不安と不穏 その5

「話をする前に――いや、違うな。これはそもそもの本題なのだが」


 ミレイユはアキラの目を、しかと見据える。


「一日経って、冷静に考える時間はあったろう。……それとも、一日では足りないか? 急ぐ話ではないからな、もっとじっくり考えるのも良いと思う」

「それって、つまり……」

「うん。戦う意志があるのか、それを聞いている」


 アキラは迷う素振りを一切見せずに頷いた。昨日、ミレイユへ伝えた言葉に嘘はなかったし、今更その言葉を翻すのも格好が悪い。

 確かに戦う事について、今日言われるまで深く考える事はなかった。しかしそれは、自分の中で既に決定していた事で、今更深く考える必要を感じなかったからだ。


 しかし、ミレイユはそのアキラの考えを見透かすかのように言葉を放った。


「言っておくが、前言を撤回する事は恥ではない。むしろ、冷静に物事を判断できたと褒めてやるところだ。――それで、お前はどうする」

「やります。昨日言った言葉を嘘にしたくありません。僕は自分と、自分の手の届く範囲でやれる事をやります」


 ミレイユは小さく息を吐いた。予想できていた答えだったらしく、表情にさしたる変化はない。ただ諦観にも似た雰囲気は感じられた。


「……そうか。ではアキラ、まずは聞け。質問は後だ」

「分かりました」


 アキラは素直に頷いて、次の言葉を待つ。

 しかしミレイユは幾つか考え倦ねているようで、黙考したまま口を開かない。だが聞けと言われたからには、どれだけ時間が掛かろうと待つべきだと思った。

 きっと――、彼女にしか分からない葛藤などがあるのだろう。


 カチコチと時計が秒針を刻む音が、痛いほど静かな室内に響く。遠くからバイクの走る音が聞こえ、そして遠退いていく。

 ――再びの静寂。

 痛いほどの沈黙とはどいう意味か、アキラは初めて実感した。

 たっぷりと十秒以上の時間を使い、ようやくミレイユが口を開いた。


「……まず一つ、先に伝えねばならない。お前では、最弱の魔物一匹にすら打ち勝つことはできない」

「う……っ」


 アキラは思わず息が詰まった。

 最弱と呼ばれる魔物がどれほどのものか、アキラには分からない。しかし一瞥して剣を扱う身体だと見抜く彼女からすれば、アキラの力量のほども推察できるのだろう。

 そしてその結果、取るに足らないと判断された。


 しかし剣術とは、膂力だけで振るうものではない。

 体捌き、足捌き、互いの間合い、牽制と駆け引き、幾つもの要素が絡み合って振るわれるものだ。自分自身、才能に溢れた人材とは思っていないが、かといって最弱以下の力量しかないと判断されるのは臍を噛む思いがした。


 ミレイユは、その表情を見て全てを察したのか、小さく笑む。


「悔しがれるのは向上心の現れと見ていいのか? まぁ、いい。打ち勝てないと言ったのは文字通りだが、お前の実力不足をなじるものでもない」

「それは一体、どういう……」

「仮にだが、お前はこれから戦えと言われたら、どうやって戦うつもりだった?」

「それはもちろん、自分が師事している剣術で……」

「つまり、真剣を使うという意味か?」


 アキラは慌てて手を振った。

 たかが一門下生に真剣を与える道場などない。もちろん武門の長兄でもないので、真剣の所持などしている筈もない。

 アキラが用意できる武器といえば、せいぜい木刀くらいの物だった。


「僕が持てる武器といったら、木刀ぐらいで……。あ、いや、でも良いものなんです。頑丈な樫の木を使った――」

「うん。つまり欲しいと思えば誰もが購入できる木の棒、という認識でいいんだな?」

「ええ、はい……。身も蓋もない言い方をすれば、そうなります」

「今、それを見せてもらう事は出来るか?」


 アキラは頷いて立ち上がる。しばしお待ちを、と断りを入れて寝室に戻り、ベッドの裏側――カーテンで隠すように立て掛けられた布袋を取り出す。木刀を入れておける長さのある、頑丈な布製だった。柄の辺りで紐結び出来るようになっている作りで、いざとなれば片手で紐解けるようになっている。


 それをミレイユの元まで持って戻ると、そのまま両手で差し出し渡す。

 受け取ったミレイユは紐を解くと、その柄部分だけを一瞥し、そのまま近くに座るルチアに渡す。渡されたルチアも一瞥だけして頷けば、木刀は盥回しするようにアキラに帰ってきた。


