狐火事件(二)


「お疲れ様でした」

 翌昼、堯之たかゆきとはるきは、町立中学校の向かい側に敷地を構えるいわゆる老人ホームを含む福祉施設併設の図書館脇にある、施設が一般にも開放している食堂の窓際の席に着くと、改めて互いを労いあう。

 あの後、消防車の到着するまで傍らの山肌の雨に崩れたと思しき箇所から、打ち捨てられたブリキのバケツやトタンの破片を駆使して土を運び、せめて大きく燃え移ることを防ごうと、物置側を重点に燃える足下へと投下を続けたことで、最終的には放水には至らず、駆けつけた消防団員によって消防車に装備されていた消火器で消し止められた。

 消火活動を専門家に任せ、集まった車両の明かりの元で改めて認める――緊張が解けて動揺の波が訪れたのだろう支えた腕に捕まって震える少年を、白いシャツ姿と華奢な体躯からローティーンの子供だろうと思っていた案の定、堯之は見知っていた。近年、町内にあった中学校四校のうち三校が合併して町名を冠する学校となったが、それでもやはり一学年二クラスずつしかない小さな学校のことである。週に何度か授業をするクラスの生徒であれば着任してまだ数ヶ月とはいえど、さすがに顔と名前と成績に加え、クラスの中での立ち位置も把握できないではない。特に彼は、問題児というわけではないが、指導する立場にある大人としては気にかけておきたい家庭事情を持っていたため、担任からもひとこと添えられている生徒でもあった。

 久松ひさまつしずか、町立中学校の二年生に籍を置く男子生徒だ。両親の離婚に際し、彼の処遇についての話し合いが長引いているようで――見兼ねた、父方の祖父母が呼び寄せ、中学入学のタイミングでこちらに転居してきたと聞いている。クラスメイトがはしゃいでいるときもひっそりと自分の席で大人しくしている様子は、生来の性格的なものであるのか……やはり両親のことが気にかかり物思いに沈みがちであるせいであるからか。一歩引いた堯之の立場で公平に見て、色白で繊細な目鼻立ちのいわゆる美少年であろうと思うのだが――噂されている気配のないのは、そうして日常において自己主張に乏しく目立たないせいだろう。

「大丈夫?」

 この時期ならば着ていただろう学生服は、炎を叩いて消そうとした際に――残念ながら、近年の化学繊維を多く含む製品では用を果たせず失われてしまい。そうでなくとも、人間のコントロールを外れた大きな火を見たショックだろう……歯の根も合わないほどに震え続ける少年に、自分の着ていた上着を着せかけ背中を撫でてやりながら、できれば早く家に送り届けてやりたかったところであったが――通報者であり第一発見者であれば仕方のないことに、消防車と同行してきた警察による状況確認と称した事情聴取に随分と時間を取られた。

 氏名、住所、勤め先などを訊かれるのは、さもありなん――発見状況やその後の行動について説明を求められるのも当然だろうが……納車の日付と普段の行動範囲を問われて覚えた違和感。


 もしかして、放火が疑われてるんだろうか……?


 さらに、日付を指定した上での行動を二~三件ばかり確認されれば、もちろん気取らないわけにはいかないだろう。もっとも、いくらか形式的な質問のようにも思われたのは、既にある程度の犯人像を持っているのかもしれない――はるきのことも堯之のこともさほど熱心に疑っていたわけでもないらしい。

 一方で、青ざめてうつむきがちな少年の――警官に問われて、震える小さな声で切れ切れに答えるところ、図書委員会役員であるという彼は、町営図書館が定期的に発行している図書官報への学校行事に関する寄稿の件で休日の今日、普段はバスで通学しているところ自転車で出校し――その帰り道であったのだという。

 乗っていたはずの自転車は、道路を駆け抜けて横断した山の小動物に驚いて転んだ拍子にスポークが歪んでしまったらしく、堯之たちの向かっていたもう五十メートルほどの先で、路肩に横たわっているのを発見されていた。

