実践 その4
アキラが柄を握った時に思ったのは、驚く程に痛みが引いているという事だった。
身体中がバラバラになってしまうかと思ってしまう程には、アキラのいたる所が悲鳴を上げていた。腕はこれ以上上がると思わなかったし、一振りする余力すら残っていなかった。
しかし今は、少なくとも先程、トロールの腕を横に斬り裂いたあの一撃をもう一度振るえると思えるくらいには回復している。
これは一体どうしたんだ、と思った直後、内向魔術の可能性に思い至った。
内向魔術は人体の持つ力を最大限に引き出し、そして増強する力を持つという。
アキラがトロールの一撃を両腕で受けて、それでも骨折する事がなかったのはそういう理由があったからだ。まさか骨がコンクリートより硬くなっているとは想像してなかったが、事実を見るとそうなる。
いま再び行動できるようになったのも、その内向魔術が働いて自己治癒能力が活性化されているせいではないか、アキラはそう考えた。
ならば、時間稼ぎは間違いなく有効だ。
武器を握る事ができなければ、威嚇すら出来なくなる、とアヴェリンは言った。
威嚇が出来てどうなる、自分が刀を持っても威嚇にしかならないのか、と嘆いたものだが、今はその威嚇こそが命綱になっている。
教わった事が一切無駄になっていない事に気づき、アキラは改めてアヴェリンに頭が下がる思いがした。
だが、その恩義も感謝も生き残らなければ意味がない。
先程のユミルの動きを見る限り、助けるつもりがあれば助けられるだけの力がある事は分かった。しかし視界の端に映る彼女を見る限り、手助けするつもりはないようだ。
あの顔は、ここで死ぬならそれでもいいと思っている表情に違いない。
トロールが動こうとする度、刀の切っ先を向け、あるいは軽く持ち上げ、敵の警戒を刺激する。
腕の痛みも大分引き、身体中に罅が入っているかのように感じられた痛みも、今は殆ど感じられない。
アキラは心の奥底でいける、と思った。万全には程遠いものの、しかし一撃を振るうには問題ない。
だが、とも思う。
一撃を振るえたからと言って、それが何になるだろう。決死の思いで敵の腕を掻い潜り、腕を裂いても同じ事。仮に腹を斬っても、やはり同じだろう。
切断面が綺麗である事が、逆に不利になっている。
あるいは削ぐような武器であれば、また違っていたのかもしれないが、それは嘆いても仕方がない。一撃、ないし二撃で倒せるように工夫しなくてはならない。
アキラはここで初めて一歩前に出た。
切っ先だけの威嚇ではなく、その身体も前に、時に武器も下げて、相手の攻撃を誘う。
そういったフェイントは知能が低そうな敵には通じそうもないが、それが挑発のようなものと受け取ってもらえたら、それで良かった。
少しでも力を温存し、少しでも大きな一撃を加えたいと思ったら、自分から突っ込むのではなく、突っ込んでもらってそのカウンターを狙う方が可能性はあるという判断だった。
敵の身長は高い。
一撃で倒す事を考えたら、その首を狙う以外にないと思った。しかしその身長差が、筋力差が、そう簡単にアキラの武器を届かせてはくれない。
――ならば。
「ホゴォォォォ!!」
威嚇なのか気合なのか、アキラにそれは分からないが、とにかく咆哮と共にトロールが突っ込んでくる。腕を振り上げるのは変わらない。しかしもう片方の腕がしっかりと脇を閉じ、腕を畳んで構えている。
先に大きな一撃をして、次に畳んだ腕でトドメを刺すつもりか、あるいは逆に畳んで腕を牽制に、大きな一撃で仕留めるつもりか。
トロールからも、ここで決着を着けるという意思を感じた。
敵の突進は勢いを増し、一歩踏み出す毎に速度が増していく。アキラはそれを一歩前に出る事で位置を調整した。
振り上げる拳はフェイクなのか、それとも――。
「ゴォ!!」
アキラに最も接近した瞬間、振り抜かれたのは畳んだ腕の方だった。振り上げた拳を更に引き、その弓なりに動く反動で畳んだ腕を突き出して来る。
――その可能性は予測していた。
アキラは身を低く屈めて、全力で一歩を踏み出す。
振り抜かれた巨拳は肩を掠めただけだというのに、それだけで全身が砕けるような衝撃が走った。しかしアキラも、それで足を止める事も、刀を落とすような無様な真似はしない。
通り過ぎざま、その膝を狙って一閃、刀を振り抜く。
相手の速度と自分の力を合わせた一振りは、膝を二つに割る事に成功した。
足に力が入らず、またバランスも崩して前のめりに地面へ突っ伏す。
「これが狙いだった!」
踏み込んだ一歩目をそのまま無理に急制動をかけ、そして真後ろへ跳ねるように振り返る。頭から地面に転んだトロールだったが、即座に起きようとしている。
あの程度ではダメージにもならないらしい。
――しかし、膝はすぐとはいかない筈。
起き上がろうにも膝がいうことを利かず、未だ両手を地面について頭を下げているその頚に、アキラは跳躍から全力で刀を振り下ろした。
刃はあまりにも呆気なく頚を貫き、骨を切る感触すらなく通り過ぎる。
頚が落ちる音と、血が吹き出す音がアキラの耳に届くのは同時だった。
