試練 その5
「お嬢ちゃん、魔法を見てみたいか?」
「みたいみたい!」
ミレイユが優しく問いかけると、小さな子供は小さな顔に満面の笑みを浮かべて手を振り回した。その様子を見ていたユミルが、焦ったような声で制止する。
「ちょっと……! それ大丈夫なの? 外じゃ使わないってアンタ自身言ってたじゃないの」
「ああ、そうだな。だがこっちでは、やり方次第で魔術を魔術と知らせずに、魔術だと認識しつつも勘違いさせる見せ方があるんだ」
「……意味不明なこと言って、煙に巻こうとしてない?」
ユミルが胡乱げな表情でミレイユを見返せば、それを聞いていたアヴェリンも同様に不思議そうな顔はしていた。
ユミルが懐疑的に対して、こちらは何をするつもりなのか、その方に興味があるようだ。ミレイユが自分からやろうと言うのなら、大きな問題にはならないと判断したらしい。
ルチアもユミル同様怪訝な表情で見ていたものの、静観の姿勢は崩していない。止めるというより、ミレイユの言った方法を理解できずにいるようだ。
それもその筈、魔術が現実としてある世界の人間には理解できない発想だろう。
手品とも呼ばれるマジックの多くの事は、あちらでは出来て当然のことで芸に値しない。右手を上げて左手を下げられる人を見たからといって、賞賛するに値しないという話と同様だ。
しかし、こちらの世界ではそれこそが喜ばれる。
そして見せ方一つで歓声を上げる世界でもあるのだ。
ミレイユは子供に元の席に戻るよう手で示す。子供は素直に従って席によじ登り、期待した目を隠さず見つめてくる。
ミレイユはそれに小さく手を振って、傍らのコーヒーカップに指を向けた。
直接触れるような距離まで指は近付けない。そこにまるで呪文をかけるように、流麗な動きを見せた後、ピタリとカップに向けて指を向ける。
そうすると、カップが勝手に宙へ浮いた。
子供はきゃあきゃあと喜んで手を叩き、子供の近くに左へ右へと蛇行させながらカップを近付けて行く。子供はすぐ近くまで来たカップを、そのまま受け取ろうとした。しかしその瞬間、ひょいと上に逃げてその手を躱してしまった。
ムキになって取ろうとするも、その度にカップは左へ下へ、そして右へと逃げていく。
その瞳に涙が滲むようになると、ミレイユも観念してカップを取らせてやった。
「きゃああ!」
喜んで声を上げ、隣の母親に見せびらかすようにカップを掲げる。
それまでこちらに目を向けていなかった母親は、どこから持ってきたカップなのかと不思議がっては、こちらに顔を向けてきた。
ソーサーの上にカップがない事に気付いた母親は、子供に優しく叱りつける。
「だめでしょ、莉子ちゃん。それは隣のお姉さんのものだから、ちゃんとごめんなさいして返しなさい」
「でもね、りこね……」
「でもじゃないでしょう? ちゃんと返さなきゃだめ。めっ、だからね」
悲しそうに目を伏せて、カップに目を落とす子供に、ミレイユは笑って手を振った。
人差し指をカップに向けて指を回すと、その小さな手からカップが跳ねる。驚いた子供――莉子が落とさないように手を伸ばし、そしてカップが宙で制止する。
驚いた母親も、その友人も目を剥き、その間にカップは宙を滑るように動く。
そして、まるで別れを惜しむかのように莉子の頬にカップを当て、離れてはまたもう片方へ頬ずりする。そして今度こそお別れだと言うように、カップの取手を揺らすと、そのままミレイユの席に置かれたソーサーに戻った。
それまで、まるで生きているかのような動きを見せていたカップは、カチンとソーサーの皿に音を立てて座ると、無機質に戻ったかのように動きを止めた。
「あぁん……!」
莉子は別れを惜しむような声を出したが、母親とその友人は呆けた顔のまま、まばらな拍手を返す。それにミレイユが帽子のツバを摘んで、小さな会釈を返すと、それがマジックショーだと理解したらしい。
今度こそ拍手を強めて顔に笑みを浮かべた。
「まぁ、すごい! なんて見事なんでしょう!」
「ほんと、まるで生きているみたいで!」
「りこ、あのカップほしい!」
