希求 その5


 翌日、アキラが目覚め、運動服に着替えを済ませて顔を洗っている時だった。

 先に準備運動だけでも済ませておこうと部屋を出ようとして、アヴェリンが現れた事に気づく。その表情から疲れが見え隠れしていたが、とりあえずアキラは挨拶をした。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。今からか?」

「はい。とりあえず、走って身体を温めて来ようかと」

「……ふん。ならば、そうしろ。こちらも準備を進めておく」


 アヴェリンも肌着のような袖の短い麻布と、同じような材質に見えるズボンを履いていた。首を大きく巡らせてから、コキコキと骨を鳴らす。

 一緒に走るという意味かと思ったが、アヴェリンはまたすぐに箱の中へと戻ってしまった。待っていろという意味じゃないだろうと思い、アキラは靴を履いて部屋を出た。


 朝日がこれから顔を出すという時間帯、山の稜線が僅かに光が覗かせていた。

 アキラは大きく深呼吸をして、その場で足の靭帯を延ばし、股関節を広げて膝に手を付き、身体の柔軟を始める。

 柔軟の重要性は言うに及ばず、怪我を防ごうと思えば疎かにする事はできない。とはいえ、ここで時間を使いすぎても、恐らくアヴェリンは怒るだろう。

 疲れ切った後の寝起きの身体は凝り固まって、なかなかすぐには起きてくれない。

 昨日の訓練を考えれば、念入りぐらいが丁度いいと思うのだが、あまり悠長にしてれば怒りの投げ飛ばしを喰らう。


 手早く済ませて、アキラはアスファルトを蹴った。

 軽めのランニングと、瞬発力のダッシュ、緩急をつけた走り方をしながら周囲の道路を一周する。アパートの前を通っても、まだアヴェリンは出てこない。

 三周目が終わった時、アヴェリンが階段を降りてくるのが見えた。丁度軽めのランニングのパターンだったので、そのままの勢いでアパート前で止まり、肩で息をしながら整える。


 降りてくるのを待っていると、何か手荷物を持っていると分かった。

 アヴェリンの手には、一本の棒と袋に包まれた棒状の何かがある。


「……ほら」

「はい?」


 無言でそれを突き出されて、思わず受け取る。ずっしりと重く、鉄製の何かだとは当たりがついた。アヴェリンが手に持っている棒も鉄製なので、もしかしたら同じものなのかもしれない。


「あの、これは……?」

「とりあえず、もっと広い場所に行く。音を立てても迷惑にならない場所がいい。……どこか当てはあるか?」


 言われてアキラは考え込む。

 空は既に白ずみ始めていて、朝の早い人なら起き始める頃だ。犬の散歩をする人もやはりそろそろ活動を始める時間帯、音を立てれば迷惑になること間違いない。


 近所の公園のような場所は駄目だろう。周りは住宅地になってるし、程々の広さはあるものの、やはり音を立てると絶対に迷惑になる。

 アキラはちらりとアヴェリンの手元に目をやる。

 昨日と違い、棒を持っての訓練というなら、あれを打ち付け合うような事をするのだろう。だったら尚の事、この近辺で行う事はできない。


 そこまで考えて、いつもと違う行動範囲に牧場跡地がある事を思い出した。

 近くには中学校もあるが、そこは住宅地から離れていて迷惑をかける人もいない。ベッドタウンとして開発が進めば、その周辺も住宅が建てられていたのだろうが、残念ながら移住者も伸び悩み、結果として過疎地になってしまっている。


「ちょっと離れているんですけど、いい場所があります」

「では、案内しろ」


 簡潔に命じて、アヴェリンは顎でしゃくる。

 アキラは走るには重い棒をどう持ったものか考えて、とりあえず片手でバトンのように掴んで振ってみる。持ち重りがして、このまま走るには片方に重心が寄り過ぎてしまいそうな気がした。

 アヴェリンを見ると、特に気にした風もなく、アキラと同様に棒を持っている。


 とにかく走ってみなければ始まらないと、どうにも持て余し気味の棒袋を握り締めて地を蹴った。





 ――体力の差というのを馬鹿にしていた。

 アキラは目の前を走る背を見ながら、そう思った。

 簡単に行き先を告げて、次の信号を先に進むと言った途端、アキラを越して先に言ってしまった。チラリと背後を振り返り、アキラと視線が合わされば、それは着いてこいと告げている気がした。

