別世界の住人 その8

 荘厳な庭が一望できる広い和室に、沈む込むかのような厚い座布団に座った老女が居た。

 風はなく、雲もない。欠けた月明かりが畳を照らし、畳の敷かれた部屋の半分を顕にしていた。月明かりの届かぬ部屋の隅には蝋燭が灯され、緩やかに暗闇を照らしている。


 老女の座る場所は他より一段高く畳が積まれており、その四隅には背の高い蝋燭台がある。そしてそれらを細い注連縄で繋いで正四角形を作っていた。

 その中心にいる老女は紫袴を履いた巫女服を着用している。ただの巫女服ではない。要所に使われた金糸銀糸は、綺羅びやかでありつつも上品、高額を思わせても下品に見せない品質を見せていた。

 袴に使われた紫の色はこの国に於いて一人しか着用を認められておらず、そしてそれはこの老女が組織の最も上の立場であることを示している。


 老女の顔に刻まれた皺は深く、長い年月を生きてきた事を物語る。目は閉じられ、動きを見せない。ともすれば人形かと見間違える様子だったが、閉じられた襖から掛けられた声に顔を上げた。


「夜分遅くに失礼致します。例の件について、由衛ゆえ様がご報告に上がりました」

「……入りなさい」


 声もまた、姿に違わぬ嗄れた声だった。

 ゆるりと背筋を伸ばして襖の外へ視線を向ける。

 膝を畳んで襖の外に待機していた者は、まずほんの少し、指が入るほど小さく開けた。それから一泊の間を置き、音を立てないようにゆっくりと間を広げていく。


 襖を広げたのは、巫女服姿の若い女性だった。

 その後ろには、やはり正座をしたまま待機していた男――由衛と呼ばれた男が手を付き頭を下げている。

 土下座というほど深くはない。背筋が綺麗に伸ばし、礼節として正しい角度で礼をした。そして静かに立ち上がると襖の根を超え二歩進み、改めてその場で正座する。

 由衛の姿もまた時代がかったもので、それはもしかしたら陣傘と鎧を外した足軽のような姿に見えたかもしれない。

 由衛は再び一礼してから口を開いた。


「遅参いたしまして申し訳ありません」

「構いません。……して、どうでしたか」

「ハッ。鬼妖おにあやかしの姿は確認できず、しかし辺りからは血痕が見つかっております。現場に急行した者たちからの報告どおり、姿を眩ませたのではなく討伐されたと判断するのが妥当と思われます」

「……そう」


 老女は外を見上げ、月を見つめる。

 一拍の間を置いて身体から青い光が立ち昇った。その光は薄く揺らめいては次第に消えていく。月から男へと視線を戻し、掌から氷の札らしき物体を作り出す。

 それを宙に放れば、ゆっくりとした重力を無視した動きで由衛の手元に落ちていく。

 由衛はそれを一礼してから手に取り、眼前に持ち上げ、また一礼した。

 氷で出来た札は触れば冷たいのに、手に貼り付く感覚も溶け出す気配もない。


「手間でしょうが、やって貰わねばなりません。それを持って御影神宮まで。祭祀部境内警備の由井園ゆいぞの、本日の責任者に直接それを見せなさい」

「――ハッ!」

「オミカゲ様に直接お渡しするよう、申し伝えるのです。私からの厳命であると」

「ハッ、宮司様より直接の命! 確かに、承りました!」


 由衛は氷の札を懐に仕舞うと一礼し、入って来た時とは逆の手順で退室していく。襖が再び閉じられ、再び静寂が部屋を支配すると、月に視線を移した。


「ようやく来たのですね。……オミカゲ様の心中は如何許か。忙しいことになりそうです」


 誰にも聞こえないと分かりつつ、声に出したくなったのは、その心情を推し量れずにはいられなかったからだ。待ちに待った瞬間がようやく訪れた歓喜か、とうとう訪れてしまった緊張か、いずれにしても穏やかなままではいられまい。


 鬼妖が出現した事は警戒網ですぐに知れた。『線』に触れれば結界が発動し、対象を閉じ込める。しかし直後、瞬く間に消滅した。現場に急行した隊員からの報告によれば、血痕以外に痕跡なし。

 討伐対象がいなかったことで後の調査を別働隊に引き継ぎ、そしてやはり同じ結論に至った。


 本来なら、どれだけ近場に担任がいようとも、結界発動直後に処理が終わるなどある事ではない。

 そもそもの前提として、発動の前から部隊が展開している事などない。偶然近くを通りかかっていたとしても、ある程度準備に時間がかかるものだ。だから、そもそも一瞬で討伐という成果を上げる事はない。