莉子はミレイユのカップを指差してねだるが、母親は困ったような笑みを浮かべる。どう説明したものか困っているようだ。
そこにミレイユが優しく声をかける。
「このカップは魔法で一時的に動けるようになっただけ。例えこれを渡しても、家に帰るまでに魔法が切れてしまうよ。だから、今は見ているだけで満足しような」
「んー……!」
莉子は不満そうだったが、ミレイユの言葉に助けられて母親も説得の切掛を得られたようだ。
「そうよ、莉子ちゃん。家に返っても動かないカップなんていらないでしょ? 今日動いているところを見れただけで良かったと思わないと。ほら、動いてるところ見れて良かったねぇ?」
そう言って莉子の頭を撫でて、頬を撫でる。
むずむずと口を動かしていた莉子も、撫でられている内に機嫌が良くなっていくようだ。
ミレイユはそれを見ながら、さて次はどうしようかと考えていた。
以前はマジックショーブームなんてものがあって、テレビでもそれなりの数が放映されていた。しかしそれも昔の話で、どういったものがあったのか咄嗟には思いつかない。
スプーン曲げが脳裏に閃いたが、それこそ念動力を使った力技で曲げるだけで、スプーン一本を駄目にしてしまう。もとに戻しても一度曲げた金属は、完全に元の形にはならない。幾らか歪んだスプーンになるし、そうなれば客前に出すには不健全となるだろう。
店側の許可を得られるか分からないものを、事後承諾を貰える前提でやるものではない。
では何をやろうか、と考えて、次に思い出したのはコインを消すマジックだった。
手の平や手の甲へ、上手い具合に挟み込み消したように見せるマジックで、実は手の甲に筋力を付けて行う力技だと知った時は驚いたものだった。
ミレイユならもちろん、これを個人空間に収納するだけで消したように見せる事が出来る。もしアキラがこれを知れば詐欺だと言われるような所業だが、そもそもマジックはタネを割ってみれば詐欺みたいなものだ。
箱にカードを隠して蓋をして、開けてみれば別のカードなんていうマジックも、そもそも箱自体に工夫していて本人は底のスイッチを押しただけ、なんていうものもある。
それを思えば、タネはあっても仕掛けはないだけ、ミレイユのマジックは上等だろう。
そしてミレイユは先程思い付いた二つのネタを、組み合わせて使ってみせる事にした。
カップのソーサーについていたティースプーンを、摘んで見せつけるように顔の前に翳す。
これを消したように見せるマジックを披露するのだ。
スプーンを消すマジックも割とメジャーだったと思うが、コインよりも大型のスプーンは消したように見せるにも限界があって、そのパターンも少ない。
しかしミレイユにかかれば、そのような定石などあってないようなものだ。例え指先一つ、爪先一つでも接触していれば、対象が物体であれば収納できる。
それに収納した物を出すなら手の中ならどこでも出せる。手の平、指先、手の甲でも。大きいものを手の甲に出せば落とすだけなので普通はやらないが、こういう場合なら実に見事なマジックに見えるだろう。
ミレイユが次のマジックを見せるつもりだと分かって、莉子もその親たちも興味津々だ。
持ち上げたスプーンを左右にプラプラと振って、それを二度、三度と続ける内に、ふっとスプーンが消えてしまう。
眼を見張る間に、もう片方の手を翳すと、そこにスプーンが現れる。
ほぅ、と息を吐くように感嘆する親たちと、手を叩いて喜ぶ莉子。
だが、どうして消えるのか、マジックというものを知らない莉子は、マナー違反とも取れる行動を取った。
椅子から降りた莉子がミレイユの手を取って、手の表と裏を引っくり返して見る。
「ママ、スプーンどっかいっちゃった」
「こら、莉子ちゃん。めっ、めっだよ! そういうことしちゃダメなの」
母親は慌てて引き離して、頭を下げながら席に連れ戻す。悲しげな顔をして消沈する莉子に、ミレイユは帽子のツバを下げながら立ち上がる。
ミレイユはゆっくりと莉子に近づくと、その場にしゃがんで莉子の耳元に手を向ける。