 だから必死に背を追うのだが、いつまで経っても追いつけない。

 足の回転を早め、追いつけないと分かるや更に早めて、それでも尚追いつけなかった。

 まるで、出来の悪い悪夢の中に迷い込んでしまったかのようだった。


 一般に、世界選手権に出場するような女性選手のフィジカルと、日本の全国大会決勝の高校生男子のフィジカルが同等とされている。

 アキラは決勝進出できるような実力を持っていない。しかし、だからこそ、体力勝負なら勝てはせずとも、大きな負けはないと思っていた。


 必死に足を動かし、息切れをしながら腕を振り上げても追いつけない。

 アヴェリンがアキラの足音を聞いて速度を調節しているのだ。明らかに速度はアキラ以上を維持しているのに、時折ちらりと向ける顔からは涼しい表情が返ってくるばかり。

 息切れ一つしていない。


 更に、ここに来て鉄の棒が入っていると思しき袋も邪魔になっている。

 持ち慣れない重さの荷物は、余裕のない走りにはとにかく邪魔だ。それを理由に追いつけないのだ、と自分に言い訳して、とにかく走る。


 信号を越えて、更に走り続けると草原が見えてきた。

 草原というほど立派なものではなく、ただ誰も刈り入れをしないせいで伸び放題になった雑草ばかりの原っぱだった。

 遠くには一件だけ民家があり、そちらは今も人が住んでいるようだった。家も大きく車も何台か見える。家の後ろに見える農地が、その人の土地なのかもしれなかった。


 アヴェリンが足を止めたのを見て、アキラもまた止まる。

 額に汗して息を切らし、両膝に手を着こうにも棒袋が邪魔で、仕方なしにそれを杖代わりにしようとして、頭を叩かれた。

 あまりに小気味よい音がして、驚きと痛みで仰け反る。


「――ぁ痛っ!」

「何をするつもりだ、馬鹿者」


 痛む頭頂部を撫でながら顔を上げると、怒り心頭のアヴェリンから睨まれた。

 その美貌は不機嫌顔であるのにも関わらず、些かも霞まない。怒り顔が似合う人だな、と不謹慎にも思ってしまった。

 その内心を悟った訳でもないだろうが、アヴェリンはもう一度平手で側頭部を殴って棒袋を指差した。


「いいか、それを自分の妻とも女とも思って丁重に扱え。疲れたからと寄り掛かる者がいるか」

「え、あの……はい。すみません」


 アキラは訳が分からず、とりあえず頭を下げた。

 そんなに貴重な物を持たせるなら、一言いってくれても良かっただろうに、と不満を滲ませるも、本人を前にそんなこと言えよう筈もない。

 どうせまた一つ叩かれるだけだし、そもそも師匠として鍛錬を授けてくれる相手に反論も弁論も必要ない。

 少なくとも、まだ歩き出してもいないヒヨッコの自分に、何かを意見する権利などないと理解している。


「でも、これ一体なんなんです? そろそろ教えてくれてもいいのでは……」

「じゃあ、袋の紐を解いてみろ」


 言われるままに口紐を解き、蓋のように閉じられた頭部分を開くと、目に入ったのは柄の頭だった。時代劇で見た事がある、刀の柄にある頭のように見える。

 すこし視線をずらせば、柄より下、網目のような柄巻きも見えてきた。

 実際にテレビで見るような派手さはない。鍔にもガラはなくシンプルなもので、芸術性を削った実用性重視というコンセプトが見えるような一品だった。


「これは……!」


 更に袋の中に手を入れ、中から全て取り出して全貌を確認する。

 鞘の方もやはり遊び心も華美な装飾もなく、実用性重視である事が伺える。だがそれが返って気品を感じさせた。


 なるほど、これは言われて当然だ。昨日、二人が言っていた自作する刀というのがコレの事を指しているなら、無礼な真似が出来る筈もない。


 アヴェリンは両手に捧げ持って視線の高さまで上げるアキラに、簡単な解説をする。


「刀身はミレイ様と私が共同で作った、玉鋼の柔堅合い金造りだ。切れ味を増やす為、刀身はわざと荒い研磨に留めた。鍔は鉄製、錆止めが塗ってあるくらいで特別な事はない。柄巻はミレイ様が直接巻いた。糸は防腐効果の高いメジロ糸。鞘は私が、特殊な蝋を浸かって塗り込み、炭を使って研磨した。滑り止めにもなり、持ち手の負担を軽減する」

