実践 その5

「師匠……」

「ようやく来たか。……何だ、その顔は」


 アキラの泣き腫らし、平手で頬を腫れさせた顔を見て、アヴェリンは怪訝な表情を見せた。だが、すぐに気を取り直してトロールに向かって顎をしゃくった。


「早く相手をしろ。トロールも戦ってみると、案外大したことなかっただろう?」

「いやいや、全然! 滅茶苦茶苦戦しましたし、何度も死ぬと思いましたよ!」

「そうなのか……? だが五体満足でいるじゃないか」

「いや、単に運が良かっただけで、一つ間違えれば死んでいました! なのにまだ戦えっていうんですよ!」


 アキラの必死の抗議も、アヴェリンには全く響かないようだった。

 返答は、鼻を鳴らしただけで終わりだった。

 予想できた事ではある。アヴェリンがアキラに優しかった事は一度もない。しかしそれは愛のある訓練だったが故だと、今では理解している。

 今日一日だけを見ても、アヴェリンが与えてくれた戦訓はアキラを何度も助けてくれた。

 ――しかし、とはいえ。


 何一つ心動かされていない様子を見るのは、心に痛かった。

 今にも泣き出しそうな目で見ても、何の反応も示してくれない。何一つアドバイスもなかった。

 アキラが刀を握って構えるのを見るや、アヴェリンは背を向けて離れていってしまう。


 目の前にいるトロールも困惑して、どうしていいか分からないでいるようだ。

 その気持ち、今のアキラにもよく分かる。

 どうして今更戦わなくてはならないんだ、とその目が言っていた。いっそこのトロールと同盟を組んで反旗を翻してやろうか、と思ったが、どうせ一撃で倒されて昏倒させられる未来しか見えず諦めた。


 アキラの体調だって万全ではないが、トロールも散々打ちのめされて万全ではない筈だ。

 刀の切っ先を数度上げ下げしてやると、相手もこちらの意図を汲み取ったらしい。やる気のない仕草でのそのそと立ち上がり、形ばかりの咆哮をして威嚇してくる。


「ゴォ……」


 どうせ何も出来ない、と理解しているのかもしれないが、アキラとアヴェリンでは比較にならない戦力差があるとまでは理解していないらしい。

 拳を力なく振り上げるのを見て、アキラも形ばかりに構えを直す。


 その緩みきった空気を斬り裂いたのは、一瞬で接近したトロールの一撃だった。

 明らかに油断していたアキラは、その一撃を躱そうと身を捻り、そのまま回転する動きのままトロールの足首を斬りつける。


 悲鳴を上げて倒れるトロールを見ながら、アキラは荒い息を吐いていた。

 まるっきり油断していた。お互いにやる気がないのだと思っていた。しかし違うのだ。恐らく、このトロールはアキラの一戦を見ていた。

 そして油断させれば倒せると踏んでいたのだろう。

 だから、あれほど緩慢な動きを見せながら、あと一歩のところまでアキラに迫って見せた。


 トロールが単純で馬鹿な魔物ではないと、先程の戦いで理解していた筈なのに、アキラはそれを単にやる気を見せないからと油断していた。

 そして、その油断で今まさに死ぬところでもあったのだ。


 躱せたのは偶然だ。ほんのささいな女神の気まぐれ、それでしかない。

 未だ激しい動悸が、それを物語っている。


 咄嗟とはいえ、その反撃に足首を狙えたのも幸運だった。

 膝をついたトロールに接近すると、後ろを振り返りながら拳を振るってくる。それに身を低くして回避すると、更に一歩踏み込んで接近し、もう片方の払うような動きで振るわれた腕も躱す。


