試練 その10

 相変わらずボコボコに身体を殴られ、身体中を腫らせてアキラはアパートに帰ってきた。痛む身体に鞭打って帰宅の道を走らせ、アヴェリンの激で泣きながら足を動かすのもいつもの事だ。

 震える足を必死に持ち上げ、手摺りに体重を預けながら何とか昇り切る。

 這々の体で靴を脱ぎ部屋に上がると即座に光が飛んできた。


「――うわっ!」


 端から躱す余裕などなかったが、またユミルの悪戯かと思った瞬間、傷だらけの身体が癒やされていく。光が収まるのと同時に視線を向けると、そこにはルチアが視線を向けずスマホを弄っていた。

 しかし、片方の掌がこちらを向いている。それで自分に向けて、治癒術を使ったのだと悟った。


「あ、あぁ……。ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして」


 変わらず視線は向けて来ないが、アキラとしては文句はない。

 体力だけは変わらないが、それでも随分楽になった。黙っていると崩れそうになる身体を寝室に向け、シャワーに入ろうと着替えの用意を始めた。


 部屋の中にはルチアしかいないようで、他の面々は箱庭で過ごしているらしい。

 そのルチアもアキラが着替えを取って戻ってきたのを見ると、スマホを仕舞って箱庭に帰っていく。どうやら、アキラの傷を癒すように指示を受けて待っていたようだ。

 改めて感謝の言葉を背中にかけて、アキラは給湯器の電源を入れる。


 シャワーを浴びながら身体の動かし方、刀の振り方などについて思い返していると、部屋の中が騒がしくなった。騒がしいというよりは何かを動かすような音がして、更にそこへ指示を出するような声もしてくる。

 どうやらミレイユがいつものようにソファーなど邪魔な家具を移動して、代わりの家具を用意しているようだ。


 それに感謝しつつ手早くシャワーを浴び、何か手伝える事があれば手伝おうと外に出る。着替えも済ませてダイニングへの戸を開けると、既に準備万端、全員が着席している状態だった。


「随分早かったな。もっとゆっくり浴びていればいいだろうに」

「あんなに狭い風呂じゃ、そんな気分にもなれないんでしょ」


 若干、呆けるように言うミレイユに、ユミルが諭すように言いながらワインのボトルを手に取った。まだ少し塗れている髪のまま一礼して椅子を引き、席につく。

 今日も美味しそうな豪勢な料理が並び、アキラは生唾を飲み込んだ。


「その様子じゃ、焦らすのも可愛そうだな。では、食事にしよう。いただきます」


 ミレイユがパンを手に取って口をつけるのを待って、アキラもまたパンを手に取った。今日のスープはシチューに似たとろみのあるもので、色は赤より茶色に近い。小さく切られた肉と野菜もあって、スープばかりパンに浸していると、具だけが残ってしまいそうだ。


 木製の皿に乗った厚みの太い肉も用意されていて、肉の表面から滴る油が食欲を唆る。用意されているナイフで切ってみれば、驚くほど簡単に肉が切れた。

 ソースはなく、おそらく香辛料か塩のみの味付けなのだろうが、それがアキラの好みに合う。

 口いっぱいに頬張ると、予想に反せず濃すぎない味付けが油と混ざり合い、極上の味へと昇華させていく。


 その味に舌鼓を打っていると、ユミルが木製のマグを差し出してくる。感謝しながら受け取れば、中には並々と液体が注がれていた。

 口をつけ、その液体の香りが鼻をくすぐって――それがアルコールだと分かった。

 咄嗟に身を引いてマグを遠ざけ、ユミルに非難めいた視線を向けた。考えてみれば、単なる親切でユミルが飲み物を渡してくる筈がないのだ。


「ちょっとこれ、お酒じゃないですか! 僕、未成年なんですよ、飲めないんです!」

「この肉にワインが良く合うのよ。随分美味しそうに食べるもんだから、是非これは味わってもらわなきゃと思って」

「そういう悪質なトラップやめて下さいよ!」

「別にいいでしょ、誰も止めてないし。飲んでみれば?」

「ダメです。そういうの、この国じゃ認められてないんです。お酒は二十歳になってから、そういうものです」


 ふぅん、とつまらなそうに呟いて、アキラのマグを自分の物と取り替える。ユミルがワインを飲むのを見て、アキラもそれを口に運び――そしてアルコールだと気付いた。


「ちょっと、これもワインじゃないですか!」

「ちぃぃ! 引っ掛からなかったわ!」


 ユミルは笑顔で指を鳴らす。その小洒落た仕草がヤケに様になっていて、それがまたアキラの癪に障った。


「何がちぃ、ですか! 大体、何でそんなに酒を飲ませたがるんですか!」

「いやぁ、別に深い理由はないわよ。酔い潰れたアンタを見てみたいとか、起きた時アタシが裸で隣に寝てたらどういう反応するのか、とかそういう理由ぐらいね」

「めちゃくちゃ悪質じゃないですか! 絶対ユミルさんから勧められた杯は飲みませんからね!」


 アキラとユミルの遣り取りを見ていたミレイユが、チーズを手に取りながら含み笑いを漏らした。アキラはそれを恨みがましい顔で見つめる。


「……ミレイユ様、笑ってないで止めて下さいよ」

「それぐらい可愛いものだろう。自分で対処しろ」

「飲酒が二十歳からって、ミレイユ様も知っている筈じゃないですか。マグを受け取った時点で止めてくれてもいいじゃないですか」

「その程度を気付けないでいたとしたら、私はユミルと共に指差して笑っていただろうな」


 そう言って、チーズを一齧りして、ミレイユはニヤリと笑った。

 ユミルに視線を移せば得意げな顔でワインを飲んでいる。飲んでいるというよりは、干しているとでもいうべきで、水の代わりだと言わんばかりに次々と杯を空にしては新たなワインを注いでいる。


