新たな騒動 その8
「ざっけやがって、アイツら! 俺を残して逃げてタダで済むと思ってんのか! ――おい、オメーら何してんだ! さっさとこいつらマワして泡にでも沈めてやれや!」
「……泡?」
海じゃなくて、とユミルがアキラに顔を向けた時、一際大柄な男が突っ込んできた。
緊張感もなくこちらを見つめるユミルに、アキラはその後ろを何度も指差す。
「後ろ後ろ! 前見て!」
短く警告を発するも束の間、男は既にユミルの肩を掴み、押し倒そうとしている。
ユミルはそれに掴まれるまま、男を面白そうに見つめ返した。男の顔は怒りとは違う形で赤く染まっており、鼻息荒く力を込めて前のめりに顔を近付けていく。
だがユミルの身体は一歩分の距離すら、その場から動かない。まるで電柱に向けて押し相撲でもしているかのように、滑稽な程びくともしなかった。
男がユミルを押し倒そうと、息を大きく吸い更に体重をかける。
しかし、ふと気付いてユミルはその手をぞんざいに払った。
「ぎゃあああああ!!」
男は盛大にすっ転び、そして自身の腕を見て驚愕する。
腕が折れて、そこから骨が突き出してしまっている。痛みと起こった現象に理解が追いつかず、男は動きを止めて変な角度で曲がっている己の腕を見つめている。
そこへ一歩二歩と近付いて行くユミルが、呑気な声で言った。
「イヤぁね、服が汚れるでしょ? 今は替えがないんだから、あまり粗雑に扱いたくないのよね」
そして男の足――膝の皿へ蹴りを落とす。
それでまた男は叫び声を上げて、地面の上で身体を大きく揺らした。
もう既に、残りの男達は異常事態に恐慌状態へ陥っている。更に逃げ出そうとした男たちは、身を翻したと同時盛大に転ぶ。
何が、と思って見てみれば、自分達が立っている場所から工事現場の入り口まで、地面がすっかり凍ってしまっていた。
既に夏が近いこの時期、剥き出しの地面が氷に覆われるなんて有り得ない。
夏靴で滑り止めもついていない履物では、完全に凍りついた床板を歩くのは容易な事ではない。今すぐこの場を離れたいと必死になっていればこそ、尚の事だった。
アキラは誰があれをやったのかと、ミレイユの方に顔を向けて、それがルチアによって引き起こされたのだと知った。
その手に青い光を纏わせ、一振りして掻き消す瞬間だけ見ることが出来た。
ユミルは無造作に痛がる男を通り過ぎ、恐怖しながら身構えるように腕を上げたセージを殴り飛ばした。視線すら向けずに腕を振るい、うめき声を上げて顔を覆うセージを放って、氷の床で未だに立ち上がれない男達に近寄る。
いい加減、這って進む事に気付いた男達が、手の平を冷気で痛め、悪態とも懇願とも取れない声を上げながら出口へ進む。
そこへ変わらず無造作に歩を進め、氷の床へ踏み入り、やはり何の抵抗もなく歩いて男達を蹴り飛ばす。男達は一様に出口から遠退く形で吹き飛ばされ、痛みに喘ぎながらユミルを見返した。
そこにはもう、下卑た欲望の顔は見られない。
ただただ恐怖だけに塗れており、引き攣った表情で見つめている。同時に、声も発せず、興味も見せない他の女達にも恐怖の視線を向けていた。
「な、なんだ……。何なんだ、何が起きてんだよ!?」
「……ここまでされて理解できないの? 残念な子ね」
ユミルは蔑み、見下しながら頬を殴る。拳を固めず、軽く握った程度のパンチだったが、鍛えてもいない男を昏倒させるには十分だった。
気絶させた男の腕を取り、木の枝でも折るように気軽な調子で圧し折ってしまう。昏倒した男は呻いて目覚め、そして痛みで絶叫した。
「ぎゃあああああ!!」
「んー……、アンタの声は好みじゃないわ。黙りなさいな」
そう言ってもう一度男を殴り、再び昏倒させると別の男に標的を移す。
目が合った男は首を左右に振り、逃げ出そうとして立ち上がる。しかし出口は氷の床に覆われていて、まともに進むことも出来ないのは先程証明済み。かといって周りは高い壁になっていて、しかも取っ掛かりもないからよじ登る事も出来ない。
青い顔をして絶望する男は、それでも一縷の望みをかけて出口に向かって走り出す。しかし氷の床に辿り着くより先に、ユミルの方が追いついて、その足を蹴り上げた。
その衝撃で足が折れ、頭から地面に落ちる。咄嗟に腕で受け止め、顔を上げようとしたところで更に下から蹴り上げられた。
歯が折れ、口から血を飛ばしながら気絶する。
それでもユミルは蹴るのを止めない。適当に身体中を蹴りつけ、遊び終わったボールを片付けるかのように、男を遠くに蹴り飛ばす。
頭から落ちなかったのは、果たして幸いだったのか。
衝撃で息を吹き返し、全身の痛みで叫び声すら上げられず、ただうめき声を上げながら悶えている。
