不安と不穏 その6

 勢いよく引き振るわれた包丁には、血の一滴もついてない。

 そう思った瞬間、アヴェリンの手首から大量の血が吹き出した。


「あ、おぁああ!? 何で! 血! 出てる!! 血、出てますって!!!」


 吹き上がる血に顔面を濡らして、アキラは逃れるようにして身を引く。平静を装うアヴェリンの顔は蒼白で、身動ぎ一つしない。

 助けを求めてミレイユに顔を向けても、呆れたような表情が返って来るばかり。何の対応もしてくれない。


 アキラの混乱と驚きが頂点に達した時、その横からは押し殺したような笑い声が聞こえてきた。

 咄嗟にそちらへ顔を向ければ、ユミルがぷるぷると震えて笑いを堪えている。そして視線に気付いた彼女は、満面の笑みでその両手を、自分の胸の前で弧を描いて外へ広げた。


「サプラァ〜イズ!」

「――はぁ!?」


 見れば自分の顔や両手を濡らしていた血は綺麗に消え去り、生暖かく胸の下まで伝っていた血もなくなっている。

 勿論アヴェリンの手首には傷もなく、血の一滴たりとも付いていない。刃を引いた痕すら見受けられなかった。


 では、あの冷めた目は――。

 血など吹き出していないのに、臆病にも幻視してしまった男のように見られたのか。

 恥ずかしい思いで身を固くしていると、咎める口調でミレイユが言った。


「……何だ、ユミル。また何かしたのか」

「んふふ、そうそう。思いっきり刃を引いてみせた方が分かり易いわよ、って助言する振りしてねぇ。あーっはっは! アンタの顔ったら!」


 全く気にする様子もなく、指差して爆笑するユミルに、アキラも耐え兼ねない気持ちが腹の底から沸き上がってきた。

 何事かを口にする前に、ユミルが先に口を開く。


「まぁ、ちょっと緊張しすぎね。何を言われるかとビクビクする気持ちも分かるけど、少しはリラックスしなさいな」

「えぇ……」


 助言を口にするユミルからは、しかし実直な雰囲気はまるで伝わって来ない。未だに口元をニヤけさせているし、ルチアは笑いを堪らえようと俯いて顔を赤くしている。

 痙攣するように身体を震わせているせいで、明らかにツボに入っているのは明白なのだが、敢えてアキラは触れずユミルに向き直る。


「その為に、あんな事を……?」

「そうよ。ピリピリした空気の中で言われちゃ、正しい判断なんて出来ないでしょ?」

「……それは、まぁ。でも、本当は?」

「サプライズは二発目が重要って書いてあったから」


 ウィンクしながら指を差せば、ついにルチアの笑い袋が決壊した。テーブルに突っ伏して笑い声を上げる彼女に、席に戻ったアヴェリンがその頭を軽く叩く。

 アキラは涙を目に溜めながら抗議した。


「酷いですよ! あんなの見せられたらトラウマになりますよ!」

「あれぐらいで涙を見せるなら、そもそも向いてないわよ」


 涼しい顔で言われてしまえば、アキラも返す言葉をなくす。

 戦いに身を投じる者が、怪我と無縁でいられないのは分かる。しかし、だからと言って――。


「コイツは言葉どおりの人でなしだ。あまり真剣に話を聞く必要はないぞ」

「まぁ、酷い言われようだコト!」


 アヴェリンは蔑むように鼻を鳴らして言っても、ユミルには堪えた様子はない。

 失望されたかとミレイユを見れば、呆れた視線をユミルに向けているものの、アキラに対しては労るような素振りを見せた。


「……無駄に心労を重ねるような事になってしまったが、包丁で傷付かない事は理解できたか? もう一度確認するか?」

「いえ、大丈夫です」


 そうか、と頷いて、ミレイユは続ける。


「とにかくも、お前では魔物を倒す事はできない。木刀を持って力いっぱい振り下ろしても、痛痒を感じさせる事は不可能だろう」

「はい……」


 だから諦めろ、そういう話だろうと察しがついた。

