実践 その3

 アキラが相手に選んだのは、手前の方にいる一体、アヴェリン相手に及び腰になっているトロールだった。相手にならず手出しが出来ていないというのならどちらも同じだったが、明らかに戦意を喪失しているように見えた相手を狙った。


 力をどれだけ込めれば、どれだけ前に進むのか、その感触に少しずつ慣れてきている。魔力を得る前と後での落差がひどく、まだ完全とも言えないが、その取っ掛かりは掴めた。

 アキラは敵の二歩手前で跳躍して、その頭を狙って刀を振り下ろす。

 しかし敵も、アキラの存在にはすぐに気づいた。

 腕を持ち上げて防御し、肌に食い込むと同時に腕を振り抜く。


 刀は腕を深く斬り裂いたが、骨に達した辺りで止まり、そして腕を振った遠心力で振り飛ばされた。単なる力任せで振り抜かれたので、受け身を取って地面を転がり、勢いを利用して立ち上がる。


 突然の乱入者に驚くような素振りは見せたものの、ゴブリンの死体を見るなり鼻を鳴らし、トロールはこちらに向き直った。

 もう一体もアキラに向かおうとしたが、それはアヴェリンが殴りつけて阻止してくれている。動くに動けない一体と、腕を斬り裂かれた一体が別れ、アキラは一方だけ相手にすれば良くなった。

 アキラはアヴェリンに感謝の眼差しを送ったが、残念ながらそれは無視された。


 残念な気持ちになったものの、アキラはまず目の前の相手に集中した。

 トロールは斬られた腕を掲げて力を込める。盛り上がった筋肉が、斬り裂かれた肉同士をくっつけ、それだけで傷が塞がってしまう。

 腕から力を抜いて、膨張した筋肉が元に戻った後には、もう傷跡は掠れた後を残して消えていた。


 アキラは顔を歪めて、苦い顔を抑える事ができなかった。

 ゲームや漫画にもトロールという存在はよく見かける。治癒能力を持つのが特徴で、大概炎や熱に弱かったりする。


 目の前の魔物も、それに違わぬ能力を持っているという事か。

 アキラに炎を操る力なんてないし、着火出来る道具すら持っていない。刀が骨で止まってしまう事を考えれば、両断するのも簡単ではないだろう。

 いや、と思う。

 骨を断てなかったのは刀のせいではない、アキラの技術不足に寄るものだ。角度が浅く骨に対して垂直ではなかった。もしこれが正しい角度と共に振るわれた一閃だったなら、きっと切断できていた。


 それに――。

 トロールの身体は大きく、分厚い。

 身長も二メートルを優に超え、三メートルにも迫ろうという大きさだ。その巨体に分厚い筋肉を載せているのだ。仮に防御力が皆無でも、単純に刀の長さが両断できる面積に達しない。

