試練 その7
「絶対また来てください! サービスしますから!」
営業スマイルとは違う満面の笑みで店員に見送られ、すっかり懐かれた莉子にも親たちと一緒に手を振られる。
ミレイユは最後まで素顔を見せなかったが、それを不審とは思わなかったようだ。ミステリアスな
莉子については、身長の関係でバッチリ顔を見られてしまっている。
ミレイユの顔を見て驚いていたのは、どういう意味なのか分からない。子供なら美醜について、それほど興味もないだろう。何か他に意味があるのかと思ったが、特に気に留める事はなかった。
だが見た事は秘密にして、と人差し指を唇に立てて見せれば、コクコクと頷いていたので口外する事はないと祈ろう。
……おそらく、一時間ぐらいは我慢してくれる筈だ。
これからは別の喫茶店を使うべきか、それともサービスするという約束につられて通うべきか、と迷っていると、友人と別れ後ろに着いてきていたアキラが聞いてくる。
「随分と小さな子に懐かれてましたね。子供、お好きなんですか?」
「そうだな……、子供は好きな方だ。特にああやって素直に喜んでいる顔は、見ていて愛くるしい。そうじゃないか?」
「ですね。ただ、ちょっと意外で。もっとドライな方だと思っていたので」
ミレイユが肩を竦めると、横からユミルが口を挟んだ。
「あら、この子は昔から子供には弱いのよ。特に幼い子供の頼み事にはね。断っているの見たことないもの」
「……確かにそうだな」
アヴェリンも同意すると、遠い目をして頷いた。かつての記憶に思いを馳せているのだろう。
ルチアも何かを思い出したようで、皮肉げな顔を上げて言う。
「考えてみれば、あの大騒動の切掛になったのも子供のお願いだったんじゃないですか。それが最終的には戦争にも発展して……」
「――それ以上は言わなくて良い」
ミレイユが手を挙げて口止めして、それでルチアが微妙な表情で口を噤んだ。隣にいたアキラも聞きたそうにしていたが、許可するつもりはなかった。
それで一度会話が途切れ、アスファルトを蹴る複数の足音だけが耳に届く。
それから数秒の後、アヴェリンが思い出したかのようにアキラへ顔を向けた。
「そういえば、今日は随分早かったみたいだが、何かあるのか。これから、例の道場か?」
「いえ、別に。本当にたまたまです」
それからアキラは改めて頭を下げた。歩きながらなので不格好な姿だったが、それなりの誠意は伝わってくる。
「申し訳ありません。僕の友人が不躾な真似を……」
「お前が謝る必要はない。遠ざける努力もしていた、よく言い含めておけばそれでいい」
そう言ったアヴェリンは、ミレイユに伺い立てるように顔を向ける。ミレイユも頷きを返せば、アキラは安堵して頭を上げた。
そこにアヴェリンが更に声をかける。
「これから予定はないんだな?」
「ええ……特には。あえて言うなら食事の準備とか宿題とかですけど」
「なら、このあと少し付き合え。腹ごなしに体を動かしたい」
「う……!」
アヴェリンの提案に、アキラは物の見事に固まった。
その顔は朝だけでは物足りず、この時間でも殴られるのかと語っていた。
アヴェリンは不愉快に眉を寄せ、アキラを睨みつけた。
「何だ、その顔は。そもそもお前は力量が全く足りてないんだから、少し無茶するぐらいで丁度いいんだぞ。むしろ、こうして空いた時間に鍛錬をつけてくれる事に感謝してもいいぐらいだ」
「う、う……はい」
アヴェリンの睨み顔に根負けするようアキラは頷き、肩を落とす。
とはいえ、アキラ自身も己の力量に思う所はあるのだろう。即座に背筋を伸ばし、顔を引き締めたようだ。引き締めすぎて、引き攣っているように見えるのは、ご愛敬といったところか。
アキラとアヴェリンの間には、決して狭まる事のない天地の差ほどの開きがある。
アヴェリンが上手くやっているのは死んでいない事から確かだろうが、力量差に押し潰されて目標を見失っても意味がない。
鍛錬がただ耐え忍ぶだけ、今日の鍛錬を乗り越えるだけ、という意識では逃げの努力だけが磨かれていく事になる。
鍛錬を続けてまだ多くの日数は経っていないが、既にその兆候が見え始めている。
何か対策が必要だった。
アキラの部屋に帰り着き、共に中へ入ってそれぞれが思い思いに過ごし始めた。
アヴェリンは着替えに箱庭の中へ入ったし、アキラも同様稽古着に着替えようと自室に入った。ユミルたち二人は早速スマホを取り出して、何やら弄って遊んでいる。
ソファはユミルが寝そべって使っているし、勉強部屋はその椅子をルチアに使われている。座れる場所が占領された形で、ミレイユにとっては予想通りの展開だ。
恐らく――。
これは始まりでしかないのだろう。きっとこの占領具合は日に日に度が増していって、そのうち彼女達の私物が溢れるようになるに違いない。
