別世界の住人 その2
隣室の住人には平謝りする事で、とりあえず許しを得た。隣に住むのは社会人で一人暮らしの男性で、もしかしたら騒動に巻き込まれたんじゃないかと心配になって声を掛けたと知らされた。
騒動に巻き込まれたのは事実かもしれないが、かといって知ってしまった事実をなかったことにも出来ない。何事もないとお礼を言って別れ、戻ってきた拍子に視界に入った時計は夜九時を示そうとしていた。
ミレイユ達を連れ帰ってきたのは七時前後だった筈なので、結構な時間を過ごしていた事になる。時間に気付いてしまえば、すぐに空腹を自覚しだした。
「戻りました。……えぇと、もう晩飯の時間も随分過ぎていますけど、皆さん食事はどうする予定ですか?」
「ああ、それか……」
ミレイユは組んだ足の上に肘を乗せ、手の平に顎を乗せてアキラを見る。
「どうしたものかと考えていたところだ。備蓄はあるが、そう多くもない。今日のところは仕方がないとして……」
「え、あるんですか、食料? 備蓄って、どこかに拠点でも?」
「イエスであり、ノーだ。――ほら」
ミレイユが空いた方の手の平を見せるように突き出すと、そこには剥き出しのパンが乗っていた。直前まで何の前触れもなく出て来たパンに、アキラは目を白黒とさせる。
「え、今の……! どこから出したんですか? どこに隠してたんです?」
「別に隠してた訳じゃなくて、個人空間から取り出しただけだ。因みにこれは備蓄していた物とは、また別の物だ」
「うわ……、すごい。マジック見せられた気分」
「純然たる魔術だよ。魔力を持つ者ならば、大体これが扱える。あちらの世界の常識だな」
へぇ、とアキラは感嘆してミレイユを見つめた。
魔法の行使は幾度か見たが、これほど『らしい』ものを見たのは初めてだ。常識が違うというのもまざまざと見せつけられた格好だが、それを当たり前に使うのも危険な気がした。
「凄いですし、見れて嬉しいですけど、そういうの余り気軽に見せない方がいいんじゃないかと……」
「分かってる。お前は身内に限りなく近い他人だから見せた。そう軽々しく外では使わない。他の者にも周知させておく」
「ですか……」
素直に頷き、出されたままのパンを見る。
どうぞ、という風に差し出されたので、そのまま受け取ってみれば、予想に反した固いパンだった。膨らみも小さく、香りも殆どしない。保存状態の悪さというより、元からこういうパンなのかもしれない。
「これが異世界産のパンですか」
「そうだ。因みに、そのまま食べると痛い目を見るぞ」
「えっ!?」
思わずマジマジとパンを見つめてしまう。
腐っているようにも見えないが、どこか傷んで食べられないのだろうか。
「これ、そんなに保存状態悪いんですか?」
「そういう意味じゃなく」ミレイユは小さく笑う。「食パンを食べるように食いつくと、歯が立てられなくて、文字通り痛い思いをするという意味だ」
「……本当だ、けっこう固い……」
言われて試しに指で圧力をかけてみても、指が沈み込む気配がない。
「保存食だからな。水気が可能な限り抜かれている。表面を削ぐように切るか、スープに浸してふやけさせてから食べる。パン酵母がないから、自然とそういうパンになる」
「な、なるほど……」
「して、モノは相談だが……」
ミレイユは言って、テーブルの上に次々と食材を取り出した。
パンも更に数食、ホール毎のチーズ、塩漬けされた燻製肉など次々に置いていく。
「こちらからも食料を出すから、日本の食事を貰えないか? 久方ぶりに米も食べたい」
「あ、はい。それは別に全然、構いませんけど……。あまり自炊しないもので、買いに行かないと、この人数の食料はウチにないです」
「そう、か……。それもそうか」
顔を曇らせたミレイユに、アキラは鞄から財布を取り出す。
「でも、すぐ買ってきますよ。この時間ならコンビニ飯になっちゃいますけど、歩いて五分の場所にありますし。食ってくに困らないだけの貯金も残されてますので」
「ま、師の食事を用意するのは弟子の役目だ」
アヴェリンが尊大な言い草を披露して、アキラは思わず出かかった言葉を飲む。