「あぁ、それでか……」

 つぶやきは、それと意識するより先にもれていた。

「このあたりを徒歩で…なんて、どうしたんだろう?…て思ってたんだ」

 静と対応していた警察官の視線を受けながら、路肩を足早に行く学生服姿に疑問を覚えて気にかけている内に彼の向かう先の不審なオレンジ色の光に気づけたのだと説明する。あとから思い返せば、大胆なことをしたものだと肝が冷えるが、隣のはるきに慌てる気配はなく――むしろ彼もまた即座に、得心がいった…と言いたげな素振りをみせてのけていた。ぱちくり…覚えず顔を上げた少年は、瞳の大きな目を見開いて驚いていたけれども――。


 その後、静を家まで送り届け、帰宅する頃にはすっかり、ゆっくり夕食を…と言える時間では無くなってしまっていたうえに――帰路に、警察経由で知らせを受け取った中学校の校長から詳しく報告を聞きたいから…と、はるきとともに本日の来校を求められ、一通りの流れを説明して今に至るところである。

 報告するばかりかと思っていたが、情報的な収穫もあった。

 昨夜、少し気にかかったように――やはり、このところ不審な出火が相次いでいるのらしい。町役場から学校へも通達があり、月曜日に朝の全校集会で注意を促そうとしていた矢先のことであったようだ。

「巻き込んじゃったみたいで……すみません」

 ランチのセットを注文して、堯之はもう一度頭を下げる。自分は、学校関係者であるし、あの現場にいた少年とも関りがある身なので呼び出されて諸々説明を求められるのは当然だろうが、はるきが中学校まで呼びつけられる道理は、おそらくない。堯之の車に同乗していた以外の理由がなければ、こうして時間を取らせることもなかっただろう――思ったのだが。

「おれだけ、仲間はずれはなしですよー」

 いくらか芝居がかって肩を竦めて見せやられる。

「巻き込まれたって言うなら、タカユキくんも……えと……久松くんだっけ……彼も同じでしょ? たまたま、通りがかって――だから、山火事にもならずに済んだわけで……変な気の回し方はしないでくださいよ」

 それに……目を細めて浮かべられた笑みは、楽しげな発見をした者のそれに似ていた。

「タカユキくん、意外とやるな~…って――だったら、おれとしてもノらない手はないでしょ」

「むしろ、それも含めて――スミマセン」

 うっかり頬のひきつりそうになる――とっさ、その時の久松少年を弁護する必要を覚えたとはいえ、警察に嘘をつくのは誉められたものではないし、同時に少々どころでなく危うい言動に違いない。

 警察の側には、静と特定するわけではなく――小柄な少年を疑うだけの某かの根拠があったのかもしれないが、それでも、堯之には彼が放火犯とは思えなかったのだ。それは、堯之の気持ちばかりの理由でなく――結果的に果たせなかったが、広がる火を消そうとした彼の行動ともに、あの青白い光を不審に思い駆けつけるまでの間に膨らんだとしては火勢が良すぎるように思われた。もちろん、ありがちな油の臭いを感じることもなかったし……そも、油かそれに類する薬剤がまかれていたなら、消防と警察が気づかないはずもない。

 ただ、そうとしても……あの青い光の正体は、不明ではあるのだけれども。

「おれも、あの子は違うと思います――ただ、まるで無関係とも思えないので、気を配っておいてあげてほしいとは思いますけど……タカユキくんも気をつけてください」

 肯定してもらえたことは心強かったが、途中に挟まった接続詞が逆接だったように思えたのが気になり、頷きかけた首が傾ぐ……までもなく、そのまま竦めていた。

「昨日、母にもそれとなく言われました……」

「うん。悪いことをしてるわけじゃないから、堂々としてれば大丈夫なんだけど……まだ、やっぱり……良くないことがあると、自分らの知らない相手を警戒しちゃうだろうから……」