もしかしたら彼女たちの占領計画は、既に始まっているのかもしれない。
何か一言、釘を刺しておいた方がいいだろうと思ったミレイユは、ユミルに上から声をかけた。
しかしユミルはスマホから視線を逸しただけで、すぐに操作に戻ってしまう。
「ユミル、あまりアキラに迷惑かけるなよ」
「……えぇ、かけないわよ。今だってかけてないでしょ」
かけてないのは事実だが、それは今からアキラが外に出るからだ。それを計算して行えているというのなら文句もないが、果たしてこれが恒常化したとき、アキラも同様に思うだろうか。
ユミルは相変わらずスマホから目を離さず、それ以上何を言うでもない。
ミレイユもまた眉を顰めて視線を切り、ルチアの方へ身体を向ける。勉強部屋になっているフローリング部屋に顔だけ出し、行儀よく椅子に座るルチアに声をかけた。
「なぁ、ルチア。部屋の中にいる時間とか、ちゃんと決めてあるのか?」
「どうしたんです、突然」
ルチアはスマホを机に置き、身体の向きも変えて視線を合わせてきた。ユミルのだらけた姿勢を直前に見た身としては、相当行儀よく見えるが、しかしそれも節度ある使用をしていればこそだ。
ミレイユは何と言えば理解してもらえるか、頭の中で言葉を組み立てようとしたが、あまり上手くいかなかった。とりあえず、思いつくまま言葉を並べる。
「いや、アキラの私生活をあまり脅かしてやるな、と言いたくてな。年頃の男は若い女が傍にいると落ち着かないものだ。そこのところを考慮して部屋を使ってやれ」
「わかりました。彼が部屋にいる時は、余程じゃない限り尊重しますよ」
「物分りが良くて助かる」
それに引き換え、とユミルを背中越しに見れば、指を左右に動かしながら熱心にスマホを弄る姿があった。何を言っても上の空で、大した返事もしてこない。
年頃の娘にスマホを買い与えたら、ああいう態度になるんだろうか、と益体もない事を考えながら部屋を後にする。
ミレイユが何とも言えない顔をしながら、ユミルの横を横切って箱庭に入ると、邸宅の入り口からアヴェリンが出てきたところだった。手には相変わらずの鉄棒を持って、肩を伸ばしたり柔軟しながら歩いてくる。
アヴェリンはミレイユの前で立ち止まり、道を譲って丁寧に礼をした。
「それでは行ってまいります。日が暮れるまでには帰ってきます」
「うん、結構な事だが……少し意外にも感じている」
「何がでしょうか?」
アヴェリンが顔を上げて、視線を上に向ける。ミレイユの言った事に思い当たるものがないようで、困惑した表情が浮かんでいた。
「いや、ああいう事があったから、てっきり傍を一秒でも離れないとでも言うのかと思った」
「ああ……。いえ、そうしているより、自らを鍛える方が重要だと考えたまでです。貴女の隣に立てるのは私一人、それを他ならぬ貴女が口に出して言ってくださった。ならば私がやるべきことは、その位置にただ立つ事ではありません。その位置で何人たりともミレイ様に害を為せぬ力を保持する事です」
なるほど、とムズ痒くなる気持ちで首肯する。それ程の気持ちを向けてくれるなら、ミレイユは主人としてそれを受け取るだけだ。
だからミレイユは一言、簡潔に激励することにした。
「励めよ」
「ハッ! ミレイ様におかれましても、安んじてお過ごし下さい」
アヴェリンは再び一礼し、箱庭を出ていく。
空いたままになっている蓋の入り口からは、魔力を感じられるだけではなく、その音声すら拾うようになっている。
そこからアヴェリンがユミルに向けて叱りつけている声が聞こえてきた。
「そんなだらけた格好でどうするつもりだ! 誰ぞの襲撃があったら、真っ先に箱庭をお守り出来るよう姿勢を整えておけ!」
「ちょっとやめてよ……。張り切るのは自分だけにしておいて。何かあるとは思えないけど、あったらどうにかするってば」
「本当だろうな!?」
「ルチアもいるんだから。――彼女の感知を通り抜けて接近する奴なんて、今までいなかったでしょ?」
アヴェリンの唸る声まで聞こえてくる。
実際、ルチアの感知は大したもので、ミレイユが絶対に勝てない部類だと判断している。彼女が見ていてくれればこそ、アヴェリンも外に出て鍛錬する選択肢を持てるのだ。
アヴェリンが最後に念押しする声を背後に聞きながら、ミレイユは邸宅の中へ入って行った。食事の準備はルチアがするのだろうか。まさか帰ってきてからアヴェリンがするとは言わないだろう。
後でルチアに確認してみようと思いながら、ミレイユは自室で服を着替え始めた。
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