御影神宮 その8
入って直ぐの場所には売店があり、そこで餌を買う事が出来るようだった。
ここにいるのが参拝者なのか観光客なのかは分からないが、狼に餌をやりたいと思うのは果たして信仰心から来るものなのか。
ユミルは元よりミレイユも売店には目もくれないので、アキラも通り過ぎるだけで盛況な様子の売店を見るに留める。
ここにも小さな拝殿があって、着色のない御影石で作られた鳥居の両脇には、狛犬ならぬ狛狼が鎮座していた。
ここはオミカゲ様ではなく、八房様を奉る神社なのだ。表の本殿に比べ小さいのはそのせいで、本来なら一柱の神として奉られてもおかしくないのに、オミカゲ様の眷属としてある為、このような形になっている。
拝殿の隣には木の柵で囲った狼園があった。
身を乗り出したり手を出したりすると危険だろうに、柵の高さは腰程までしかない。他の神社の鹿園では、安全対策としてまるで牢屋のように高い鉄の囲いを用いているものだが、ここでは開放感があまりに大きい。
狼園の背後は林が広がり、何か遮るものさえない。
柵も林の外縁から半円を描くように設置されていて、狼たちが過ごす場所は基本的に林の外だ。
人の出入りを制限するよう枠組みは作られているものの、狼がその気になれば柵を潜るなり飛び越えたり出来るし、奥の林から大外回りでやって来る事も出来る。
人が林に入らないようにしていても、しかし狼を制限をしていないという事は、それだけの危険がない、事故が起きた事がないせいだろう。進んで殴りつけるような参拝者はいないし、道理を知らない観光客でも、そのような蛮行をすれば他の信者が黙っていない。場合によっては、その場で折檻という事もあり得た。
狼園で餌をやる場所は限られていて、通行の邪魔にならない場所に限られる。
アキラ達のように餌やり目的でないなら、柵の中央付近で狼の姿を自由に見られた。
ユミルが立ち止まった横に、ミレイユも立って柵の上に肘を乗せる。腰を屈めて、遠くに見える狼たちを興味深げに見つめた。
「あれってホントに狼? まるで犬じゃないの。随分とまぁ、無防備な姿を晒すコト……」
「子供が入り込んだらどうするつもりだろうな」
実際、子供が手を滑らせた事例は幾つかある。
しかしそれが事故に繋がったり、狼に噛みつかれた事は一度もない。まだ幼い子狼がじゃれついた事はあるが、母狼が子供を咥えて外に移動させた事すらあった。
それは実際映像で証拠として残っていて、アキラも随分前に一度見た経験がある。
「危険がないのも、ここが人気の理由かもしれませんね。同じような感覚で、他の森で見つけた狼に寄っていったら、という怖さはありますけど……」
「そんなトコまで面倒見れるものか」
「それはまぁ、そうですね」
アキラが苦い顔を見せて頷いた時、ミレイユの動きが止まる。
ミレイユは狼をよく見ようと、身を起こして柵から乗り出すように前へ出る。横に立っていたアヴェリンが、一応その肩を抑えたが、すぐに乗り出した身体を元に戻す。
一体何が気になったのだろうと聞こうとして、それより前にあちらから驚くような声音で問われた。
「一応聞くが……あれ、ニホンオオカミじゃないのか?」
「そうですけど……?」
アキラにとっては見慣れた体躯、海外で見られるようなガッシリとした体つきではなく、むしろ犬に近い。体長一メートル程、尾長は約30センチ、肩高約五十センチで、中型犬に近い大きさだ。
尾は背中側に湾曲し先は丸まっていて、耳が短いのも特徴の一つで、吻は短く日本犬のような段は見られない。
アキラの何気ない一言に、ミレイユは心底驚いたようだった。
改めてマジマジと狼を見つめ、感心したように息を吐いた。
「絶滅危惧種に指定されていたりとかは?」
「それも別に……。日本の多くに分布されてるんじゃないですかね? 野生の狼は凶暴ですけど、昔は犬と間違えられて飼育されるケースもあったらしいです」
「そう、か……」
「どうしたんです?」
いや、と頭を振って、それきりミレイユは押し黙ってしまった。
ルチアは動物が好きなようで、ユミルの横に立って狼を指差しては笑顔を見せている。互いにスマホを使う仲で、よくアキラの部屋で一緒にいるから共にいる光景はよく見かける。
論争めいた言い争いも絶えない二人だが、仲が良いのは確かなようだ。
アキラはアヴェリンの隣に立ち、同じく狼たちの様子を見る。
風が出てきたのか木の葉が擦れる音が聞こえ、まるでさざ波のような音を奏でる。しかしその直後、何かがおかしいと思い直した。
単に風で揺れるだけにしては、やけにその間隔が狭い。
まるで人が背の高い草原を掻き分けるような音に聞こえ、思わず視線を木々の高い位置にある葉へ向けた。
「何だろう……? これ何ですかね?」
ざわざわと木々が騒いでいるようですらあった。