ユミルはつまらなそうに他の男へ目を向けた。
次の標的を見定めるように、一人の男から別の男へ、そしてまた別の男へ移っていく。
逃げ出そうとする者はいなかった。動けば自分が標的にされると分かっているからだ。あるいは示し合わせて全員で別々に動けば、誰かが逃げ出す事は出来たのかもしれない。
しかしそうする為に声を出すにも、恐怖と自己保身が前に出て動かない。
ユミルは一人に近付いて胸ぐらを掴むと、顔をとにかく殴りつける。
懇願して助けを求める声を無視して更に殴り、声も出なくなると投げ捨てた。そしてまた、違う男を――逃げようと身を捩る男を無理矢理立たせ、殴りつける。
逃げ出そうとする男が出れば、それに合わせて標的を変えて痛みつける。
工事現場には泣き声と嗚咽と、殴られる音、そして痛みに合わせて出る悲鳴が溢れた。
「何だよお前、何なんだよ! 何でこんな事になってんだよ!」
「やだやだ、なんで自分達が被害者って顔してるのかしらね。アンタ達、今まで好き勝手やって来たんでしょ? 倍以上の人数連れて、アタシ達囲んで、それで何かしたかったんでしょ? 圧倒的有利な状況作っておいて、反撃されたら被害者面って、そんなの通らないでしょ」
ユミルが更に呆れた声を出して、手近な男を殴り飛ばした。
その悲惨な状況に、思わずアキラの声が漏れる。
「……いや、どっちかって言うと、たった一人に蹂躙されている事実に嘆いているんじゃないかと」
「そうなの?」
多分、と言ってアキラは頷く。
実際問題、現実として十人以上の男をたった一人で倒せるとは思わない。仮に格闘経験者であっても、三人の男に女性が囲まれれば敵わないものだ。
だというのに、華奢な腕で掴んで骨を折ったり、片腕で男を掴んで殴り飛ばすなど、常人には想像もつかない現象だ。
「まぁ、どうでもいいわねぇ。ここらでちょっと、そのオイタを後悔しておきなさい」
散々殴られ、口や鼻から血を流し、庇うように両腕で顔を覆っていた男を持ち上げる。
それはセージと呼ばれていたリーダー格の男で、やおら胸ぐらを掴み、立たせた所で腹を殴る。腹を抑えて屈んだところで頬を殴り、地面に投げ捨てた。
「アンタは特に念入りにね、ちょっと怖い思いしてもらうわ」
セージの顔が恐怖で歪む。
悲鳴を上げての懇願は意味を成さず、それは気絶してもなお続けられた。周囲の男も結局誰も逃げられず、例外なく痛めつけられた。酷い怪我を負わされたのは事実だが、死者は一人も出ていない。
これを果たして手加減が上手いと表現していいものか、アキラは悩んだ。
ユミルが殴るのにも飽きて、帰ることを宣言した時、一貫して無視を決め込んでいたミレイユもその一言で腰を上げた。ビルより遠くを見つめて動かなかった彼女は、一度として顔も向けず声を出さなかったが、そこに何か違和感があった。
とはいえ、その正体は分からず、心の奥底でムズムズさせ、その場から立ち去る面々の後に続く。
ルチアが先頭に立って氷の床を綺麗に消せば、その場に残るのは傷だらけ血だらけの男達ばかり。
うめき声とすすり泣きが残る場を後にして、アキラは暫くしてから救急車だけは呼んでおこうと思った。
◆◇◆◇◆◇
市内の総合病院に複数人の男が担ぎ込まれ、そして例外なく重傷を負わされていた、というのは大きな事件性があるように思われた。
しかし、それが表に出る事はなかった。
何故かといえば、被害者たちが一貫して事件の内容を語らなかったという部分にある。
事件発覚直前には、男達が女数人を囲んでいたという目撃情報もある。何を話していたかは不明だが、女達を逃さないよう囲んで町の暗がりに消えていったという。
そもそも評判の悪い連中でもある。
女性の強姦事件でも容疑に上がるような奴らだから、その女性たちも新たな被害者として標的にされたのだろうというのが周囲の見解だった。
しかし蓋を開ければ、怪我をして半死半生の目にさえ遭っているのは彼らの方だ。
何があったのだろうと思うのは当然で、聞き出そうともしたのだが、彼らは頑として口を割らなかった。
腕が折られ、足を折られ、肋を折られ、頬骨を折られ、そして心も折られた。
彼らが語らないのは物理的に口を利けないという理由だけではなく、何より恐怖によって事件のあらましを語ることを拒否したからだ。事件性は明らかだが、怪我をした本人たちにも後ろ暗いことがある。
だから詳しい内情は語られず、そして被害届すら出さないと分かった事で、なおさら事件性は希薄になった。
しかし事件を知って、それを詳しく内容を聞こうとした男がいる。
その男は鼻息荒く、顔には怒りの表情を貼り付け、額からは青筋が切れてしまいそうな程浮き上がらせて歩いていた。