そもそもミレイユは自分で何一つ教えてようとはしていない、という事実は彼女の中では関係ないようだ。他人任せにする者を、師匠と呼ぶに相応しいとは思えない。だがきっと、それは指摘してはいけないのだろう。
アヴェリンも立ち上がり、ミレイユに一礼する。
「では、私も調達の手助けに行ってまいります。この人数の食料なら、一人で持ち運ぶのは難しいでしょう」
「そうだな、そうしてくれるか。個人空間に仕舞うのは無しだと言ったばかりだし、そこは気を付けろ」
「ええ、存じております。――アキラ、馬房はどこにある」
バボーとは何だ、とアキラは首を傾げた。
話の前後から考えても、何を指す単語なのか全く見当がつかず、言葉を返す事すら出来なかった。
「おい、近くにないのは理解している。しかし量を運ぶなら馬がいる」
「えっ、あ!? ……馬房!? いや近所どころか、どれほど遠くまで行けば見つかるのか分かりませんよ!」
「では、どうやって荷車を引くんだ?」
「荷車が必要なほど買い込む気はないですし……! ちょっとミレイユ様、説明してやってくださいよ!」
面白そうに見物していたミレイユに、アキラは恨みがましい目で見つめた。
勘違いしている様を見て、明らかに楽しんでいる。他人事のように振る舞っているが、当事者の自覚がないのはどうしたことか。
「アヴェリン、こちらでは馬匹輸送をしていない。この国は山が多く、河も多く、更に雨も多くて土は泥濘し、車輪その物が土地に適していなかった。その辺の説明はおいおいしていくから、今日のところは徒歩でいけ。どうせ手に持てる分しか買わないから、それ程の量にはならない筈だしな……」
「承知しました」
身を翻しかけたアヴェリンを、ミレイユが声をかけて止める。
「防具の類は外して行け。マントもだ。それだけで……、まぁ随分印象も変わるだろう」
「……左様ですか」
アヴェリンは不安げな表情で自身を見下ろし、言われるがままに肩部分についた金属とマントの留め金を外した。邪魔にならない程度の片隅にそれらを置いて、ミレイユに一礼する。
「――では、行ってまいります。暫しお待ちを」
言うや否や、アヴェリンは身を翻して外へと向かう。
財布を握っているアキラも、一度ぺこりと頭を下げてからその後に続く。その背を見送ったミレイユは、ドアの締まる音を聞きながら今更ながらに呟いた。
「……あれは抑え役がいないと不安じゃないか?」
「買い物くらいできるでしょう?」
「なぁ、ユミル。アヴェリンがアキラの指示に素直に従うと思うか? 非常識な振る舞いで迷惑をかけやしないか?」
「ああ……、そうね。目に浮かぶようだわ」
ミレイユはルチアとユミルに、それぞれ視線を向けた。左へ右へと二度行き来し、片方に動きを止める。
「……うん。それじゃあ、ここはユミルに任せよう」
「ちょっと、自分でお行きなさいな」
「私が行くと角が立つだろう。任せると言った以上、あれの誠意に泥を塗る行為になってしまう」
ユミルは小さく顔を歪めて、壁から背を離した。
「まったく、世話のかかること……!」
「頼むぞ。目立つ真似はさせないように。――ああ、お前もマントは外して行け。夜なら必要ないだろう?」
「はいはい」
ひらひらと手を振って、フード付きマントを乱雑に外しながら出ていくユミルを見送ると、ルチアがぼそりと呟いた。
「いやぁ、結局心配事が増しただけじゃないですか……? 私も行きます?」
「そうしたら私の護衛がいないだ何だと騒ぐに決まっている。ここは任せよう」
「絶対、いがみ合いと言い合いが始まりますよ。……抑えつけ役のつもりだったんですよね?」
「うん……、だが苦労は増えても買い物は完了できるだろう。つまり差し引きゼロで問題ないという事だ」
「ミレイさんがそれでいいなら、私は構いませんけどね」
きっと上手くはいかないだろう、というニュアンスを残してルチアは部屋の中を物色し始めた。座る椅子がないなら、せめて床に敷く何かがないかと期待しながら。
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