「スプーンはここにあったんだ」
そうして眼の前に持ってきて、スプーンを手渡してやる。
莉子は目を輝かせて受け取り、母親にスプーンを見せびらかす。母親はミレイユに感謝するようお辞儀をして、莉子を撫でてあやした。
「ママ、あった! これ! りこのところにあった!」
「良かったわねぇ」
親子の団欒を後ろにミレイユは自席へ戻り、足を組んで背に凭れた。
ユミルは笑い声を抑えるのに必死で、口に手を当てて肩を震わせている。ルチアは呆れた顔を隠そうともせず、何をやってるんだこいつ、と言外に語っていた。
アヴェリンも似たようなもので、顔にも口にも出さないが、ただ子供に優しくしているところだけ評価しているように見えた。
コーヒーのお代わりでも頼もうと思ったが、先程アヴェリンが注文していたのを思い出した。後で持ってきた時にでもしようと、店員が来るのを待っていると、先程の莉子がスプーンを手に持ってやってきた。
両手で持ったスプーンを差し出して来たのを見て、返しに来てくれたのだろうと思っていたら、屈託のない笑顔で言ってくる。
「もっと見たい! もっと見せて!」
ミレイユは思わず帽子のツバを摘んで下げる。
このぐらいの年頃の要求は際限なく、また大きくなっていくものだ。いつまで続けたものかと思って、視線を遠くに向ければ見知った顔が歩いている。
まだ近くまで来るには時間が掛かりそうだが、それまでならいいだろうという気持ちになってきた。
母親も子供をあやしてくれる存在をありがたく思っているフシがあり、特に咎めることなく見つめている。いやあれは、本人も見られるものなら他のマジックを見たいと思っている顔だ。
ミレイユはスプーンを受け取って莉子の席を手で示す。帽子のツバを摘んで下げると、それが合図だと思ったらしい子供は、喜んで席に戻った。
「あまり見せれるバリエーションは多くないんだが……」
「よく言うわよ」
「ですね、よくあんな発想が出てくるもんです。子供騙しにすらなってないのに」
外野には手を振って黙らせて、ミレイユはスプーンをぞんざいに上下に振った。
莉子は目を輝かせてそれを見つめ、その小さな両手を胸の高さで握っている。
指先まで綺麗に伸ばした左手を、縦にしたまま胸の前で構える。見ようによっては、ゴメンのポーズに見えるだろう。
その手の平に横向きにしたスプーンを近付けて、その頭が接触したかと思うと、するりとした動きで手の平の中へ消えていく。
パンと手を打ち鳴らし、両手の平を莉子に見せて、何もないと証明するように手の甲へも順に見せた。
「ほぁぁ……」
莉子は口を開けて左手と右手を見比べ、消えた事実に喜び、そしてミレイユは手首を翻して右手で摘む動作を見せると、そこにスプーンが現れる。
「きゃぁあ!」
そして現れたスプーンに手を叩いて喜んだ。
しかし喜ぶ声を上げたのは莉子だけでも親たちだけでもなく、後ろからもかかってきた。
「すごいですね。後ろから見てたのに、まるで分かりませんでした!」
声を掛けてきたのはこの店の店員で、アヴェリンに給仕をしながらにこやかな笑顔を向けながら言ってくる。
アヴェリンは見た目にも美しいスイーツに喜色の声を上げ、ミレイユはコーヒーのお代わりを頼みつつ肩を竦めて見せた。
「おや、不躾な観客もいたものだ。見たいのなら、どうぞお好きな席へ」
「まぁ、嬉しい! ……あ、でも、いいのかしら。お客様を放っておいて」
「その辺はまぁ……、あなた方店員のさじ加減一つじゃないのか」
そうしてミレイユは、莉子にスプーンを手渡すように差し出す。不思議そうに顔を傾け、母親にいいのかと伺うように顔を向けた後、頷きが返ってくると喜んでスプーンを受け取った。
それからスプーンをどうしようかと思っているところへ、ミレイユがその手を握って持ち方を変えてやる。持ち手を下に、そして頭を上に。
持ち手部分を両手で握らせ、スプーンの頭をよく見るように指示した。
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