「手間が掛かってるんですね……」

「そうでもない。むしろ手抜きの部類だ」


 これ程の一品を見て、アキラは身震いするような気持ちがした。受け取ってしまっていのか、という思いと、誰にも渡したくない、という二つの気持ちがせめぎ合う。

 到底、昨日渡した端金では釣り合わない一品が、そういう気持ちにさせるのだろう。


「でも、いいんですか? 僕には分不相応というか……」

「勿論、そうだ」


 アヴェリンはきっぱりと頷いた。


「それには最低限の品質しかないが、それでもミレイ様が手ずから作られた品。お前には勿体ない。それに、その刀には二つの魔術が付与されている。それ一つで他の装備一式が揃えられる程になる」

「一式……?」

「頭を守る兜から、足元を守る脛当てまで。加えて旅道具だとか食料品とか、おおよそ冒険初心者の装備一式分の値段以上の価値が、間違いなくある」

「それでも手抜きの品なんですか……」


 アヴェリンはまたも頷いて、鞘をなぞるように指を動かす。


「この武器には不壊の魔術が掛けられている。つまり、同じ金属で幾度となく打ち付けようと刃こぼれしない。血や油で錆もしないし、柄糸が腐る事もない。あくまで身嗜み程度の手入れをするだけで、一生使える代物だ」

「す、凄いじゃないですか……」

「まぁ実際には、己の実力が上昇するにつれ、その切れ味などに不満も出てくるだろう」

「出ますかね……?」


 アキラが胡乱げに言えば、アヴェリンは小馬鹿にするような笑みを浮かべる。


「切るものが常に変わらなければ、勿論そうだろう。だがより強い魔物というものは、より強い外皮を持っているものだ。鱗、甲殻、骨格、筋肉、刃の通らない相手など幾らでも出てくる。――より強い敵と戦うつもりならば」


 言われてアキラはハッとした。

 小さな小競り合い、小さな相手、そればかり相手にするのなら、確かに武器に不満など生まれないだろう。

 だがもし、より強力な相手と戦わなければならないなら。

 そして倒した敵より、更に強い敵が襲って来たなら。

 戦う意志があり、臆するつもりもなくても、刃が通らないのなら、別の武器を望むしかない。

 そういう事なのだろう。


「でもまずは、武器に慣れないと、ですね……」

「そうだな。だから不壊の特性を付けたとも言える。どうせ慣れた武器で訓練しないと、実戦では役に立たん。そして訓練で武器を潰しているようなら意味もない」

「……はい。でも、だからって、わざわざそんな手間を掛けてくれたんですか?」


 アヴェリンは明らかに、不愉快そうな顔で眉を顰めた。


「そんな訳ないだろう。どうせ、お前に手入れをしておけと言っても出来ないだろうからだ」

「ああ、はい……」


 それは確かにその通りだが、教えてくれればやるし、やれるようになる。

 とはいえ、彼女からすれば、単にその手間を煩わしいと思ったのかもしれないが。

 そこでふと、先程アヴェリンが言った事で、気になる単語があった。


「えぇと、二つ? 魔術を二つ付与したと言ってましたけど、もう一つはどういう効果なんですか?」

「お前はそれを知らなくていい」

「えぇ……?」


 吐き捨てるように言わられて、アキラは思わず肩を落とす。

 嫌悪感すら剥き出しにして、アヴェリンは睨みつけながら人差し指を突きつけてきた。


「いいか、ミレイ様が決めた事だから、二つの付与に文句は言うまい。しかしだ、二つ目を知れば、お前は必ずそれに頼る。頼る事が前提になり、必要な努力を疎かにする。だから教える時期は私が決める」


 言葉の端々に嫉妬が見え隠れしたが、アキラは言葉を飲み込んだ。

 それがどれだけ魅力的な効果なのか、今は知りようもないが、故に知ったら頼る葛藤が生まれるのだろう。知りようもないなら、確かに使用も出来ないのだから。

 アキラは、善意のような悪意を受け止めながら、しっかりと頷く。


「分かりました。その時期についてはお任せしますので、よろしくお願いします」

「……ああ。その時が来ることのないよう、祈っておこう」

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