魔力と鍛練 その2

 朝食はいつも軽いものだが、未だ育ち盛りのアキラには物足りないかと幾つかボリュームを増やすことで対処し、実際それに満足したアキラが満面の笑みで完食した。


「ごちそうさまでした!」


 朝食を用意したルチアからは澄ました顔で頷くだけの返事があって、用意した訳ではないが家主のミレイユが頷く事で返事とする。

 そしてアキラが改めて頭を下げた。


「昨日は寝床を用意していただいて、ありがとうございました!」

「あぁ……。律儀だな、お前も」


 その事は朝食の席にでも、と言ったのはミレイユだが、実際のところ改まった礼を言われるのがこそばゆかったから、ああ言ったに過ぎなかった。

 忘れていればそれでも良いという程度のものだったが、何事かにつけミレイユに対する敬意を尊重するアヴェリンが、それを許さぬ筈もなかった。


 別段、食事中にしろアヴェリンから鋭い視線が飛ぶような事はなかったが、帰るまでにその感謝を口にしていなければ、おそらく叱責が飛んでいただろう。


 朝食が済めば、後は食後の一服でもしながら過ごすのが慣例である。

 最近はミレイユがコーヒーを飲むのを好むので、それを真似して他の者も飲み始め、今ではすっかりそれが定着してしまった。

 ユミルだけが口に合わず、それで紅茶を飲んでいる。


 今日も高級そうなソーサーと一揃いのカップを口元まで持っていき、香りを楽しんで一口啜る。音を立てるような無作法はしない。香りと苦味を舌で感じ、鼻孔もまたその香りでくすぐられるのを感じながら喉の奥へ落とす。

 手に持ったカップの中に揺れる黒い液体を見つめて、満足げな息を吐いてから、感じる視線の方へと顔を向けた。


 何故だか、顔を上気させて口を開けては眺めているアキラが、そこにいた。

 すかさずユミルから爪先で突かれたらしく、顔を歪めて今更ながらに自分のカップに手を付ける。

 ミレイユは自分の頬に手を当てながら、傍らのアヴェリンに聞いてみた。


「そんなに変な顔をしていたか?」

「滅相もございません」アヴェリンは首を横に振る。「大変満足そうなお顔でしたが、アキラめはそれに只ならぬ共感を得たようです」

「……そうなのか?」


 ミレイユにはとてもそうは思えなかったし、アキラもアキラでそうと思っているようには思えなかった。しかし返ってきたのはアヴェリンに同意するもので、必死に首を縦に振っている。


「ええ、はい。もちろんです。美味しいコーヒーですし! 僕も美味しいなぁ、と思ってました……!」

「近所のスーパーで買った、レギュラーの安いやつだが……?」

「気分一つで美味しくなったりするんでしょ。カップが高級だと、中身まで美味しく感じたりするものねぇ……?」


 ユミルが水を向けると、アキラがそれに食いついて何度も頷く。

 それ以上追求しても面白くなるとは思えなかったので、ミレイユはとりあえず納得し、再びコーヒーに口を付けた。

 それを見ながら、ユミルはうんざりしたように顔を歪める。


「しっかし、よく飲めるわね。苦いだけの液体じゃない。何でそれが美味しく感じるワケ?」

「ただ苦いだけじゃないからだ。香りも同時に楽しむものだ」

「色も黒いし」

「別に色はどうでもいいだろう。黒いから美味いと思ってる訳でもない」


 ミレイユの返答に、それでもユミルは納得いかないようだった。

 ここにいるのはユミル以外全員がコーヒー党で、唾棄するように嫌うのはユミルだけだ。正直なところ、他の面々についてもそれ一辺倒という訳でもなく、飲みたい気分の時に合わせて変えている。