 世代は入れ替わりつつあり、人の出入りがあることが当然との認識も自然なものになりつつある昨今とはいえ――都会ほど行きずりの人間にあふれている町ではない。移住支援や地域活性を目指して招致されたNPO団体の活動等にさえ、懐疑的な目を向ける住人も皆無とはいえないのが実情ではある。

 幸い、堯之は非常勤講師とはいえ、教育関係者として中高生の子供や孫のいる世帯にはおおむね好意的に認知されてはいたが。

「祖父の人徳に生かされてるのもわかってます」

 ありがたいことに、田舎において、祖父世代の地元の教職員の信用度は現在よりも格段に高い。新参者で新米の堯之が、いたずらに疎んじられたり軽んじられたりしないですんでいるのは、はるきとの交流もあるだろうが、やはり祖父の名に負うところが大きいのだろうと、「木ノ瀬きのせのお孫さん」と呼ばれるたびに感じさせられるところでもあった。

「ごめん。言い出したのはおれだけど……そこまで、謙遜することはないと思う」

 子供たちは、自分の目で見たタカユキくんを好きなんですから……困惑交じりの苦笑いを浮かべるはるきの指差す先に目を向ければ、足下まである大きなガラス窓の外――駐車場に止まった車から降り立つ、少年の姿。制服のボトムに中学校の体操着に指定されたジャージを羽織っているのは、学生服を焼失させてしまったせいだろう――静もまた、保護者としての祖父母と共に呼び出され、校長や担任に話を聞かれていたとみるに易い。

 ガラス越しに目が合うと、ぺこり…一礼した静は、ぱたぱたと小走りに食堂の入口へと回り込む。

「昨日はありがとうございました」

 ふたりのテーブルの脇で、もう一度丁寧に頭を下げた静は――洗濯したので……デパートの意匠の入った少しくたびれた紙袋を差し出した。昨夜貸した上着を届けに立ち寄ってくれたらしい。

「わざわざ洗ってくれたのか。こちらこそ、ありがとう」

「いえ……。あの、僕……」

 礼を言って受け取ると、落ち着きなさげに口籠るのは――やはり、彼の方では授業以外で堯之のことを見知っていないせいかもしれない。

「あの……祖父母が、外にいるんですが……あの、僕が『来ないで』って、言ってしまったんです。すみません。よくお礼を言うように、言われています」

 しばし視線を彷徨わせた後、早口に訴えると――ありがとうございました!……再び深々と頭を下げて、ぱたぱたと駆け去って行った。

「恥ずかしがり屋さん…ってだけでもない……みたいだね……」

 運ばれてきたランチの生姜焼きに箸をつけながら、言葉尻に多少の含みを滲ませるはるきは――住人同士の繋がりが密なために、噂話の広がりやすい土地柄ならでは、あくまで職務上の必要で知り得たことであればと堯之の言及しないでいた静の家庭事情を耳にしての感想だろうと思ったのだが、どうやら早計であったらしい。

