番外編

鳴かぬ井守が身を焦がす

 ほんの軽い気持ちで出かけたものが、ずいぶんな長旅になってしまった。

 生まれた地を遠く離れては、命の少しずつ枯れて行くを止めることはできず――守宮やもりの身体は次第、乾き痩せるとともに縮んでいった。それでもどうにか、ようように帰り着いてみれば、思いがけない障害に立ち塞がられてしまい――人の子の力を借りて、かれこれ本当にやっとのことで愛しい彼を再び腕に抱くことができたのだった。

 清水の岩場のねぐらへと気づかわしげに手を引いてくれる彼は、不慮の別れの折りと変わらず美しい。背中をすっかりと覆うしなやかな黒髪と透けるように白い肌。細い面に柳の眉と切れ長で黒目がちな目元、小作りな鼻先、赤い唇は――艶のある黒い着流しに差し込まれた、半襟と帯の赤とまるで揃いのようだ。うっとりと目を楽しませながら、守宮は導かれるまま付き従う。

 通された湯殿でも、世話をされるままに湯をかけられ肌を擦られ、髪を梳られる。それから、ごく丁寧に頬や顎に触れさせやられる刃物にもただ身を任せた。

 蓬髪を撫でつけ、口元を無秩序に覆い隠した髭をそり落とせば、やつれ張りを失くして疲れ切りめっきり老け込んで見えるものの、すっかり白い髪の色から老齢に差し掛かろうかとも推測された守宮の顔立ちは凛々しく、若人と呼ぶほどの青さは既に影を潜めて久しげではあったが、まだ壮年と呼ぶにはためらいが勝ちそうな齢とも思われた。

「すまんかったの、ひとりにしてしもうて」

 ならば――拭われた頬に添えられる白い指をとらえて囁く……掠れがちな声もまた、旅の疲れによるものであるのだろう。

 ふるり…長い髪を揺らす恋人の返答は、是でもあり否でもあろう。微かに眉を寄せ、花びらのような上唇を尖らせて見せたあとで――ほんのりと赤く色づき始めた目蓋を伏せ、唇が寄せられる。

 食み返し舌でくすぐって応えてやれば、頬から耳へと滑らされた掌が首を抱く。

「こら。濡れてしまおうが――脱いできぃ」

 引きはがそうと試みれば、不満であったらしい――むぅ…頬を膨らませてみせられたと思った時には、どん…一段低い位置にある、浅い湯の中へと突き落とされていた。

「お前のぉ……」

 なかなかの乱暴をするものだ。さすがに呆れて小言のひとつでも……身を起こしながら思う間に――ぎゅぅ…結局、着物の濡れるもかまわず、じゃばじゃばと自身も乗り込んできた彼の袖に捕まえられる。

 そのまま、頬擦りせんばかりに縋りつかれてしまえば――抱きしめないでいられるわけがない。

「なんじゃ、そがに寂しゅーていけざったか?」

 よしよし…濡れて絡む帯を緩め、貼りつく着物を剥いでやりながら、今度は守宮の側から唇を吸ってやれば――くふ…腕の中で、嬉しげにこぼされる吐息。

 背に回した腕で引き寄せ、一方で指の長い手を取ると――しっかりと掌を合わせあう。

 ことり…裸の肩に預けやられる小作りな頭。柔らかな前髪が流れて、滑らかな額が顎に懐く。

 とくとくとく…ぬるめの湯にほぐれてゆく身体――首筋か脇か、腰か膝の裏か、温まり柔らかくなった肌と乱された着物から覗く肌と、重なり合う部分から流れ込み染みわたってゆくもの。

 繋いだ掌のうちに覚える脈動は、熱く甘く命を奮い立たせる媚薬に似て。

「悪かったのぉ。わしも寂しゅう思うとったぞ」

 柔らかな黒髪を頬で味わい、整ったはえぎわに唇を触れて想いを囁く。

 そうして、ひと時――傍らにあり触れることの叶う喜びに心と身体を委ね、たゆとうた。



 やがて再び恋人の麗しいかんばせと向かい合う時――身体の肉付きまではまだしばらくを必要とするもの、守宮の肌はすっかり血色と張りと艶を取り戻し、おもては惜しみない精悍な美丈夫ぶりを映していた。



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