 魔力を持たないこちら側の人間が、魔物相手に立ち向かうなど、土台無理があったのだと。

 アキラが項垂れて自分の気持ちに決着をつけようとしたところに、その声が降ってきた。


「――だから、戦う意志があるのなら、こちらから武器を提供しよう」


 アキラは顔を勢い良く持ち上げ、ミレイユを見る。

 その顔には偽りを言っている雰囲気はなく、ただ真摯に見つめる一対の瞳があった。

 そして同時に、これが最後のボーダーラインだと思った。ここを踏み超えると、もう二度と後戻りは出来ない。平穏を今までどおり、知らぬままに享受したいというなら、これが最後。


 アキラはその眼を見つめ返して頷く。

 自分の心に従えば、そうと返すしかなかった。知った以上、見ない聞かないという事はしたくない。そして自分に出来ると判断してくれたなら、その思いに応えたい。

 その気持を込めて、更に頷き、頭を下げた。


「よろしく、お願いします……!」

「そうか……。結局こちらを選ぶか」

「はい、許していただけるなら」

「許すも何もない。お前がそうしたい、と言うのなら、そうすればいい」


 アキラはもう一度頭を下げる。

 目の前にいるミレイユはオミカゲ様ではない。それは分かっている。しかし、心の底で、認められた事を歓喜する自分もまた感じられた。


「じゃあ、次は現実的な話といこう」


 努めて明るい声を出したミレイユに、アキラも頷いて応える。

 これから新しい何かが始まる。自分の知らなかった世界へ、そして脅威から守り戦う世界へ。心に熱いものを燃やしていると、そこに予想だにしない言葉が放たれた。


「武器のレンタル料金についてだが……」

「レンタル! 料金!?」


 突然現実世界に押し戻されて、アキラはその単語に過剰過ぎる反応を返してしまった。

 ミレイユからは幾らかの申し訳無さを感じるが、さりとて放つ言葉は変わらない。


「そう、レンタル料金だ。現実的に、こちらでしか対応できない武器を無料で渡すなど有り得ない」

「いや、それは……、そうかもしれませんけど」

「それだけじゃないぞ。お前はこれらに師事するのだから――」


 言ってミレイユはアヴェリンとルチアに顔を向ける。

 いつの間にか平静に戻っていたルチアが澄ました顔で頷き、アヴェリンも意を受けた騎士のように決然と頷く。


「それすらも無料で教えを請う、というのは虫の良すぎる話だ」

「それも、……そうです」

「私達にも生活がある。あちらで使える財産も、こちらで交換できるとは限らない。我々は日本円を欲している。……だから、取り引きだ」


 ミレイユはテーブルに両手を組み合わせて肘を付き、口元を隠すような態勢でアキラを見る。


「……お話は、分かりました。でもですね、僕もそんなに余裕があるわけでは……」

「分かっている。何も毟り取ろうという話じゃない。苦学生にたかろうとも思ってないしな」

「それは、助かります……」


 そうとは言われても、アキラの心中は穏やかではない。

 ミレイユの事は信頼できる一角の人物だと思っているが、月謝を払うものだと考えてみても、適正料金が見当もつかない。

 通っている道場からは温情を向けられているお陰で相当安くしてもらっているが、そこの適性価格を払えば良いのだろうか。


「それで、具体的な値段というのは……」

「それなんだがな……。適正な値を付けようにも、こちらとそちらでは価値観が違うだろう? 為替相場がある訳でもなし」

「ですね……」

「私は別に儲けを出したい訳でもなければ、技術を広めたい訳でもない。ただ不自由しない生活費を得たいだけだ」


 アキラは思う。

 道場の月謝など高くても一万円程度。女性ばかりとは言え四人が暮らして行くとなれば、食費を一万円に抑える事は難しいだろう。そもそも生活必需品なども買い揃えては、逐一補充せねばならず、それも踏まえれば到底足りない。