 ユミルだけがコーヒーを飲めず、それで疎外感を受けているのかもしれないが、しかしそれに忖度してコーヒーを切るつもりもなかった。


 アキラもまたコーヒーに口をつけるのを見て、ユミルがうんざりしたような顔をする。


「何がアンタをそこまでさせるのよ。そんなに苦いの好きだったら、トロールの胆汁でも持ってくる?」

「いりませんよ! ミレイユ様が言ってたじゃないですか、ただ苦いだけなら誰も飲みませんよ」

「そうは言っても……」


 ルチアまでカップに口をつけるのを見て、ユミルはとうとう舌を出して顔を背けた。

 味と臭いがそこまで彼女自身を拒否させるのは、彼女の種族として味覚に問題があるのだろう、とミレイユは思っている。

 特に黒色の物を、口の中に入れる事に忌避感があるようだ。

 特に長く生きてきたユミルだから、食べる物も少ない昔、食うに困って口に入れて酷い目にあった事でもあるのかもしれない。


 だったらこちらの事は無視して、自分の好きな物を飲んでいればいい、と思うのだが、そこに口出ししないと済まない何かが彼女の中にはあるのだろう。

 食後のコーヒーを止めるつもりはないので、ユミルには我慢するか慣れてもらうしかないと思っていると、ルチアが席を立った。


 そして少し離れた場所から、何かを手に取って戻ってくる。

 自分の席に座る前に、それを丁寧にミレイユの前に置いた。


「これ、この前言っていたやつです」

「ああ、ありがとう」

「どういたしまして」


 一言礼を言えば、にっこりと笑って自分の席に戻る。

 ミレイユはそれを手に持って一度広げ、見たい面を上にしてから半分に畳み、それをテーブルの上に置く。

 一緒に持ってきてくれた羽ペンとインク壺も、使いやすいよう位置をずらし、いざ羽ペンをインクに浸したところで、アキラから声がかかった。


「……それ、何ですか?」

「これか?」


 アキラの問いに目線だけ上げて、テーブルの上に広げた物を指さす。

 何度となく頷きが返ってきて、ミレイユの方こそ首を傾げた。

 むしろアキラならば見慣れているものだ。一人暮らしをしているなら、頼りにする機会も多いだろうに、何故今更それを聞くのか疑問だった。


「今日のチラシだ」

「え、何です? チラシ?」


 そこまで言っても、まだ理解できていないアキラに、チラシを持ち上げて見せてやる。

 そこには近所のスーパーで行われる、今日の特売チラシがあった。

 あった、という表現は適切ではない。威風堂々とあった、と言って良い。

 我が家の家計を助ける、頼れる相棒でもあるのだ。基本的には新聞に折り込んで入っているものだが、店頭にも自由配布として置いてある。


 先日の買い物の折り、それを見つけて持ち帰っていた。

 次のセールがあったら逃すまいと、目立つところに置いておいて、当日になったらチェックするとルチアにも言い渡してあった。

 それをきちんと忘れず、ルチアは果たすべき役目を果たしたのだ。


 ミレイユは再び、その感謝と労いを向けて頷きを返す。

 ルチアにはよく伝わっていなかったらしく、困ったような笑みを浮かべて頷きが返ってきた。


 こちらの意が伝わらなかった事に少々残念に思いながら、チラシを見せても相変わらず怪訝な表情をしているアキラに向き直る。

 ここまで見せて理解できないというなら、もしかして新聞を取った事がない家庭だったのかもしれない。縁遠い物で見たことがないというのなら、その反応にも納得がいく。

 ミレイユは小さく咳を――少々わざとらしくして、チラシの解説に移る。

 見やすいように持ち替えて、商品の乗った写真と数字を指さした。


「いいか、これはスーパーで特売をする時に配られる媒体で、通常よりもずっと安い値段を教えてくれる――」

「いえいえいえいえ! チラシの意味は知ってます、そこじゃないです! 何でそんなのがあるのかなぁ、と思って!」


 アキラが焦って首と両手を横に振って見せたが、そうでないなら、ミレイユにもアキラの言っている意味が分からない。

 チラシをテーブルの上に戻し、再び羽ペンを手に持つ。余計なインクを落としてから、紙面の獲物に目を凝らした。


「いやいや、なんで無視するんですか! 何でそんなものが?」

「うん……? まぁ、確かにこの現代的過ぎる紙は、この邸宅に相応しくないかもしれないが」

「紙がっていうより、その庶民の味方って感じのチラシが場違い過ぎるんだよなぁ……」


 ミレイユは眉根を寄せて、チラシとアキラを交互に見る。

 目を瞠るほど見事な装飾品と西欧風を思わせる衣服、広いという程ではないが、清潔で整えられたダイニング。そしてそこを取り囲むように用意された高度な調度品の中にあって、確かにスーパーのチラシは異彩を放っていた。