 そして両断できないなら、ものの数秒で再生させてしまうだろう。


「ゴォォォオオオオオ!!!」


 アキラを見据え、頭を突き出してトロールが吠えた。

 トロールは一足飛びに近づき、その巨大な拳を上から振り下ろしてくる。武道の心得などない力任せの一撃だったが、トロールにはそれで十分なのだろう。


 正眼の構えのまま後ろに飛び退いて、更にもう一歩後ろへ逃げる。

 大袈裟とも思うほど距離を取ったが、その判断は間違いではなかった。


 巨大な炸裂音と破壊音が辺りに響く。

 叩きつけた拳が地面を巻き上げ、土や砂を撒き散らす。よほど離れたつもりだったが、その衝撃と砂と石がアキラの肌にぶつかった。

 血が出るような痛みではなかったが、もしもう一歩近い距離にいたら、そうも言っていられなかったかもしれない。


 更に一歩遠退こうとしたところで、トロールが砂埃の中から飛び出してきた。

 先程よりも更に早い。

 相手も様子見をしていたのだと、この時アキラは初めて理解した。


 振り上げ、振り下ろしてくる拳の動きに対応できない。

 アキラは無駄な足掻きだと分かっていても、後ろに一歩でも遠退こうと地を蹴り、そして両腕を組み合わせるようにして防御する。


 その直後、トロールの拳がアキラの両腕に突き刺さった。

 凄まじい衝撃と重さを同時に味わい、もしトラックに轢かれたらこういう感じなのだろうか、と思いながら宙を滑った。


 殆ど真横に吹き飛んで、後ろで観戦していた筈のユミルの横を通り過ぎ、地面に落ちて何度も跳ねてからようやく止まる。

 不思議な事に意識はハッキリしていいた。腕は痛くて持ち上がる気はしないが、しかしそれでも生きている。


「……ハッ!」


 何故だか可笑しくて笑えてしまった。

 今は地面にうつ伏せで、口の中に土が入り、血と混じって酷い臭いを発している。だが、死んでいない。生きているなら、そして動けるならば動かねばならない。


 アヴェリンの教えだった。

 立ち上がれないと思った時が死ぬ時だと。死にたくなければ立ち上がれ、と何度となく痛みと共に転がされてきた。意識が明瞭なのは、もしかするとそのお陰かもしれなかった。

 その慣れが、アキラに一握りの生存する機会を与えてくれた。


 うつ伏せ、頬も土に触れている状態で、目だけ動かせば、既にトロールは腕を振り上げ突進を仕掛けようとしている。

 痛みが収まるまで待つなんて、敵は許してくれそうもなかった。


 腕が動かないなら、その頬を地面に押し当て、それから額を支点に腰を持ち上げ、そして身体を腹筋と背筋だけで持ち上げる。

 立って何が出来るかは分からない。どうせ殴られ、今度こそ身体を粉微塵に砕かれるかもしれない。

 しかし、ただ寝たまま諦める事だけはしたくなかった。


「ぐっ、――ォォオオオオ!!!」


 都合よく助けが来るなど期待していない。

 師匠たちなら、それを難なく熟す事も出来るのだろうが、ここに踏み入った時点で、自分の命は自分で守るのだと理解している。

 自分の危機があれば誰かが助けてくれるだろう、などと甘い考えは持ってなかった。


 立ち上がって、今にも目前に迫ったトロールを睨み付ける。

 手に刀は持ったままだったが、握力が足りず、持つというより引っ掛けているというような状態だった。

 躱せるか、躱せたとしてこの距離、その拳が地面に突き刺されば、直下で起こった衝撃に吹き飛ばされるだけだろう。そして、今度こそ立ち上がる前に止めを刺される。


「――だっ、たら……!」


 アキラに出来ることは一矢報いる事しかなかった。

 ここで死ぬのは受け入れ難い。だが退けば死ぬぞというのなら、前に進むしか道はなかった。


 アキラは刀を構え――辛うじて構え、迫るトロールに相対する。

 迫る巨体、振り抜かれる腕、眼前を覆う巨拳。

 それを前に足を一歩、全力で踏み抜いて、歯を食いしばり、口の両端から血とも涎とも思える液体を垂れ流し、呼気と共に刀を振り抜いた。


 外に向け、横に倒した斬撃だった。

 それを一歩踏み出す力で、拳が顔の横を過ぎるのを感じながら、それでも拳めがけて振り抜いた。

 風圧で耳が千切れるような感触を味わいながら、刀を押し返す圧力、筋肉を切り裂く感触を味わう。振り抜いた先で上手く着地出来ず転び、二転しながらそれでも立ち上がった。


 腕は痛く、持ち上がらない。

 しかし刀を手放す事だけはしなかった。

 両手で柄を握り、肩で息をして、そして敵を睨みつける。


 トロールは斬りつけられた部分を怪訝な目をして見るだけだ。すぐにも傷が塞がって、また腕を持ち上げ構えるような動きを見せた。

 どうやらアキラを、ここでようやく敵として認識したらしい。


 アキラの持つ武器も、脅威ある存在と思ったのかもしれない。