「さっき、窓越しにタカユキくん見つけて――嬉しそうな顔したんだよ、彼氏」

 慕われてるんですよ……わずかに眉を顰めた笑みの内側に見えるのは、諭されるような労わりだったので。

「ちなみに、おれもタカユキくん好きですね」

 これは、内省が過ぎて、少々卑屈になりかかっていたかもしれない……気付かされるなら――いい歳をして少々恥ずかしい気のしないでもなく。

「すみません――その……ありがとうございます」

「うん。だから、そう気にしないで――ただね」

 一度、箸をおいて頭を下げる堯之に――屈託なく諾を返したはるきはけれど、逆接の接続詞で続けた。

「危ないこともあるかもしれないから、おれのことも頼ってもらえると嬉しいです」

「はい」

 それはもちろん、頼りに思うところであれば、そうだった――昨日、話しそびれたままになった、金と銀のふたりのことを聞いてもらう機会は、今なのではないだろうか。

「じゃぁ、さっそく相談というか報告と言うかなんですが――」

 再び箸を進めつつ切り出しかけた言葉は、しかし――戸外からにも関わらず、充分に驚かされるに足る慌ただし気な物音と老若男女交じり合った悲鳴に途切れた。

「なに?」

 とっさ、食堂の入り口を振りむくのは、そちらの先に隣接する図書館があるせいだ。

 駄目だよ!!……涙声の叫びは、そちらの玄関から聞こえていた。

 がたり…さらに、覚えず椅子を蹴ってしまっていたのは――二度三度、窓や入り口のガラス扉に反射する、青い光を昨夜見たそれと同じものと認識するから。

「おばちゃん、ごめん! 荷物、置いとくから見といて!」

 何事かと厨房から出てきたもの、おろおろと戸惑う食堂の女性に言い置いて、ふたりそろって表に向かう。

「これ、引っ繰り返していいですか?」

 しかしながら――壁際のウォーターポットを目に留めた堯之は、はるきを先に行かせると、先ほど渡された紙袋のもとに取って返した。上着の入ったそこへ氷ごとポットの中身をぶちまけ、コーティングされた袋の底にわずかな水音を聞きながら後を追う。昨日、あの炎上騒ぎとあの青い光が、無関係とは思えなかったからだ。



「駄目……! 駄目って言ってるのに……」


 一足遅れて、図書館のガラスの自動ドアに駆け込んだ堯之の目にまず飛び込んできたのは、青白く揺らめく光を抱え込んで蹲り涙声で訴える静と、暴れているように見える青白い光を抑え込もうとする静を助けようとしてだろう、少年ごと腕に抱えるはるきの姿で――次いで、その奥で白髪頭ながら体格のしっかりした男性に抱きとめられるように庇われ、彼の腕の中でもがきながら静の名を呼び続ける高齢の夫婦。

 それから――。

「タカユキくん、火を!」

 玄関を入ってすぐの壁際に置かれた長机の上で、催し物の案内や図書館だよりといったリーフレットが、じわりじわりと燃え広がろうとしていた。全面に印刷と加工が施されていることが幸いしたのだろう、一気に燃え上がるほど勢い付いていないが――もちろん、悠長に眺めている暇はない。

 紙袋から氷水に浸された上着を引っ張り出して、机上の炎に覆い被せた。

 もすもすと立ち上るのは、煙ではなく――濡れた上着から上がる水蒸気だ。

 まだ間に合いそうだと、袋の中に溜まった氷ごとわずかな水分をダメ押しに注ぎかける。

 さらにカウンターの奥に見えた消火器を借りに向かうべきか……わずか様子を窺う間に、なんとか無事に火は消えてくれたようで、水浸しになってしまった長机の上は静かになった。

 けれども――。


「わぁ……っ!」


 それは、ほぅ…ほんの一瞬――安堵に場の緊張の緩んだ隙だった。

 支えていたはるきごと、弾かれたように姿勢を崩した静が背後に倒れる。

「タカユキくん、捕まえて――」

 はるきの声に、とっさ脇をすり抜けようとする青白い光に手を伸ばした――二歩三歩追いすがり、長く延びた軌跡を掴む。

 え……?

 ゆらゆらと火影を纏ってさえ思えたそれは、意外なことに――炎の熱とまではいわないまでも、体温より少し高い程度に温かかった。


 けもの……?


 くわえて、思いの外に柔らかく――つい、怯んで手の力を緩めてしまえば、するり…手のひらから逃げてしまったそれは、まさしく動物の尾だった。

 幼獣と呼ぶ時期は過ぎてしまっているかもしれないが、成獣と思えるほど完成された肢体とは思えなかった――まだ、若い獣。身近なところでは、猫よりは犬のスタイルに近いだろう――けれども、身体と同じくらい長くふさふさと太い尾は、犬や……先だって見た、狸とも異なる。


「狐……?」


 種族を同定した時にはもう――四本の足でくうを蹴り高く跳び上がったそれは、ろうそくの火が吹き消されるかのように、ふわりと宙に消えていた。





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わが家のかたがた 若月 はるか @haruka_510

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