「……何が問題だ」

「いや、問題はないですけど……。持ってるのは羽根ペンだけど、欲しい物に丸つけておくなんて、まんま主婦だし」


 その一言に、思わずミレイユの動きが止まる。動きばかりではなく、呼吸まで止まった。

 そこに何かを思い付いたらしいユミルが、にやにやとした笑みを浮かべて言ってきた。


「ちょっとママ、アタシ甘いものが欲しいわ」

「あ、それなら私も。最近チョコってやつが美味しいなぁ、と……」

「うるさいんだよ。菓子の特売なんてやってないんだ、そんなの今日はパスだ」


 ルチアに厳しい物言いはし辛いから、特別ユミルに向かって険悪な視線を叩きつけた。

 そして再びチラシに目を落とし、溜め買いしたいもの、安いが限りもありそうなものをチェックしていく。


「むぅ……、キャベツは買いだな。豚肉のベーコンも……、ウィンナーも安いのか。どちらにすべきか……」

「どっちもは?」

「――どっちかだ!」


 ユミルの呟きには一喝で返して、チラシに目を戻した時、アキラからか細い声で問いが来た。


「もしかして、家計……苦しいんですか?」

「は? まさか、そんな訳あるか? 我が家の家計が苦しいなどと……?」

「いや、まぁ、そうですよね。一日で百五十万稼げるようなルチアさんがいる訳ですし」

「別にあれは一日で作れるような物じゃないですけどね……」


 ルチアが不快なものを口にするように顔を歪めた。

 しかしミレイユが、その発言を掻き消すような声量でアキラの発言を肯定した。


「そうだ、金銭的な余裕はまだまだある。節約や倹約をするという程、追い詰められてはいない」

「ですよね」


 アキラは笑って頷いた。ミレイユもまた頷き、ついで真剣な面持ちで一歩近づくように顔を前に出す。


「ところでアキラ、今日の帰宅は何時頃だ?」

「え、割と早いと思いますけど。今日は道場もないですし……。あ、また何か鍛練のことで?」

「いや、お一人さま一パック限りのたまごを、お前にも買わせようかと」

「……本当に家計、大丈夫なんですよね?」

「なんだ……? 家計に余裕があったら、節約や倹約はしなくてもいいと?」

「いえ、別に! そういう訳では!」


 アキラは慌てて否定したが、その心底では疑問や疑惑が渦巻いているのがありありと見えた。

 実際、まだ家計が火の車という訳ではない。そもそも収入がないので回す車すらないというのが現状だ。だが、毎日少しずつ擦り減る貯蓄を、少しでもマシにしたいと考えるのは家長として当然のこと。


 未だ大きな収入源も見つからず、また当てもない現状では、大きな出費は避け、また避けられない出費も抑えるよう努めなければならない。

 だから、こういったセール情報は逃さずチェックし、涙ぐましい努力を続けているのだ。


 アキラは額に汗を浮かべながら、申し訳なさそうに頭を下げた。


「いくら早いとはいえ、その在庫が捌けるより早く帰ってくるのは難しいと思います」

「……やはり、そうか」


 ミレイユは羽根ペンをインク壺に戻し、ため息を吐いて腕を組んだ。

 仕方ないから魔術で外見偽装でもして乗り切るしかあるまい、と考えていると、アキラが席を立って頭を下げた。


「そろそろ登校しないといけません。申し訳ありませんが、朝の内はこれで……」

「そうか、そうだな……」


 ここに時計はないが、スマホを持ってるアキラなら時刻は把握しているだろう。まだちらりとも覗いた形跡は見えなかったが、実際そろそろいい頃合いの筈だ。


「では、行って来い」

「はい、いってまいります!」


 アキラが頭を上げたところで、横に座っていたアヴェリンから声がかかった。


「早いというなら、帰ってきてから続きをやる。今のお前は伸び盛りだ、時間があるなら少しでも伸ばす」

「分かりました、急いで帰ってきます!」

「――ああ、そうだ。間違ってもヒトを殴るような真似をするな」

「分かってます!」


 アキラは苦笑いして右手を握っては閉じを繰り返し、再度一礼して邸宅から出ていく。

 最近加わったこの慌ただしい時間は、ルチアは嫌っていそうだが、ミレイユは中々気に入っている。とはいえ、表立って口にしないものの、誰もが余計な人を招きたくないと思っているのは理解していた。


 今後は邸宅まで招く回数は減らすべきか、とチラシを睨みながらミレイユは思った。

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