 ここでアキラは自分が驚くほど冷静に、的確に敵の動きを躱して接近できている事実に驚いた。

 敵が得意な距離でないせいか、それとも良く目で見ているせいか、とにかく攻撃を躱す事が難しくない。

 未だ片膝をついているが、トロールの治癒能力があれば、既に治っていても不思議ではなかった。むしろまた意表をつこうと、治っていないフリをしているのかもしれない。


 アキラが更に近づき、その屈んだ膝に近付いた時、やはりトロールは立ち上がろうとした。

 しかしその動きが、アキラにはひどく緩慢に見えた。治ったとはいえ万全ではないのかもしれない。

 アキラはその膝頭に爪先を乗せ、そのまま駆け上がるように膝から太腿へ移ると、胸板を蹴って飛び上がり、その勢いのまま頚を切った。


「……え?」


 何の造作もなく、あまりにも呆気なく、二体目のトロールを仕留めてしまった。

 崩れ落ちる巨体と、ごとりと音を立てて落ちる首。そして吹き出す血流の音を聞きながら、呆然として死体を見つめる。

 痙攣が止まると共に消えていく死体を、それでも動くことなく見つめながら、自分が何をやったのか理解できず硬直していた。


 全ての魔物を倒したことで、結界が割れ、外の世界へ放り出される。いつか誰かが言っていた。後片付けをしなくて楽が出来ると。そればかりではなく、周囲を気にせず戦えるのも大きな利点だと思った。結界内で起きた破壊は解除されれば全てなかった事になる。この全てが元に戻る光景を見るのは何度目かになるが、もし知らなければ大きなハンデになっていたのは間違いない。


 気づけば、アキラの近くにはユミルとアヴェリンが立っていた。

 とりあえず刀だけは鞘に収め、呆然としたまま二人へ顔を向けると、得心したかのような顔でアヴェリンが頷きを見せてきた。


「……ほら、どうだ。案外大したことなかったろう?」

「え、いや……。どうなったんです、これ」

「アンタが倒した、それだけのコト。出来るって、皆分かってたのよ」

「だから、あんな強気で行かせたんですか……?」


 アキラの呆然とする顔を見て、ユミルはからからと笑う。


「そりゃそうでしょ。じゃなきゃ行けとは言わないわよ」

「いや、あの言い方は絶対誤解しますよ……。でも、そうなんですか? 師匠も?」

「一目見れば、どの程度の力量を持つか分かるものだ。ひとつトロールを仕留めて、ようやく踏み出したな。敵の動きが緩慢に見えなかったか?」

「見えました。でも敵が本調子ではないのかと……」


 アヴェリンは真剣な目をして首を横に振る。


「確かに大人しくさせる為にアレを痛めつけたが、それはお前が来る三分以上前の事だ。それ以降は暴れることもなく、ただ傷を癒すことに集中していたようだな。三分もあれば、トロールは大抵の傷を全快させる。お前が相手したのは万全の状態のトロールだった」

「そんな……それじゃ……?」

「それが、お前の実力だ。戦う前、お前は扉の前に立っていたに過ぎない。魔術士としての、内向魔術を扱う、その扉の前に」


 アキラはとりあえず頷く。

 結界に入る前のことだ。腹に一撃を加えられ、悶絶すると共に魔術の発動を助けてもらった。今その事を思い出していた。


「いいか、立っただけだ。扉の鍵は開いていて、扉を開きもしたが、お前はその中に足を踏み入れていなかった」

「じゃあ……、あの時僕が感じていた力は……」

「それがどんなものか、私には分からないが。だが一つ言えるのは扉から漏れ出るものを、それと勘違いして使っていただけだ。内向魔術は口で言われて納得して使うものじゃない。お前も今とその前、その違いを上手く説明する事ができないだろう?」


 アキラは己の両手を広げて見つめた。

 特に変わった実感はない。アヴェリンが言うとおり、何が違って何が変わったのか説明できる気がしなかった。

 だが、違う。それだけは分かる。


 拳を握ってアヴェリン達とは違う方向へ拳を放つ。

 ろくに殴り方も知らない、素人の拳だった。素早くはあるがそれだけで、プロのボクサーなら鼻で笑うようなものだったろう。

 次に力を込めて――それが何かを説明できない力を込めて、同じように拳を放つと、空気を切る音と共に突き出した拳が現れる。

 素人の構えの、プロですら馬鹿にできない一撃だった。


 ゆるゆると、己の奥底から実感が湧いてくる。

 一度目のトロールを倒した時と、どちらが勝るかという程の強い感情だった。

 それをアヴェリンが嗜めるように肩を叩き、ミレイユがいる方を示す。


 ミレイユは既に椅子を仕舞い、腕を組んで片方の足に体重を乗せる格好で待っていた。早く帰ろうという意思を、その雰囲気から感じる。

 随分待たせてしまったのかもしれない。


 アキラは一度頭を下げてからアヴェリンを見返し、それでアヴェリンが歩き出すと、その背についていく。

 アキラは握った拳を見つめ、ついで鞘に収まった刀を見つめる。

 今にも溢れ出そうな感情を持て余しながら、喝采を叫びたい気落ちで空を見上げる。

 日は既に暮れ、夜空には星が瞬いている。


 今日も一つ、自分は何かを守れたのだという充足感が、その胸を満たしていた。

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