対立 その3

 驚愕にも似た表情をさせながら、ユミルの手からスプーンが零れ落ちた。

 乾いた音を立ててテーブルの上を滑るスプーンを傍目に、ユミルの表情は次第に苦悶へ歪んでいく。


「う、嘘でしょ……!? ひぐぅぅぅ」


 声すら歪んで、ぎこちない。

 手を強く握りしめ、身体を海老のように丸めてテーブルを叩く。壊してしまいそうなほど強い力が込められていたので、ミレイユが拳を受け止め拘束し暴れたがるユミルを抑え込んだ。


「なに! なにこれ痛い! イィィィィ……!」


 身体を左右に振って痛みから逃れようと必死だったが、ミレイユがその全てを上手く受け流してしまうので、実際に見た分には小刻みに揺れるような有様だった。


 だが、その苦痛は長く続かない。

 暴れる内に痛みは減り続け、一度引けば後は早かった。

 肩で息をする程ではないものの、そうしたくなる気持ちも分かる。


 ユミルは恐ろしいものを見るようにカキ氷を見つめ、それからミレイユに非難の目を向け、拘束から抜け出す。


「何てもの食べさせるのよ! アンタ変よ! 悪魔だわ!」

「悪魔なのはお前だろう。疚しい気持ちを持つ、誰かさんが悪いんじゃないのか」


 アヴェリンがミレイユを挟んで、蔑むような視線で笑う。

 その視線に耐え兼ねたユミルは、カキ氷がまだ多く残る盛り皿をアヴェリンに押しやった。


「じゃあアンタも食べてみなさいよ! 疚しい心を持たないアンタなら、さぞ平気で完食されるんでしょうね?」

「む……、いや……しかし」

「あらやだ、食べられないの? 疚しい心を持つって自覚してるワケ?」

「……そんな訳があるか! 食べられる……が! まだ自分で頼んだ分も残っているしな!」


 あらそう、と笑んで、ユミルはミレイユにしだれかかった。


「アヴェリンったら、疚しい気持ちがあるのをアンタに知られたくないんですって。嫌よね、一体どんな疚しい気持ちを心の底に隠しているコトやら……!」

「そんなもの無いと言っているだろうが! ――よこせ、食べてやる!」


 ミレイユの眼前で止まっていたカキ氷を、アヴェリンは手繰り寄せて自分のスプーンでカキ氷に突き刺す。

 突き刺すが、しかしそこからスプーンが動かない。強い葛藤が見て取れたが、ちらりと向けた視線の先にユミルの嫌らしい笑みがあって、意を決したように口へ運ぶ。


 多くを噛む必要のないカキ氷だから、すぐに一口は終わる。こわごわと自身の変化を待っていたアヴェリンだが、何も起こらないと分かってホッと息を吐く。

 だが、そこに愉悦を隠しきれない声音で、ユミルが声をかける。


「駄目よ、たった一口で済まそうだなんて。ちゃんと四口くらいは食べてくれないと」

「よ、四口もか……!」


 アヴェリンの心底は分からないが、その言葉は強い恐怖を感じさせたようだ。

 震えるスプーンが皿の底に当たってカチカチと音を立てる。一度大きく息を吸い、意を決して口の中に入れた。

 数度噛んで飲み込み、伺うようにユミルを見れば、早く次を食べろを催促してくる。


 アヴェリンの呼吸は荒い、葛藤は強くなっているようだ。

 店内はひんやりと冷たい空気が漂っているが、明らかにそれとは違う顔色を見せている。

 再び意を決し一口、嚥下が終わって更に一口、そしてそれも飲み込んでしまうと、荒い呼吸のまま自身を見下ろした。


「ああ、何だ……何とも無い。そうとも、私に疚しさなど……、ンギ!?」


 一秒経っても何も起こらない事に安堵した直後、アヴェリンの顔が歪む。

 頭を抱えて身体を丸め、喉の奥から声を絞り出す。


「あ、あがぁぁぁぁあ……!」

「あーっはっはっは! ホラ、御覧なさいな! あれが疚しい気持ちを持つ者の苦痛よ!」


 ルチアやアキラに首を廻しながら、ユミルはアヴェリンの苦しむ姿を指を差して笑う。

 何も言い返せないまま、苦痛に喘いでいる時に、横合いから声がかかる。


「お待たせしました、こちらお茶です」


 実に良いタイミングで来た店員に謝意を示すように頷く。店員も心得たもので、かき氷を食べて苦しむアヴェリンの前にお茶を置いた。


「ゆっくりとお寛ぎ下さい」


 店員は一礼して去っていくが、アヴェリンにそれを気に掛ける余裕はなかった。

 湯呑を掴み取って、苦痛に歪めた顔のままお茶を啜る。それが功を奏したのか、あるいは単にタイミングの問題か、アヴェリンの表情が緩やかになった。


 ホッと息を吐いて、もう一口お茶を啜ってから慚愧に堪えないと言った表情でカキ氷を睨みつけた。


「よもや、私があのような醜態を晒すとは……! 私は自分が恥ずかしい……!」

「いやぁ……、そろそろネタバレして良いんじゃないですかね……」


 アキラが顔色を伺うように、恐る恐るミレイユを見た。

 ミレイユは眉の上辺りを指先で掻き、敢えて窓の外へ視線を向ける。


 何やらチンピラ風の男どもが忙しなく動いているのが見えたが、そんな事はどうでも良かった。

 ユミルが詰めるように身を寄せ、顔を近づけてサングラスの下から覗き込むように睨んで来る。


「ちょっと、アンタどういうコトよ? まさか、また謀ったんじゃないでしょうね?」

「謀ったとは大袈裟だな。私は何も嘘など……」

「へぇ……? 言ってない? ホントに? じゃあ、こっち見なさいよ。――見ろっての」


 あくまで視線を向けないミレイユに、ついにユミルは肩を掴んで揺さぶった。しかしそれでも、頑なにミレイユは窓の外を見つめる。

 それを見ていたルチアは呆れた息を吐いて、隣のアキラに問いかけた。


「それで、実は気持ちを判別だとか疚しいだとか、そういうのは全くの嘘って事でいいんですか?」

「ええ、はい、……そうですね。急激な冷たさが痛みに変換されて、脳に伝わって起きる頭痛だって言われてて……つまりタンスの角に、足の指をぶつけた程度に思っていればいいかと」

