別世界の住人 その5
アキラがアヴェリンに目配せして、そのままで、と両手を下に降ろす動作を見せたが、残念ながらその意図は全く通じていなかった。
アヴェリンは顔を上げ、包丁を突き出す男を見て怪訝に顔を傾けた。
静止する間もなく立ち上がり、レジへと近づいていく。
「なんだ、こいつ……! どこにいた!?」
「なんだはこっちの台詞だ。それはどういうつもりだ? お遊びか?」
「ガイジンかよ、頭悪いんじゃねぇのか!」
包丁を店員からアヴェリンに向けた、その時だった。
店の奥にいたユミルが何事かと軽い調子で近づいていく。ユミルも店の奥で屈んでいて、強盗からも姿が見えていなかったのかもしれない。
ユミルは店員と強盗とアヴェリンを見比べて、やはり首を傾げて状況に戸惑っている。
「なにこれ、やっぱり襲撃されてるじゃない。一人で襲撃? 他に仲間は?」
「分からん。いるならとっくに来てるだろう。ならば遊びにしか見えないが、――アキラ、どうなんだ?」
「こっちに振らないで下さいよ……」
アキラもまた観念して立ち上がると、強盗は包丁をあちらこちらと向けて威嚇してくる。
「な、なんだ、まだ居たのか! くそっ!」
「治安がいい国と言ってなかったか? あれはもしかして、強盗のつもりなのか?」
「治安がいいのは間違いないですし、あれはまぁ、きっと強盗ですけど……」
日本は確かに治安がいいが、それでも犯罪が皆無ではない。
年に発生するコンビニ強盗の件数は四百前後と、世界を見渡しても異例の少なさだが、やはり全くの皆無にする事はできない。だとしても、成功しても実りがないと言われるコンビニ強盗をする辺り、この男も相当追い詰められているのかもしれない。
アヴェリンが鼻で笑った。
「あれで強盗は無理がある。ガオリ族の子供だって、もう少しマシに武器を構えるぞ」
言っている意味は分からなかったが、虚仮にされたのは理解したようだった。
激昂した男が包丁を振り上げる。
「てめぇ、ガイジンが馬鹿にしやがってよ! ちょっとキレ―だからって調子に乗ってんのか!」
アキラは男の頭が無惨に砕かれる様を想像し、なだめるように声をかけた。
もう人数的に不利なんだから逃げればいいのに、と思うが、引くに引けなくなってしまったのかもしれない。
「いや、やめた方がいいですって。絶対ろくな事になりませんから」
「うるせぇ、馬鹿にすんじゃねぇ!」
包丁を突き出したいのか振り回したいのか、よく分からない動きで威嚇する男に、アヴェリンが無造作に近づいていく。
「てめっ……!」
それは一瞬の出来事だった。
包丁を振り上げた腕が、いつの間にかアヴェリンに掴まれている。そのまま捻り上げると呻きを上げて腕が天井に向けて吊り上げられる。思わず痛みに身体が反応し、不格好な形で背筋が伸びた。
そこを狙われ、足を引っ掛け転がされる。その拍子に手から包丁が落ちたが、アヴェリンはそれに視線も向けず、腕を握ったまま背中から落とした。
「グッ! ――ぐげっ!」
背中から落とされた男は、間髪逃がさずアヴェリンに喉元を踏みつけられ、蛙のような声を出した。サングラスもマスクも外れた顔からは、憤怒と驚愕、両方の表情が見えた気がした。
素顔を晒された男は予想よりもずっと若い。おそらくは二十代前半、もしくは十代でさえあるかもしれない。
顔が真っ赤に膨れ上がり、目も充血して口から泡らしいものも吹いている。
アヴェリンはそれに頓着せず、更に腕を捻り上げて外へ伸ばす。
ゴキン、と音がして男が絶叫した。肩を外されたのだ。
「ぐぎぃぃっ、ぷ! うぶぶぶ……!!」
「この程度で声を出すな、みっともない」
喉が足で抑えられているせいで、声も正常に出せないようだった。赤かった顔は更に朱に染まり、暴れようと足をバタつかせるも、タイルを蹴るばかりで何が出来るでもない。
暴れて振り上げた足が商品棚を蹴りつける。商品は倒れたりしなかったものの、それがアヴェリンの怒りを買った。
「なんて無様な醜態だ。その程度の腕で刃を振るったのか? お遊び以下の子供以下か」
足で器用に喉を抑えたまま、鳩尾にもう片方の足で踵を落とす。それで身体がくの字に折れた。また声も出せないせいで、顔が紫に変色して来ている。
「それ死んじゃいますって!」
「殺すのは駄目だってば。目立つ真似はさせるな、って言われてるのよ、アタシ」
気づけばすぐ近づいて来ていたユミルが、男の首に手を当てる。
アヴェリンが足をどけたが、口から吹いた泡と酸欠で顔面は酷いことになっている。
ユミルが傍に屈んで首を捻り気道を確保すると、胸のあたりを強く叩いて息を吐き出させる。
「ゴホッ! ゲホッ!」
男は圧迫から解放されて激しく咳き込んだ。片手が動かない事に加え、激しい痛みで体を丸めて萎縮してしまっている。
「まだ痛い目みたい? 嫌なら二度、頷きなさいな」
声音は優しいが、底冷えする恐ろしさも感じる。男が咳き込むばかりで反応しないのを見ると、髪を掴んで床に叩きつけた。
「ブゲッ!」
「聞こえてるでしょ? 優しくしてあげてるんだから、素直に頷けばいいの」
言いながら更にもう一度頭を打ち付けて、髪を掴んだまま無理やり顔を向かせる。
目を見ながら薄く笑みを見せれば、男は涙と汚れで顔を汚しながら何度も頭を振った。
「ずみまぜん! 許じで、……じでくだ、い……!」
「馬鹿ね。最初からそう言いなさい」