 呆れた気分で食事を再開し、腹も膨れて満足した頃合いで、ミレイユがアキラに向けて口を開いた。


「食事に満足したなら、この後、少し話さないか」

「え……はい、勿論。……でも、何の話を?」

「それも後で話す。まずは片付けを済ませてしまおう」


 ミレイユが言うや否や、アヴェリンとルチアが率先して動き出した。アキラも片付けを手伝おうと立ち上がり、アヴェリンの指示あるままに動く。

 ミレイユはともかく、ユミルは何もせずワインを空けるばかりで、それが少し疎ましく思えた。しかしこの場の誰もそれに文句を言わないのなら、きっとアキラには分からない不文律があるのだろう。

 何も知らないアキラが口を出す事ではない。


 手早く片付けを済ませ、テーブルの上に残るのはユミルのワインボトルとマグのみ。

 ミレイユがコーヒーを注文し、それを用意しにアヴェリンが箱庭に戻っていった。アキラからも何か提供した方がいいだろうかと思い聞いてみたが、自分の分だけ用意しろと言われた。


 しばし考えて、何も口に入れないのも寂しい気がして、インスタントのコーヒーを作ることにした。電気ケトルで湯を沸かし、適当に断熱タンブラーに粉を入れて砂糖とミルクも入れる。

 そうして準備が終わったのと同時、アヴェリンも箱庭から帰ってきた。


 いつの間に用意したのか、立派で上品な品質が漂うコーヒーセットに黒い液体が僅かに揺れる。

 アヴェリンが恭しくミレイユの前にソーサーを置いて、それで準備が整ったようだ。

 空気が張り詰めたような気がする。


 アヴェリンも席につくと、ミレイユは少しだけコーヒーに口をつける。

 動きもまた上品で、思わず見惚れてしまう程だった。ユミルが軽く爪先で蹴ってきて、それで我に帰る。

 アヴェリンが非難するような視線を向けていて、それで慌てて姿勢を正した。


 ミレイユが視線を向けて来て、それで目が合う。

 この人と視線が合うといつも緊張する。それはその美貌とは関係のない事柄で、確かな理由はアキラにも分からない。何故か親に叱られる直前のような、身が竦むような感覚を覚えるのだ。


 そんなアキラの様子を見て取ってか、ミレイユがちらりと笑みを浮かべる。


「そう緊張する必要はない。単なる好奇心とでも思ってくれればいい。――だが、正直に答えろ」


 そう言われて緊張を解く馬鹿はいない。

 アキラはタンブラーに注がれた液体の事を忘れ、乾いた喉に唾を飲み込む。


「アヴェリンとの鍛錬はつらいか?」

「は……」


 アキラは一瞬、何と答えていいか分からず、視線を横に逃した。

 そして考え、答えを返す。


「いえ、別に、そんな事は――!」


 アヴェリンから視線を向けられているのを感じる。

 アキラはそれに合わせられない。


 肉体的に辛いのは事実だ。だがそれは鍛錬ならば当然、身体に負担をかけず楽して鍛えようなんて話はない。だからこれは、アヴェリンの鍛錬法だとか、精神的にどうなのかを聞いているのだろう。


 正直に言えば、――辛い。

 だが鍛錬が始まって、まだ幾らも経っていない。それなのに辛いなどという弱音を吐けないし、吐いて失望されるのも怖かった。


 だらしない、意気地のないやつと思われる方が辛い。

 それを思えばこの程度、何て事もなかった。このままでは耐えられないと思いつつ、いずれ慣れて順応するとも思う。順応するまでどれくらい掛かるか、それまで身体が保つかという不安はあるが、その程度習い始めなら誰でも思う事だろう。


 今は我慢の時なのだ。

 だからアキラは、改めて首を横に振り、ミレイユに視線を合わせて否定した。


「いえ、大丈夫です。何も辛いなんて事はありません……!」


 その返答が果たして正解だったのかどうか……。

 ミレイユは意外そうに、あるいは落胆を感じさせる表情で、僅かの間を置いて頷いた。


「……そうか。本人がそう言うなら、大丈夫なんだろう。ならば話は終わりだ、せめてコーヒーを飲み終わるまで、お喋りに付き合ってくれ」


 言うや否や、ユミルは正面のルチアに話し掛ける。

 何か益体もない事を話しているようだが、アキラの耳に入らなかった。ミレイユは変わらずアキラを見つめ、視線が合うとちらりと笑う。


 弛緩した空気。緊張感も遠くへ行った。

 それでも何か、大きな物を取り逃してしまったような気がしてならなかった。

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