「冷たいものを食べるだけで、そんな事になるんですね……」

「ごく単純な反応ですから、ゆっくり食べるとか温かい物と一緒に食べれば、まず大丈夫ですよ」


 理解が進めば、恐ろしく思えたカキ氷も食べる気になるらしい。

 アヴェリンが遠くに押しやった事でテーブル中央にあったそれを、自分の手元に引き寄せた。テーブルに落としたスプーンをペーパーナプキンで拭ってから、改めて口に運ぶ。


「実際、味はいいんですよね。好みの味です」

「それは良かったな」


 ミレイユは微笑みを浮かべてルチアを見るが、ユミルはしつこく食い下がってくる。

 事情を知った事で、尚更気に食わない気持ちになったらしい。決して視線を合わせようとしないせいでムキにさせてしまっていると分かるのだが、しかしここで顔を向けても面倒になるのは分かっている。


 アヴェリンの方に顔を向けても、流石にこれは自業自得と思っているのか助け舟は出してくれない。手元にあった二つ目のお茶を、アキラ経由でルチアに渡していた。


「大体、何であんな下らない嘘吐くのよ。前にも似たような事されたけど」

「面白いからだ。――いや、何でもない」

「は? 面白いから? 面白いって言った? ――お?」


 ユミルは下から舐めるように睨みつけてくる。仕草や口調までチンピラめいてきて、これ以上ふざけるのは流石に拙いと思い直すに至った。

 ミレイユはようやくユミルに顔を向けて、頷く仕草で謝罪した。


「悪かった。少し悪ふざけが過ぎたな」

「……フン! まったくね。ちょっとこっちの常識に疎いからって、それを使って馬鹿するなんて大概になさいな」

「いや、お前もお前でアヴェリンに指差して笑ってただろう」

「アタシはいいのよ」


 ユミルが口の端に笑みを浮かべるのを見て、ミレイユは肩を竦める。

 アヴェリンも残していたあんみつを食べ終わり、湯気の立つお茶を美味しそうに啜っている。

 ルチアも氷部分が殆ど残っておらず、底に残ったシロップをどうしようかと悩み、結局あとはお茶を飲んで、冷えた身体へ幾らか熱を取り込む事にしたようだ。


 美味しそうにお茶を飲みながら、ルチアは名残惜しそうにカキ氷が盛られていたガラス製の容器を見つめる。

 それを見たユミルが悪戯をする時のような表情で笑った。


「アンタ、気に入ったからって自分でカキ氷作ったりしないでよ」

「おや、その手がありましたか」


 ルチアにしては珍しく、ユミルの軽口に乗っかった。

 彼女は魔術に対して真摯な姿勢を見せるから、仮にカキ氷を作れるにしても実行に移す事はしないだろう。それが分かっているから笑っていられるが、しかし言葉を本気にしたアキラは難しい顔でルチアを見つめていた。


 本当にやるなら止めた方がいいのか、と常識的にはどちらが正しいのかと迷っている顔だ。

 ミレイユはそれに笑い飛ばして、自分のコップに口をつける。


「そう心配そうな顔をするな。どちらも本気で言ってる訳じゃないからな」

「……いや、ですよね。そうだとは思ってましたけど」


 ミレイユが常識を使って、言葉巧みに騙したのを気にかけていたせいもあるのだろう。黙ったままだと気が引けるとでも思ったのかもしれない。


 全員の食事が終わった事だし、後はお茶も飲み終われば席を空けねばならない。

 狼園で騒ぎを起こした時、その場にいた参拝者も今は近くにいないだろう。動くというなら、良い時間かもしれない。


 ただ、それと関係あるかは分からないが、どうも目につく人種が先程から店の外を横切っていく。関係あろうとなかろうと、どうにでもなるものだが、さてどうしたものかと考える。

 そうしながら、ミレイユは会計を済ませるようにルチアへ指示した。


「さて、腹の具合に問題なければ、そろそろ移動しよう」

「今日の予定はもう済んだんですよね?」


 アキラからの質問に、ミレイユは頷く。

 見たい事、知りたい事の情報は手に入った。予想以上の収穫であったのは有り難いが、しかしそれで、これからの立ち位置に少々修正を加えなければならなくなった。


 考え直すというと大袈裟だが、少し思慮深く動く必要はある。

 結界、電線、魔物、質屋、店員、そして屋上から見えた人影。

 思い返す程に、それらを繋いで考える程に、自説の裏付けが取れるような思いがした。

 考えを纏める時間が欲しいのは確かだが、と思いながら窓の外へ意識を向ける。


「新しく予定が出来たかもしれない。とりあえず、歩きながら考えよう」


 その不思議な言い分にアキラは首を捻ったが、異論を唱える立場にないと理解していて、だから素直に頷いた。

 他の面々も似たようなものだったが、ただ一つ、敵意ある視線には気付いていたから、それ絡みだろうと察しが付いている。


 ミレイユが立ち上がる素振りを見せれば、それを皮切りに全員が立ち上がる。ルチアが伝票を手に持って、後へ続くようにレジへ向かった。

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