 しかし、それが可能な存在を、この宮司は知っていた。

 ――知らない筈もなかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 それは『箱庭の邸宅』と呼ばれる魔術秘具だった。

 最初はただ草原が広がるばかりの空間で、雲がまばらに広がる空、どこまでも続くように見える平原があった。

 だが実際は、見える範囲と行動できる範囲は違う。

 ある地点まで進むと空間が断絶されて、まるで見えない壁を前にしたように拒まれる。見た目はまだ奥行きがあるのに、押し返す壁で進めなくなるのだ。


 ミレイユはそこに資材を持ち込み家を建てた。

 本宅と離れ、鍛冶場に錬金部屋、露天風呂など、生活に便利だけでなく拠点として活用できる設備を増やしていった。それだけでは解放感が強すぎるので、離れた四方にそれらを囲む形で林が植えられている。

 今でも四人で暮らすには広すぎるくらいだが、持ち運びできる快適な拠点として重宝していた。


 四人の部屋は、それぞれ本宅に用意されている。

 二階建てだが外観からは一階建てにしか見えず、地下一階と地上一階、それに屋根裏部屋の三階構成になっていた。

 家に入ればリビングになっていて、ダイニングとキッチンが併設されている。そこを過ぎれば左右にプライベートルームへ繋がるそれぞれの部屋があり、奥へ進めば談話室と地下へと続く入口があった。


 部屋の間取りは三人とも同じだが、長い間生活を続けるに連れ個性が現れている。

 ミレイユの部屋が一番大きく、とりわけ執務室を思わせる机やそれを取り囲む書棚、さらに奥には別室として寝室が用意され天蓋付きのベッドがある。

 その寝室の脇には簡易的なシャワールームまであり、ミレイユはその日、とりあえず汗だけ流して眠りについた。


 目が冷めたのは、約六時間後。

 この箱庭の中は昼も夜もない、常に同じ空を写しているが、ミレイユが持つ体内時間の正確さだけは自信がある。それ故の判断だったが、頭が幾らか重い気がする。寝すぎてしまったかもしれない。だとすると、常より多く寝てしまったのかもしれない。