「確認したのは念の為だ。使えない武器だと再確認できたから、言わせてもらう」

「この武器じゃ、駄目だって事ですか」

「木刀を使おうという時点で話しにならんが。だが敢えて使おうというなら、何かあるのかとも思った」


 だが、アキラの持っている物は何も特別な物などではない。代々伝わる由緒ある品でもなければ、山陰に埋もれていた物でもない。

 道場への入門と同時に購入した、自分にとって思い入れのある、豆が潰れるほど振るった木刀だ。

 それだけと言われれば、それだけの品だった。


「そう悲しそうな顔をするな。お前が仮に真剣を持ってきたとしても、使えない武器だったと確認しただけだろうから」

「そうなんですか……?」

「では、何故使えないかを説明しよう」


 お願いします、とアキラは小さく頭を下げ、姿勢を正す。


「万物にはマナが宿り、それが魔力となって覆っている。水にも草にも岩にも、……勿論、人にも。そして、この世界にマナはない。これがどういう意味か分かるか?」

「何かこっちの世界では不利に働く、ということですか?」

「うん。マナの含まれない物質で攻撃しても、マナを持つ相手を傷つける事はできない」


 アキラは一瞬、何を言っているのか理解できなかった。

 それはつまり、魔物は無敵モードを使っているという意味にならないか。


「え、それ……。本当ですか? 銃で撃っても、剣で刺しても、相手は無傷だって事ですか?」

「そうだな。だが全くの無傷かと言われると疑問が残るが。例えばトラックで跳ね飛ばしても、その衝撃で死にはしない。落下の衝撃すら、地面にマナがない以上は伝わらないだろう。だが、トラックの重量で押し潰すという方法でなら、殺せるかもしれん」


 確実とは言えないが、と締め括って、ミレイユは言葉を止めた。

 方策を提示されても、アキラには何の慰めにもならなかった。余りに現実離れした話だし、目の当たりにしなければ信じられないという思いもある。


 何しろ、自分では何一つ力になれないと言われたようなものだからだ。

 都合よく未知の力に目覚めて魔物を倒す、などと思っていた訳ではなかったが、しかしそもそも戦う土台にすら立てないとは思ってもいない。


「そんな……、そんな事、本当に……?」

「口だけで言っても実感できないだろう。――アヴェリン」

「ハッ……!」


 顔を向けて名を呼ばれたアヴェリンは、椅子を引いて立ち上がる。ミレイユはアキラにも立つように指示し、台所に指を向ける。


「包丁はあるだろう?」

「ええ、それは勿論……」

「それでアヴェリンを刺してみろ」

「は!?」


 アキラは思わずミレイユに懐疑的な視線を向けた。

 何と言っても刃物である。人に向けて使う物ではないという刷り込まれた常識と、もし怪我をさせてしまったらという想像が、それを躊躇わせる。


 重ねて包丁を出せと言われれば、アキラも逆らう事が出来ず、とりあえず取り出すだけ取り出した。手に持ってはいるものの、どうしたらいいのか落ち着かなく視線が彷徨う。


「そう緊張する事はない。どうせ傷つけられはしない」

「いや、そう言われても……」


 難色を示すアキラを前にして、ユミルが前を横切る。アキラに用があったのではなく、アヴェリンの方で何かしたいようだった。

 手を壁にしてアキラに聞こえないよう、耳元に何かを囁いている。その一方の手では、何やら紫色の光が淡く輝き、アヴェリンの身体に当てられていた。


 改めてミレイユの方から説明を告げられる。


「簡単なデモンストレーションだ。傷つける心配があるからと、忌避する気持ちは分かるから、本当に嫌なら止めていい」

「それなら――」


 言い掛けた言葉をユミルが遮る。


「ま、別に好きにすればいいけど、そんな事で戦うとか言ってられるのかしらね。これから幾らでも血を見ることになるのに」

「血を見る事と、自分が誰かを血まみれにするのとは、また話が違うのでは……」

「あら、小賢しいこと」


 ユミルが笑ってアキラから包丁を奪い取り、そのままアヴェリンへと手渡す。


「話が進まないから、とりあえずどんな物か見てみなさいな。どうせ血なんか出ないんだから」


 言うだけ言って、アキラをアヴェリンの方へと押し出す。本人は自分の席に座って、ワインを注ぎ足していた。何かを期待する目つきで二人を見つめ、隠しきれない笑みが口の端で持ち上がっている。


「切れない事を見せる為のものだ。お前も近くで見ろ、傷が付かないと証明してやる」


 アヴェリンが手首に包丁を充てがい、アキラに見えやすいように角度を調整してやる。少し身を乗り出すように見守っていると、明らかに力を込めたと分かる握り方で包丁を引いた。

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