いえ、仕事の事ではありますが、父上には聞いてもらわねばなりません。すぐにでも正式な書面、あるいは使者があると思いますが、一足先に父上にはお伝えした方が良いと思いまして」
「やけに深刻だな。……もしや昨今、結界関連で賑わせている甲ノ七と何か関係が?」
完全に当てずっぽうのつもりで言ったつもりだったが、結希乃の表情が一変する。憂いの中に悔いを残すような表情を見せた。もう治したと言っていた、下唇を噛む悪癖まで見せている。
「ど、どうしたんだ……!」
京之介は椅子を引いて立ち上がろうとしたが、それを結希乃に止められる。近付いて慰めようとするのを、感じ取ったのかもしれない。
それよりも報告の方が先で、何より重要だと制するように尽き出した腕が言っていた。
「御神勅を持ちまして、御由緒家招集が言い渡されます。全当主、並びに次期当主は明日、奥宮まで足を運ぶ事になるでしょう」
「な、ん……!?」
京之介は絶句し瞠目する。二の句が継げず、ただ結希乃の顔を見つめ続ける。
その表情には幾らかの悔恨が見て取れる。しかし、それだけで事情が掴める訳もない。
神勅が降りる事など滅多にあるものではない。ましてや、それが御由緒家全当主の招集である。余程の大事があると思うのが当然で、そして結希乃の表情から自身に関わりがあると言っているようですらあった。
まさか、と思ってしまうのを止められない。
だが同時に、結希乃に限って、とも思う。仕事上の失敗や失態など、若い頃には付きものだ。思わず顔を顰めるようなミスはあっても、勅を持って動かされる程の問題を起こすとは思えない。
驚きはしたが、自分の娘を信じて、ただ続きの言葉を待った。
「そこでは神明裁判が行われるとの事です」
「神明……!?」
神明裁判とは、神意を持って物事の真偽、正邪を判断する裁判方法だった。
古代、中世において世界の各地で類似の行為が行われていたものの、多くは不確かな根拠で行われる私刑に近い制度であったという。
例えば熱して赤くなった鉄棒を握らせ、手放さなかったら神は罪過なしと判断する、といった内容で、ともすれば合法的に罪を着せる事のできる方式だった。
だが、この日本国においては全く意味が異なる。
確かに存在する神によって、その罪を判じて貰うのだ。神の前ではいかなる虚偽も許されず、また意志の力で虚偽を言う事もできない。より正確に言うのなら、口に出したものが真かどうか見抜けてしまうのだ。
かつて科学捜査による確実な証拠など望むべくもない時代、その確実な虚偽を見抜く力は絶大で、またどのような不正も行わない神による判断は、何事にも代えられない信用があった。
多くの民衆に支持され、オミカゲ様の神判であれば誰もが納得する判決として重宝された。
実際、被告から出る全ての言葉に正否を言い渡されると何も口を挟めなくなる。そもそも神威に晒された人間は嘘を付くような余裕がなくなる。
母に叱られる幼子のように、全てを自白するのが常だったという。
現代において、その神明裁判が行われたという記録はない。
科学捜査が普及したというのも理由の一つだが、冤罪を掛けられる事を恐れて神判を求める声も多かったのだ。その全てに対応するようでは、神を人の為に働かせる事になってしまう。
神の恩恵を忘れ、神を人の道具にしてはならぬ、という大宮司からの宣言でもって、神明裁判は執り行われる事はなくなった。
しかしそれが、ここに来て執り行われるというのは意味が深い。
一体何故、誰が、罪状は、と浮かぶ疑問は枚挙に暇がない。
「しかし、あまりに急な事だ……。明日、すぐにでも判決を出すというのか……。被告は一体……?」
そこまで言って、一瞬でもまさか娘が、と思った自分を殴りつけたくなった。
被告ならば拘留されていて当然、自宅に帰ってこれる筈もない。この場で報告に上がったのが何よりの証拠ではないか。
あまりに突然の事だったから、と混乱を言い訳にしたものの、結希乃に対する後ろめたさは変わらない。
結希乃は話している内に幾らか冷静さが戻ってきたと見え、困惑だけは残した表情で言った。
「被告は甲ノ七になります」
「そこでその名が出てくるか……」
京之介は重く溜め息をついて、椅子に座り直した。
「今回の神刀奪還作戦では、奪還を成功させた功労者とはいえ、作戦そのものを大いにかき乱し邪魔してくれましたから……。全くの無罪といかないのは、よく分かります」
「そもそも部外者でもある。功罪相半ばする、とはならないだろう」
「はい、ですが分からないのは神宮の遣いが被告を連れ去った事です。しかも、扱いが貴人に対するそれでした。どう好意的に見ても、犯罪者を相手にした対応ではありません」
結希乃が強く断言して、京之介も頷く。
以前より騒ぎを起こしていた者を、ここに来て断罪するために神判を下すなどという理由で、神明裁判を執り行うとは到底思えない。
理力を持っていただけでなく、高度に使いこなしていたという報告も受けている。
目の上のたんこぶだったのは事実にしろ、捕まえただけでなく扱いが異常ともなれば、もはや考えるだけ無駄だろう。
「何れにしろ、明日その理由も内容も判明するだろう。お前も今日は早く休みなさい。向こうも今は場を整えるだけでも大変な思いをしているだろうから、午前中から行われる事もない筈だ。とはいえ、我々にも準備がある。早く床につくと良い」
「はい、失礼いたします」
そう言って結希乃は一礼して退室していく。
京之介も残りのブランデーを喉の奥に流し込むと、ノートパソコンを閉じて席を立った。
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