足音を乱暴に立てながら、今にも男達が入れられた病室に踏み込もうと入口に手を掛ける。
男の名は霧島竜一郎、セージと呼ばれ連中のリーダーをしていた男の親だった。
病室の名札を確認し、部屋の中に入ると、そこには複数人の男が同じ様な状態でベッドに寝ていた。誰もが目を覚ましていて、折れた足を宙に吊った姿で、入ってきた竜一郎に瞠目している。
男の誰からも声は掛からない。
誰もが竜一郎の顔を――引いては職業を知っていて、かける言葉を持てないのだ。
竜一郎は六人部屋の奥にその顔を見つけると、入り口近くに立て掛けてあったパイプ椅子を持ち上げ、セージの身体に投げつけた。
「ばっ、何すんだ、オヤジ!」
パイプ椅子は畳まれたまま、ベッドの手摺りにぶつかり、派手な音を立てて床に転がる。
竜一郎はそれを拾い上げて、セージの頭に振り下ろそうとして、後ろから着いてきていた部下に取り押さえられた。
「それはマズイです! 死んじまいます、落ち着いてください!」
「死んじまえばいいんだ、こんな奴ぁ! お前なにやった、え!? 今度はどんな馬鹿やらかしたんだ!」
「オヤジ……!」
セージは目を伏せ顔を顰めようとし、痛みで顔が引き攣る。
竜一郎はパイプ椅子を取り上げられる否や、背後から腕を取っていた部下たちを引き離した。興奮は冷めやらず、勢いそのままセージへと詰め寄る。
「なぁ誠二、お前が馬鹿やる度に、うちがどれだけ苦労してるか十分話したよな? サツにも目をつけられてる、シノギは減る。大取引は控えてる、そのクセ病院送りにされて泣き寝入りだ!? お前どれだけ俺の顔にドロ塗りゃ気が済むんだ!」
話している内に怒りがぶり返してしまったようだ。
誠二を蹴りつけようとして、ベッドの手摺りに阻まれる。苛立たし気に近付いて、胸ぐらを掴もうとして、やはり部下に止められた。
竜一郎はヤクザの組長だった。
いつだって楽な日などなかった。組の長とはいえ、派閥の長と言う訳ではない。常に上納金は収めねばならないし、部下を食わせてやらねばならず、世間が思うほど楽な生活をしている訳ではない。
そして、その為には海外との危ない取り引きにも、手を出さざるを得なくなった。
取り引きするのに信用に足る相手、相手にも少なくとも馬鹿ではないと思われなくてはならない。
だというのに、ここに来て息子の不始末だ。
怒らない訳がなかった。
竜一郎は部下に命じて、椅子を開いて置くよう命じた。
その上に腰を下ろし、誠二に顔を近付け、唸るような声を出す。
「――で、誰にやられた?」
「オヤジ、仇とってくれんのか……?」
「取りたくねぇよ、馬鹿野郎!!」
竜一郎は怒鳴り散らして唾を飛ばす。
先程から騒がしい病室に看護師が様子を見に来て、別の部下に宥められている。
「テメェの事なんざどうでもいし、テメェの為に仇なんざ取りたくねぇ。だが、分かるか?」
「なんだよ……」
「面子が大事って、いつも言ってるよな? じゃあ取らなきゃならねぇだろ、ここで黙っちゃ周りから舐められる。しっかりケジメ取らせなきゃいけねぇ」
「お、おう……」
「だから早く話せ。俺が暇に見えるか? こんな辛気臭ぇ場所でくだらねぇ話、していたいように見えるかよ? ――早くしろ、スマホにデータあるなら、それでもいい」
竜一郎の凄みに気圧され、誠二はとにかく起こったことを話す。
スマホに収められた写真データは幾つかある。主犯となる殴りつけて来た女、一緒にいただけで直接手を出さなかった女たち、それを幾つかのアングルから。
そして最後に、この怪我は全ては一人にやられた事を話した。
竜一郎は最初、それを信じなかった。
一人、それも女がやってのける事件じゃない。何か薬でもやって記憶に間違いがあるのだと思ったくらいだった。しかし同じ病室にいる、同じく怪我させられた者たちも同じ意見だと分かると漸く理解を示した。
「はっきり言って未だに信じられねぇが、そこまで言うなら話半分程度には信じてやる。お前らが女五人にやられた、相手は凄腕、そしてお前らはラリってた。そういう事だろ?」
竜一郎は吐き捨てて病室を出る。
部下に命じて写真データを部下内で共有し、すぐに身元を調べるように命じた。
日本人でないなら、その身元を調べるのに時間は掛からない。見ただけで分かる絶世の美女、これが目立たぬ訳がない。
上手くやれば、これだけの上物、売るなり飛ばすなり好きにやって良い思いも出来る。皮算用を頭の中で弾きながら、隆一郎は病院を後にした。
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