急制動で痛めた足首を庇いながら、血に濡れないよう咄嗟に飛び退く。血を嫌うのは汚いからではない、踏んでしまうと滑って踏ん張りが利かなくなるのを避ける為だ。
着ているものが血を含み、それが垂れて足元を濡らせばそれも危険と成り得ると、アヴェリンから教わっている。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
肩で息をしながら、流石に起き出す事はないだろうと、亡骸を見つめる。
まさか、があるのが魔物なのだと教えられている。ここで起き上がって自分で頚をくっつけるようなら、アキラにも最早打つ手はなく、同じ手が通用しないなら、遅からず拳に潰される事になるだろう。
しかして、トロールは起き上がる事なく、痙攣したまま次第に動かなくなり、そして姿が霞むように消えていった。
完全に倒した事が分かると、アキラは思わずその場に尻から落ちて座り込んでしまった。
刀を握ったまま大の字に寝転がって、目を閉じて荒い息をそのままに、呼吸を貪るように続ける。
「や、やった……!」
ゆるゆると、勝利に対する感情が湧き上がってくる。
昨日まで、決して勝てない、目の前に立つ事すら許されない相手に、勝利をもぎ取る事ができたのだ。一つ間違えれば死んでいた、薄氷の上の勝利だったが、それでもアキラは勝ったのだ。
「勝った……! 勝てたんだ……ッ!!」
柄を握る力も更に強くなる。
何度も死ぬと思った。敵の巨大な拳が顔の横を通る度、腹の底から背筋まで氷で貫かれたのかと錯覚するような怖気が走った。
しかし、それでも、アキラはやり切った。成し遂げたと言って良い。
ミレイユたちからすれば小さな勝利でも、アキラは胸を張って勝利したと言える。
涙まで流れてきた目尻を拭い、起き上がろうとしたところで、上から覗き込む誰かがいる事に気がついた。
「良かったわね」
笑顔で労うユミルだった。
手を差し出されて、礼を言いながら手を取り立ち上がる。まだ足首は痛いが、それも既に良くなりつつある。片足を庇うように動いて、改めてユミルに向き直った。
「ありがとうございます、ユミルさん。倒しました……、僕、あいつを倒したんです!」
「そうね、おめでとう」
ユミルは笑みを深くして、更に続ける。
「それじゃ、もう一体いるから、それも倒していらっしゃい」
「……は?」
アキラは思わず瞠目し、口は半開きで呆けてしまった。
一瞬、何を言われているのか分からなかった。いや、違う。今もまだ理解が追いついていない。
「え? 何て言ったんです? もう一体?」
「そう、まだもう一体いるの、知ってるでしょ? アヴェリンが引き付けていてくれたんだから、もう一体も倒してきなさいな」
「え、何言ってるの? ……え、これって夢かな?」
唐突に現実を直視できなくなって、視線を斜め上にずらせば、容赦ない平手がアキラの頬を打った。
「いっだ!!」
「夢じゃないみたいね。これでもう一体、相手にできるわよ」
「いや、無理です、無理ですよ! どんだけ死ぬ目にあったと思うんですか!」
「良かったじゃない、もう一度死ぬ目に遭えるわね」
「嫌です! 無理です! 無理、もう無理! 絶対無理です!」
心の奥底からの叫びと、顔面を濡らす涙が、ユミルの要求を全力で拒否していた。既に性も根も尽き果てている。体力だってもうない。
同じ事をしろと言われても、また勝ちを拾えるか分からないのに、それでも行こうと思える筈がなかった。
そのアキラの必死過ぎる顔に思うところも出てきたのか、考えるような素振りをする。
それからミレイユの方を見て、指を差したり頷いたりと、身振り手振りで会話を始める。幾度かのやりとりでその会話が終わると、アキラの肩に手を置いた。
優しげな表情を見せるユミルに、期待を寄せてその目を覗き込み――。
「いいから行け馬鹿野郎、だそうよ」
「いやぁァァァァァ!!!」
乙女のような悲鳴を上げて、アキラは背中から倒れた。
梃子でも動かないつもりでいたのに、ユミルはアキラの背中に爪先を差し込み、器用に蹴り上げて起き上がらせてしまった。
膝から崩れ落ちようとすると、その腹を殴りつけて胸ぐらを掴んで強制的に起こしてくる。
優しい笑顔を貼り付けたまま、顔を近づけて囁くように恫喝してきた。
「お前の意見なんて聞いてないのよ。行けと言われたら行くの。死ねと言われれば、笑顔で死になさい」
「酷い……酷すぎる! 人権の尊重って知らないんですか!」
「知らないわよ、そんなもん。喋る元気があるなら、剣振る元気もあるわよね」
無茶苦茶な横暴を言うだけ言って、そのまま胸を突き飛ばされた。残るもう一体の方へ押し出されるような形だが、恨みがましい目を背中越しで向けても、笑顔で手を振り返すばかり。
仕方なくトボトボとアヴェリンの傍まで近づくと、そこでは完全な膠着状態――というより、抵抗が無意味と理解して座り込んだトロールがいた。
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