一部始終を見ていたアキラは、心の底からドン引きしていた。
この二人にとって、暴力とは身近なものなのだろう。それだけ動きに躊躇がない。
化け物とはいえ、その頭を砕くことに抵抗がない程度には、暴力を振るうことに慣れている。手加減の方法も熟知していると見え、だからユミルでさえ平気で人の頭を叩きつけるような真似が出来る。
「こっわぁ……!」
「何を言ってる、優しいだろう。何よりあいつは生きている」
「アンタ、もっと上手く無力化できないの?」
ユミルが顔を向けておどけてみせれば、アヴェリンはつまらなそうに手を振った。
「こんな相手に手心なんて必要あったか? 両腕を捥いでやっても良かったぐらいだ。しかし目立つ行為といっても、これはまだ目立たない部類だろう。違うのか?」
「いやぁ、平手で一発殴るぐらいが安全ラインですかねぇ……。どうするんです、これから警察来るし、事情聴取だってありますよ」
「なんだ、それは?」
「すごい目立つことになるって意味です」
アヴェリンは元より、ユミルも顔を顰める。
「それは不味いな」
「マズイわね」
「……どうにか出来るか?」
アヴェリンに言われて、ユミルは考え込むような仕草を見せた。
掴んでいたままの男を再び自分へ向かせると、その目を覗き込んで数秒、手を離す。
男は身じろぎもせぬまま虚空を見つめ、浅い呼吸のまま動かない。しばらく放心したように手足を放り出していたが、のろのろと立ち上がって包丁を再び握りしめた。
アキラがぎょっとして身構えると、男は包丁を懐にしまって、危ない足取りのまま店外へ出ていく。アキラはそれを呆然として見送ってしまった。
「いや、あれ、どうなったんです! いいんですか!?」
ユミルの方に振り返ってみれば、女性店員の顎を掴んで無理矢理その目を覗き込んでいる。
手を離せば先程の男と同様、放心したように手元だか床だかを見つめたまま動かなくなった。
「な、なにしたんですか……?」
「一種の催眠、言うこと聞かせただけよ。何事もなかった、何も見なかった、そういう類の」
「そんな事できるんですね……」
ユミルは肩を竦めて戻ってくる。そして、アキラのカゴを指差した。
「――それ、買うんでしょ? すぐに動き出すから、そうしたら普通に済ませればいいわ。何も覚えていないから」
「うぅん……、ある意味それが幸せでしょうけど……」
しかし、何事もなかったことにされた事は釈然としない。もやもやした気持ちでいると、その間に店員も再起動を果たしたようだった。
自分が目に涙を溜めてるのを不思議がって拭いながら、申し訳無さそうにバックヤードへ小走りに入っていく。
「まぁ、うん。ちょっと待ちましょう」
エチケットの問題として、それぐらいの配慮はあっていい筈だ。
気負った姿勢も露とも見せず、ユミルが何事もなかったかのように商品の品定めに戻るのを見て、住んでいる世界が違うという思いを新たにしたのだった。
コンビニから逃げるように退店し、信号を渡っていよいよ店から遠ざかった頃、アキラはようやく重い息を吐いた。
強盗が発生してから買い物が済むまで、誰一人客が入って来なかったのは、本当に幸運でしかなかった。
包丁を持った男に立ち向かう美女となれば、同情と味方を得られるのは間違いないだろうが、その後の無力化光景を見れば考えも変わるだろう。
そして何より、警察の事情聴取が始まれば、日本どころか外国籍すら確認できないことば判明してしまう。
いや、とアキラは思い直す。
それも催眠で何とかなったのだろうか。それとも結局、自然に解除されて事実との齟齬が生まれ、また別の厄介ごとを生んでいたのだろうか。
「あの催眠って、ずっと効果があるんですか? それとも時間制限付きで?」
「なぁに? アンタも使いたいの?」
「違いますよ! ……さっきの催眠かけられた人たち、大丈夫なのかなぁと」
そう弁明を返せば、あぁ、と気のない返事をして、ユミルはつまらなそうに頷いた。
「そうね、あの時起こった事は完全に忘れたままね。だけど、記憶の中に空白の時間があると気づくかも。あの分だと、一時間もすれば我に返るんじゃない?」
「それじゃあ、あの強盗は自宅でいきなり腕の関節が外れてる事に気づくわけですか」
「そうねぇ、一時間前に居た場所が自宅なら、そうなるのかも。強盗に行こうと家を出たつもりで、気づけば一時間経っていて何故か腕が動かないことに気づくとか?」
「それはまた、何とも……」
奇怪な現象に驚くだろうが、そもそも強盗などしようとするような輩だ。捕まらなかっただけ温情があったと思って貰うしかない。肩についても自業自得、病院での説明には苦労するだろうが、そこまで知った事ではない。
昨日まで平凡な学生生活だった。
早くに両親を亡くしたことは平凡とは言えないが、それでも一般的と言っていい標準の生活を送れていた。それが今日、たった六時間の間にとんでもない騒動が巻き起こっている。
単なる暴力事件に遭遇したというだけではない。
魔法も魔物も実在すると知ってしまい、しかもその空想としか思っていなかったものが、現実の脅威として、身近に迫っているかもしれない。
その非現実的な脅威の中心とも言える二人が、コンビニ弁当の詰まったビニール袋を持っている。その光景こそがまさに非現実だった。
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