 昨日は気疲れが多く酔いもあったから早めに就寝したので、ろくに身体を洗っていない。

 だからきちんと洗おうと室内で済ませても良かったが、どうせならと外の露天で行うことにした。

 部屋を出れば寝ているのはユミルのみ。ここから姿が見えるわけではなかったが、気配だけで他の二人は外にいることが分かる。


 ミレイユは替えの下着と羽織るものだけ持って、裏口から外に出る。

 軽く視界を回せばアヴェリンは離れた場所で武器を振るって汗を流し、ルチアはそことは逆の定位置で瞑想していた。この空間で過ごせば良く見る、いつもの光景だった。


「おはよう」

「おはようございます」


 気軽に挨拶をしながら前を横切る。ミレイユが朝風呂として露天に浸かるのも珍しい事ではないので、ルチアは瞑想を解くことも目を開くこともないまま応えた。

 それもまた、いつものことだ。


 ミレイユは近くに設置してあるカゴへ、乱雑に下着を放って露天風呂に浸かる。

 女性らしく行儀よく、など全く気にしない動作で、親父のような声を出しながら湯に沈んだ。


「ああぁぁ……!」


 顔をお湯で洗ってから、露天の縁に背中を預ける。両手を広げて腕も乗せて空を仰いだ。

 鳥の囀りや風が木の枝を叩く音が聞こえてくれば風情もあるのだろうが、ここには流れる雲の動きしか見るものはない。

 このお湯は無限に湧き出て、汚れることもない。それどころか、本来ならどこかへ逃さなければならないお湯も、地面に触れた時点で消えている。

 この露天風呂は、あらゆる理不尽を捻じ曲げて最適な環境を維持し続けている。


 これも神が造った箱庭だから出来る事で、神の試練の報酬として得たものだ。

 多くの神は戦闘に役立つものしかくれなかったものだが、これを下賜してくれた神には本当に感謝している。


「はぁぁ……!」


 再び大きく満足げな息を吐いた時、修練を終えたらしいアヴェリンが湯を浴びにやってきた。


「おはようございます、ミレイ様」

「うん、おはよう、アヴェリン」


 流石に足を大の字に広げたままなのはどうかと思い、足首同士を上下に重ねるようにして足を閉じる。羞恥心ではなく礼節の問題だった。

 露天風呂は五人まで座って入れる程度の大きさがあるとはいえ、流石に足を広げたままの状態は邪魔になる。


 アヴェリンは直接湯に入るような事はせず、長い髪を頭の上で簡単に結い、備え付けてある手持ち用の桶で湯を掬う。しっかりと汗と汚れを流し終えてから入ってきた。

 対面ではなく、足を伸ばせば互いにくの字になるような場所に位置取り、アヴェリンは丁寧に足を畳んで胸元まで湯に浸かる。


「昨日は大変な一日だった……」

「体力的な事はともかく、他に類を見ない一日だったのは間違いありませんでしたね」


 気怠げに言えば、アヴェリンも苦笑して返してきた。


「本当に何もかもが違っていて、常識を学び終えるのには時間が掛かりそうです」

「ゆっくりやればいい。多少の不便は覚悟せねばならんが」

「現状も武器を自由に持ち歩けないというのには、不便を感じます」

「そこは慣れろ。この国に、武器が必要な場面は殆どない」


 言ってミレイユはチラリと笑った。


「強盗と出くわすなんて状況、一生に一度あるかどうかだぞ」

「それはまた、大変貴重な経験をしましたね」


 アヴェリンもまた笑って、手で杓を作って肩に湯を流す。


「……ところで、本日のご予定は決まっているのですか?」

「それなんだが……。この国で流通している通貨を得る手段を、模索しようと考えている」

「そういえば、コンビニとやらで使用していた通貨は見たこともないものでした。紙が通貨として使えていることに驚いたものです」


 うん、とミレイユは曖昧に頷いた。

 あちらにはない信用取引という概念だが、それはミレイユとて詳しく説明できない。文明の利器たるパソコンでも使って調べればいいのだが、そもそもの基礎知識が不足している為、アヴェリンたちにもやはり理解は難しいだろう。


「どんな紙でもいいという訳ではなくてな。……そこもいずれ、おいおいな」

「……ええ。しかし、とはいえ金は金。リネール金貨が使えないとも思えませんが。両替屋に持っていけば金銭を得られるのではありませんか?」

「記録にも存在しない国の硬貨というのは扱って貰えない。詐欺防止の為とか色々理由はあるのだろうが、何しろ扱いに困るものは引き受けたがらない」


 ミレイユが溜息を吐く。手の平で掬ったお湯を顔にぶつけるように浴びた。ぐしぐしと両手で顔を揉むように洗い、顔をあげる。


「では、金塊を使うのは? これも装飾品の作成や触媒の利用に、結構な数を保有なされていた筈……」

「刻印が刻まれていない金塊は、扱って貰えないと聞いた覚えがある。刻印が品質の保証をしているんだな。だから仮に取引に応じても、相当な値下げを食らう事になる」

「金の扱いに、そこまでしているものですか……」

「あちらと違って、それ程の希少金属という事だ。私達の財産をこちらで転用しようとすれば、相当な値下げを覚悟しなければならないぞ……?」


 いっそヤケになって、アヴェリンに向けて皮肉げな笑みを見せる。

 アヴェリンも渋面になって、額に浮いた汗を湯で拭った。


「では、真っ当に働きますか? 山賊の拠点を襲撃できれば楽なのですが。それも無理なのですよね?」

「それが出来れば確かに楽だったな」ミレイユは白い歯を見せて笑う。「だが、山賊はもちろん、真っ当な仕事も無理だ」

「真っ当な仕事まで? 何故です?」

「私達に、この国の戸籍も、出自の国の戸籍もないからだ」

「戸籍……」


 聞き慣れない単語に、アヴェリンは眉根を寄せた。


「自分の出自を保証する書類だよ。この国では、それがなければ職にすら就けない」

「何て面倒な……では、やはり奪いますか?」


 剣呑な雰囲気を出したアヴェリンを、手を振るって止める。


「それじゃあ、いつか捕まるし、穏やかな静養とは無縁の生活になるだろう。却下だな」

「それでは八方塞がりのように思えますが……」

「まぁ、金貨の類が駄目なら装飾品かな……。これなら刻印などなくても取り引きに応じるだろうし。メーカーマークがないから安く買い叩かれるだろうが、それは仕方ない」


 アヴェリンが眉を八の字に下げて不遇を嘆く。


「何とお労しい。何たる侮辱、何たる侮蔑でしょう。ミレイ様の偉大さを知れば、誰もが財貨を献上するでしょうに……!」

「――しなくていいし、させなくていい。まぁ、質屋探しかな。なるべく小さな個人経営のような……。この近辺にあればいいが……、調べさせるか」


 ミレイユが苦労をせねばならい事実に憤りを感じつつも、アヴェリンはとにかく頷いた。

 方針が決定されたなら粛々と従う。それがアヴェリンの意義であり誇りだった。

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