幕間 その2

 神狼・八房、それはオミカゲ様の神使であり、オミカゲ様が急ぎ目的地へと向かいたい場合、その背を貸して地を走ると言われる神の眷属である。

 その八本の尾が示す名を持ち、奥宮を包む森の警護とオミカゲ様の守護を司っている。


 奥宮の中では頻繁に姿が見られるというが、最後に一般人の前に姿を見せたのは五十年は昔の事だった筈。

 結希乃とて、その姿は見た事があるものの、二階建ての家程も大きい白毛の巨狼は、神々しく感じると共に恐ろしくも思ったものだ。


「それで、まさか八房様が甲ノ七と接触したとでも?」

「その、とおりです……!」


 結希乃は難しい顔で押し黙る。

 単なる偶然で五十年も狼園に姿を見せなかった八房様が姿を見せるとは思えない。彼女らが理力を持っている事といい、何の繋がりもないと考える方が不自然だった。

 では何が、と考えても答えは出ない。


 オミカゲ様と理力は、切っても切り離せない。

 理力を持つというなら、オミカゲ様と接触があったという事になる。そして接触をしたのなら、御由緒家の誰もが知らないというのは理屈に合わない。


 奥宮の警護責任者は由井薗家、招いたというなら彼らがその事実を知らない筈がないし、何かしらの催し――御前試合などで、外での接触があったのなら、その時警護に着いていた家の者が知らない筈がないのだ。


 そして、理力を得たならそれで終わりではない。必ずそれを十全に扱う為の訓練を受ける。

 それは数年という長い期間を用いて修得していくので、その際講師として呼ばれる御由緒家が、あれだけの力量を持つ者を見逃す筈がないのだ。


 当然、講師として呼ばれる事の多い結希乃は、そういった者から良く知られる存在だ。

 ならば、よりオミカゲ様に近い存在――神宮勢力の奥深くで育てられた存在かと思える。それならば結希乃が知らなくとも不思議はない。

 だがそうなると逆に、あちらは御由緒家の存在、そして当主と次期当主の顔ぐらいは知っている筈だ。

 特に、結界内に侵入するとなれば、何も知らずに荒らし回すなんて事もしないだろう。


 そして上層部は、明らかに甲ノ七を知っているという確信が、結希乃の判断を狂わせる。

 特に大宮司様の行動はそれが顕著で、隠す気すらないように思える。あるいは、それが狙いなのかもしれないが――。


 そこまで考え、結希乃は頭を横に振った。

 答えの出ない問いを、いつまでも考えても仕方がない。今は問題がないというなら、問題が起きてから対処すれば良いこと。


「では、そこで何か問題が起きた訳ではないのね?」

「はい、でも……オミカゲ様が御降臨されたのでは、と騒ぎになっておりまして」

「……そんな筈がないでしょう」

「ええ、それは……私には分かりませんが、……違うんですか?」


 結希乃は確信を持って頷く。


「オミカゲ様はわざわざ狼園まで足を運んで、八房様へお会いに行かれません。奥宮のある一室は、八房様が入る事が出来るよう、縁側と天井を特別高くした一室も用意されています。会いたいと思えば、そちらに呼ぶでしょう」