隣のアヴェリンに顔を向けると、険しい目つきで狼園の向こう――林の奥を睨みつけている。ユミル達も同様で、ミレイユもまた柵から肘を離して背を伸ばして警戒していた。
狼園の中心近くにいた狼たちは走って端に寄り、腕を前に出して伏せをする。
その姿はまるで頭を垂れて土下座するようにも見え、これから来る何者かへ敬意を向けているようにも感じられた。
そこまで考え、ハッとして視線を木々の葉から樹木の奥へと変える。
「まさか――!」
樹木の幹よりも遥かに上、遮られた葉の間から、余りに巨大な鼻面が押し退けて出てきた。
黒い鼻先に白い顔、開いた口からは大きな舌が覗いていた。
それがまるで、葉そのものが避けていくように全貌を現す。
アキラが想像していた姿と相違なかった。その巨体は二階建ての民家ほどもあり、白い毛並みは美しく、その神威すら感じて身体が震える。
どこからともなく悲鳴とも歓声とも聞こえる叫びが上がった。
スマホを掲げて写真か動画を撮るような者もいる中、平伏して頭を下げる者もいる。そして神狼の双眸はぴたりとミレイユに視線を固定して、狼園に足を踏み入れた辺りで動きを止めた。
「八房様……!」
誰ともなく声を上げ、その御名を呼んだ。
アキラは生唾を飲み込み、柵から一歩身を離した。隣にいたアヴェリンが動かないのは、ミレイユがその動きを制したからだというのは、後ろへ下がった事で理解した。
アキラはどうしたらよいものか、身体を震わせる事しか出来ない。
身体が震えるのは恐怖からではない、出会えた幸運に喜んでいる為だ。
改めて見ると、やはり大きい。樹木の高さは五メートル程だが、肩高は優に三メートルを超える。鼻頭の大きさは人の頭程もありそうだった。
そして、その凛々しい顔――。
ニホンオオカミは時に犬と間違われるほど、狼に似ていない。しかし目の前にいる八房様はシンリンオオカミ、あるいはアラスカオオカミのような精悍さがある。
更に一歩、また一歩と近づいて、ミレイユとの距離が後僅かなところで立ち止まり、威嚇するように身を屈める。
「あぁ……!」
多くのざわめきが辺りに響いた。
アキラも声を出してしまった一人で、何しろ八房様がその尾を持ち上げ広げたとあっては、動揺しない方が無理というものだった。
まるで扇のように広がる八本の白い尾が、なぜ八房という名前なのかを物語っている。尾の先はまるで燃えるように赤く染まり――、いや染まっているのではない。実際に燃えているのだ。
参拝客の一人が拝みだすと、それにつられて多くの人が頭を垂れて祝詞を唱え始める。
それが引き金となったかは不明だが、八房様は尾を畳み、再び歩みを始めて近づいてくる。
既にアキラの視界は白い毛皮に覆われ、日差しはその巨体に覆い隠されてしまっている。息は乱れ身体が震え、また一歩と後ろに退がってしまった。
祝詞が朗々と響く中、八房様は更に近づき、その鼻面をミレイユに押し付けた。
黙っていられないアヴェリンが武器を抜こうと個人空間に腕を差し入れた時、ミレイユが再びやめろと合図する。
アヴェリンは身構えた格好のまま、その動きを止める事になった。
「どうした、お前……」
ミレイユは優しく問いかけて、その鼻面を好きにさせ頬や肩に擦り付けられる。
スンスンと鼻を動かし、一度離れてから乱暴にも思える仕草で胸元辺りに鼻を押し付けた。
ミレイユは片手で抑えながら、その側面、口の周りを撫でる。
八房様の鼻息は荒くなり、だらしなく開けた口から舌がだらりと落ちた。尚も心得たように撫でていると、機嫌を良くしたように見えた八房が甘えた声で鳴いた。
「ああ、そうか。よく分かった……」
何事かに理解の色を示したミレイユの声は、どこまでも優しかった。
口元をポンポンと叩けば、それで満足したのか鼻面を離す。それから二歩、三歩と後ろ向きに動いてから踵を返し、林の奥へ堂々とした足取りで消えていく。
祝詞が聞こえるなか、誰もがその後ろ姿をただ見送る事しか出来なかった。
誰かが顔を上げ、そしてミレイユへと視線を転じた時、林の奥から朗々とした遠吠えが飛び出してきた。
「ウオォォォーーン!」
木々を揺らし、葉を揺らし、鼓膜を揺らす大音量だった。
思わず目を瞑って耳に手で蓋をした時、横合いから身体を引っ張られて態勢を崩す。何がと思う暇もなかった。アヴェリンに引っ張られ、身体を持ち上げられていると分かったのは、人々の間を縫って走り抜けた後だった。
狼園を一足飛びで抜け出し、参道を歩く人々さえも、その大音量の遠吠えに目を向けている。その目を避けるように移動し、十分な距離を離してから、ようやくアキラは開放された。
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