 かといって、アキラの懐事情から言っても、あまり高い値段は難しい。


「何もお前からの金で、全てを賄おうと考えている訳じゃないんだ。こちらはこちらで、別に稼ぐ手段を考えなくてはならないだろう」

「ああ、そうなんですね……」

「ええ? ちょっと本気なの?」


 安堵の息を吐いた後に、ユミルから不満の声が上がったが、ミレイユは視線一つで黙らせた。


「当然、そうなる。収入を得る手段は追って考えるが……。あくせく働くのも気乗りしない」

「やっぱりね。そうよね?」

「……うん。暮らすだけなら、暮らしていけるだろう。家賃が発生するわけでもなし、最低限の生活は保障されているようなものだが。……しかし食料は、いずれ尽きる」

「狩ればいいじゃない?」


 アキラは顔の前で手を横に振る。


「いえ、狩れるような生き物いませんって。いたとしても、大抵の場合保護されてたり許可が必要だったりで……。つまり、自由になりません」


 ユミルはげんなりとした顔でミレイユを見つめた。


「木の実だけの生活なんてイヤよ、アタシ」

「それは誰もが嫌だろうから、他に手段を考える」

「お願いよ」


 ユミルは懇願するような表情でミレイユに言った。今の生活水準を崩したくないという気持ちは分かるが、果たしてそう上手くいくのだろうか。

 アキラは他人事ながら心配になる。ユミルはワインをよく飲むが、決して安物ではないだろう。こちらの安ワインが舌に合えば良いが、きっとそうならないような気もしてくる。


 かといって、アキラとしても無い袖は振れない。

 アキラとて生活があるのだ。成人するまでは問題ないだろうが、私立の大学などとても望めない。場合によっては就職も視野に入れている。

 将来の展望が開けている訳でもないアキラもまた、気をかけられる程の余裕はないのだ。


「そこで相談なのだが、初回費用として少しばかり多めに貰いたい。――そんな顔をするな」


 ミレイユが苦笑したのを見て、アキラは自分の顔に手を当てる。そんな酷い顔を見せてしまったのだろうか。


「服を買う金が欲しいだけだ。こちら基準で安く済む金額で揃えようと思っている。古着だとか季節の変わり目の処分品だとか、そういう物で」

「ああ……。それなら近くに『しもむら』がありますよ。お洒落な人が利用する店じゃないですけど、シャツ三枚入りとか安く売ってますし」

「うん、そういうのだな。とりあえず、目立たぬ服装を手に入れるのが先決だ。……収入先を考えるのは、それからだな」


 気苦労を感じさせる溜め息が、ミレイユから漏れた。

 アキラとしても、その考えには賛成だ。恐らくは、いま着ている服装が彼女たちの私服に当たるのだろうが、やはり現代日本では浮いてしまう。

 ただ彼女たちの美貌を持ってすれば、そのような服とて奇抜には見えても奇妙には映るまい。コスプレと思われる可能性もあるが。


 目立たぬ格好をしたいというなら、やはり着る服は選ばねばならないだろう。


「分かりました。その金額については、こちらで持ちますよ」

「……助かる。なるべく安い物を選ぶからな……。お前たちも、暫くは我慢してくれ」


 ミレイユの疲れを感じる言葉に、誰もが頷いて応える。

 家人に貧乏生活を強いる事は、もしかしたら恥と感じるのかもしれないが、アヴェリンには気にした様子はない。ただ粛々と礼をし、己が意を伝えるだけだった。

 ユミルにしても我儘をこの場で言うつもりはないようだ。ちらりと眉の動きで不満を見せただけで、やはり素直に頷いた。

 ルチアについては、そもそも服装や貧乏について大した思いはないようだった。感情を感じさせない頷きを返しただけで、泰然とした雰囲気すら発していた。

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