「な、なるほど……」

「でも、何故そんなデマが……?」


 結希乃の疑問に、やはり緊張を残したままの表情で千歳が答える。


「その……八房様が、甲ノ七に甘えるような仕草を見せ、また甲ノ七も気安い態度を見せたから、だと思われます」

「本当なの……?」

「ええ、SNSには既に動画を上がっていますので、確認するのも容易だと思われますが……」


 千歳が嘘を吐く理由はないので、結希乃は思わず押し黙る。

 普通、あれほど巨大な神狼が傍に寄れば畏怖の一つもするものだ。身は竦み、逃げ出したいとすら思うだろう。


 それでも気安い態度で八房様を迎えたというのなら、それは神宮勢力に属する何者か、と考えたくなる。大宮司様が甲ノ七を庇うような動きをするのにも、それなら納得できる。


 だが何事も、自分の想像だけで決めつけるのは危険だ。

 それ程の人物というのなら、いずれ紹介もあるだろう。それまで待って、迂闊な行動は控えたほうがいい。


 結希乃は顔を上げて千歳に笑いかける。


「そう、教えてくれてありがとう。今後も甲ノ七の動向には目を向け、何かあれば報せること。……報告が以上なら下がってよろしい」

「はいっ、失礼します!」


 千歳は一礼して退室していく。

 それを見送りながら、結希乃は小さく息を吐いた。

 甲ノ七が現れてからこちら、何かとあれを種とした騒動が起きている気がする。

 今日は大事な大捕物がある予定だし、それで誰もがピリピリしているのだ。余計な事はしないで欲しい、という切実な思いがあった。


「観光するならするで、終われば素直に帰ってくれたらね……。そっち関連の騒動は勘弁よ……」


 結希乃が零した嘆きは、しかし無常にも打ち破られる事になる。




 それから幾らもしないで書類の確認も終わり、結希乃が自分のデスクで昼食を取っていた。

 基本的に弁当を用意している結希乃は、外での仕事が予定に入ってなければ自室で過ごす。自分で用意している訳ではなく、家で雇っている家政婦が用意してくれるものだった。

 例の動画を見ながら煮物を口に運び、その様子を唸って見ていた時、部屋のドアがけたたましく叩かれた。


 慌てて咀嚼して飲み込み、入室許可の返事をする。

 飛び込むようにして入室してきたのは、先程もやって来た千歳だった。


「お食事中のところ、失礼します!」

「構わないわ。どうしたの?」

「ハッ!」千歳は息を整え、背筋を伸ばす。「生霧会の者共が、甲ノ七に手を出しました!」

「――ブフッ! ゴホッ、ゴホゴホッ!」


 結希乃はお茶を口に含んだところだったので、危うくそれを吹き出しかけた。

 心配そうに伺ってくる千歳へ、大丈夫だと手を振ってから、涙目になりつつ続きを催促する。


「以前、生霧会の組頭の息子が酷い目に合わされたのを根に持っていたようです。それをSNSで姿を発見したことで、報復に動いたのだ、というのが調査班からの報告です」

「でも……、ゴホゴホッ! ……ん、ンンッ! でも、正確な場所など分からない筈でしょう」

「はい、ですので神宮周辺を虱潰しに探した結果、運良く……運悪く見つけてしまったようです」


 馬鹿な事を、と結希乃は吐き捨て、千歳に告げた。


「今すぐ動ける部隊は幾つある?」

「ありません。今日は全て取引の方へ人員が割かれています」


 そうよね、と頷きながら、結希乃は舌打ちしたい衝動を必死に抑え込んだ。

 だが動いて貰わなければならないだろう。彼女らの力がどの程度のものか、その正確なところまでは分からない。

 しかし報告書を読んだ限りでは、その気になればビルなどものの数分で半壊させる事も可能な者たちだ。


 もし生霧会に対する報復へ動かれたなら、今日の取引そのものが中止する恐れがある。

 というより、間違いなくするだろう。

 襲撃を受けたと報告を受けて、それでも取引を慣行するより日にちを見合わせ、より安全で問題ない日時を選ぶ。


「もう既にヤクザ者と甲ノ七は接触しているのね?」

「はい、その内一人を引き連れて、どこかへ移動を始めたようです」

「……車で?」

「はい、向かっている方向だけで見れば、生霧会のビルがある道を進んでいます」

「……楽観できる状況じゃないわね」