 これからは大振りな攻撃だけでなく、もう少し緩急混ぜた力押しだけではない攻撃を繰り出して来るのかもしれない。


「……ハッ!」


 アキラは思わず笑ってしまった。

 敵は全く本気ではなかった。虫を潰すくらいのつもりで手を叩いたら、思わぬ反撃を食らったという気持ちだろう。

 だが、少なくとも敵に脅威だと思わせる事だけは出来た。

 昨日までのアキラなら、まさしく虫と同様潰されて終わりだっただろう。それを思えば大した進歩だ。


 アキラは柄を握る拳に力を入れ、歯を食いしばり、必死の思いで刀を構える。

 肩も腕も痛くて、それ以上の事は出来そうもなかった。

 だが、これでも十分威嚇になっている。


「……グルゥゥゥ!」


 トロールは今度は迂闊に攻撃して来ようとしなかった。

 アキラを見据えながら、前ではなく横へ、円を描くように動いていく。

 敵もまた警戒しているのだ。単に殴りつけるだけでは、また同じような事になるかもしれないと警戒している。


 アキラが切っ先を動かせば、それに応じて動きがある。

 ――やはり警戒している。


 しかし睨み合うだけでは意味がない。

 いずれ焦れて攻撃してくるだろうし、そしてその時こそアキラの終わりだ。それにこれが単なる威嚇行動だと敵に知られれば、即座に攻撃に移るだろう。


 更に横へ円を移動するように動くと、トロールの視界に別のものが映ったようだった。

 そこへ凝視すると、威嚇するように吠える。

 何に対してかと思ったら、その視線の先には豪奢な椅子に足を組んで座り、肘掛けに頬杖をつくミレイユがいた。その後ろ、背もたれの影になるような位置にルチアの姿も見える。


 しかし威嚇されても、ミレイユはその余裕を崩さない。

 視線すら合わせていなかった。つまらなそうにアヴェリンとトロールを見ては、時おり上空に視線を移しているだけだ。


 反応を示さぬ相手に、そちらの方が相手しやすいと思ったのか、突如向きを変えた。

 唸り声を上げて突進するトロールに、アキラは何の動きも出来なかった。庇うように動けば良かったのだと思うし、そうでなくとも自分が縛り付けておくべき相手だった。


 微かな苛立ちと後悔を感じながら、ミレイユに突進するトロールの背を目で追う。

 それでも尚、ミレイユは反応を示さない。目だけは向けたが、それに対応するつもりはないようだった。何かバリアーのようなものを張っているのだろう、と思ったら、その横合いからユミルがトロールを殴りつけた。


「ゴギャァア!!」

「はいはい、駄目よ。アンタの相手は、あっちなの」


 いつの間に移動していたのか、アキラの目には全く映っていなかった。

 しかし、その頬を垂直に飛んで蹴り飛ばし、強制的にアキラの方へ顔を向かせる。出来の悪い男を叱りつけるようにトロールの尻を蹴りつけ、ミレイユから遠ざけるように押し退けた。


 トロールは振り向き、突如乱入したユミルにも威嚇するように吠えたが、直線的に飛んできた雷に顔を打たれ、情けない泣き声を上げた。

 見てみれば、ユミルの掌が青白い光に包まれている。恐らくそこから魔術を放出したのだろう。更に何かをしようとしたトロールに、ユミルから二撃目、三撃目と雷が放たれた。


 トロールは悲鳴を上げて顔を逸し、身体を背けてアキラの方へ向き直った。それで雷の連撃が収まると、怯えたような顔を一瞬ユミルに向けて、すぐに顔を正面に戻す。


 アキラは自分の予想が当たっていた事に密かな充足感を覚えると共に、トロールの方を哀れに思った。御し易そうな相手がいたから、そちらに目標を切り替えたのだろうが、まさか横からあのような魔術士が出てくるとは思うまい。


 しかも、明らかにトロールよりも格上だった。

 つもりがあれば、あれだけで倒してしまう事もできただろうに、あくまでアキラに相手させようと痛みを覚えるようなレベルに抑えた魔術を使ったのも恐怖を覚えるところだろう。


 ミレイユも何の反応も示さない筈だ。

 彼女にはユミルの動きが見えていたに違いない。そして、何の問題もなく対処すると理解して――あるいは信頼して任せた。


 あれを見ていると、ちょっとでいいから助けて欲しい、という気持ちが湧いてくるが、それをグッと飲み込んだ。

 トロールがアキラを相手する気になったらしい。

 そうするしかない、とも言えるが、ともかく敵は、再びアキラを相手取る事に決めたようだ。


 アキラもまた、呼吸を整えて武器を構える。

 少しの間とはいえ、休むこともできた。この時間がアキラにとって有利に働いた事は言うまでもない。


 両腕を広げ、首を突き出すように吠えるトロールへ、アキラは腹に力を込めると共に柄を握った。

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