 結希乃が難しい顔で口元を引き締めた時、千歳の後ろに立つ人影があった。

 開かれたドアにノックをした上で、部屋の外で返事を待つ。結希乃はそれへ入室許可を与えると、一礼した後で男が一人入ってきた。


「恐れ入ります! 御影日昇大社より、阿由葉様へ勅をお持ちしました!」

「勅を……!?」


 驚愕も顕に声を出したのは千歳だった。

 御影日昇大社とは神宮に次ぐ権威を持つ神社で、そこにはオミカゲ様より信頼厚い大宮司様が住まっている。

 大宮司は神意を受け取り、その指示を出す事を許された特別な存在で、その言葉の重みは神と同等とまで言われる存在だ。


 その者からの命令書――勅を持ってきた、とこの者は言っている。

 結希乃は口を引き絞ったまま頷き、近付いてくるよう促す。キビキビとした動きで机の前までやって来ると、一礼した上で懐から取り出した書簡を両手で差し出す。


 結希乃も両手でそれを受け取り、宛名を確認してから封緘を解除して中を改めた。

 そして読み進めて思わず唸る。


 書かれている内容は、にわかには信じられない。

 信じたくないというのが本音だった。しかし神のご意思とあらば、そのとおりにせねばならない。

 千歳は芳しくない結希乃の顔色を読み取って、恐る恐る声を掛けてきた。


「結希乃様、そこには、何と……?」

「貴女にも全ては話せない。けれど、とっても突拍子のない内容よ」

「つまり……?」

「――これから、生霧会ビルに向かいます」

「しょ、承知しました!」


 千歳はその一言だけで、内容を深く聞くことなく敬礼した。

 彼女も調査の結果を知り、生霧会には苦々しく思っていたのは知っている。それへ襲撃をかける命令を受けたと思ったのだろう。それは間違いではない。


 結希乃は大社からの遣いへ顔を向け、ゆっくりと頷く。


「ご苦労さまでした。退室して宜しい」

「ハッ! 失礼いたします!」


 男がやはりキビキビとした態度で振り返り、退室していくのを見送ると、千歳に扉を締めるように身振りをする。すぐに動いて扉を締めると、元の位置に戻って直立した。

 そこへ結希乃が勅の内容を簡潔に伝える。


「これから行われるのは実戦です」

「……実戦、ですか?」


 先程のビルに向かうという内容と上手く結びつかないのだろう。逮捕に動くのも大変な労力である事には違いないし、戦うような気持ちで挑むものだが、実戦とは違う。困惑するその気持ち、よく分かる。

 首を傾げる千歳に、もう少し踏み込んだ内容を伝えた。


「甲ノ七が、その目標となります。そのついでとして、生霧会の組員全て、そして取引相手となるマフィアの逮捕を並行して行う運びとなります」

「それは……! しかし、どういう事ですか? 今まで生霧会の逮捕に向けて、準備して来たじゃないですか!」


 突然の目標変更と行動の変化は、千歳からしても不本意なものだったらしい。

 結希乃にしても同感だが、ここ最近はこういった内容はよくある事だった。納得できなくとも、そもそも勅が来ている。従う他なかった。


 結希乃は勅以外にも補足として同封されていた封書から、伝えられる部分だけを抜粋する。


「甲ノ七は生霧会を撲滅する為に動いたようです。これを止めるのは難しいともあります。けれど、その為に闇取引まで中止されるのは避けるべき事態です。神刀が海外に持ち出されるのも、これが原因で所在が不明になるのも避けなければなりません」

「はい、仰るとおりです」

「なので、甲ノ七を生霧会ビル内での拘束を試みます」


 今度は異議を示すような態度もなく、千歳は素直に頷いた。


「了解しました!」

「甲ノ七は逃げようと思えば、如何ような手段でも逃げられる、とある。本日用意した人員だけでは足りないとも予想されます」


 千歳としては、その事実を受け入れる事は出来ないのか、返事はなく硬い表情で見返すだけだった。

 結希乃は立ち上がり、そこに決然とした表情で宣言した。


「御由緒家、招集! 即座に学園へ連絡を! 現段階で使える最高戦力で持って、甲ノ七の封じ込め作戦を決行します!」

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