day21:朝顔


 神棚で目覚めると、もう室内は明るかった。

 現在は瓦で葺かれているが、かつての茅葺のままの形状を保った屋根は軒が深いが、母屋の南側いっぱいの縁側の掃き出し窓にかかるレースのカーテンと縁側と居室を仕切る障子を経た陽光は、天井の高い十畳間にほの柔らかく満ちていた。

 それでも、しん…と静かなのは――まだまだ時間が早いせいだ。

 視線を巡らせ、高い鴨居にかかる時計の針を確認すれば――まだ、午前五時前。

 家の者たちが起き出すにも、もう一時間ほどあろうか。

「ふあ……」

 欠伸とともに伸びをして――しろがねは、神棚を飛び降りる。

 音もなく畳に素足の爪先が触れた時には、人形のような大きさから人の子へ――白銀の髪に銀鼠の水干姿は、黒髪にティーシャツと膝下丈のジーンズ姿に変わっていた。

 そのまま、そろり…まだよく眠っているこがねの気配を騒がせないようすり足で、畳の間から板張りの玄関間へ。

 隔てるガラス障子に手をかける際、さらに慎重になったのは――玄関間に隣接する、かつて堯之たかゆきの曾祖母にあたる人物が自室にしていた四畳半を堯之が寝室に使用しているためだ。

 昔は土間だったところへ床を貼ったため、ここもやはり四畳半ほどあろう玄関間も、玄関の模様ガラスからの陽射しですっかり明るい。

 ファックス電話の脇の帽子掛けから、つばの広い麦わら帽子を取り上げ、サンダルをつっかけると――やはり、そっと玄関のサッシをひいて、しろがねは微かな霧に白む表へ滑り出た。


 夏の常として昼間は汗ばむほどに暑いが、県東部から隣県にまたがる高原地帯であるため、早朝はどうかするとひんやりと感じることもある。

 母屋の前を通って庭を抜ければ、敷地の外はすぐに坂道だ。上り側は、真っ直ぐに北へ――今はまばらになってしまった商店の並ぶ旧国道へと繋がる百メートルほどの急勾配。車一台分ほどの幅の道を挟んで、数軒の民家と小さな畑と果樹園が並んでいる。反対側は、緩くカーブしつつ南に下り、別方向からくる比較的緩やかな坂道と交わる。丁字路が繋がったような十字路には辻堂が立ち、そこからさらに東に向かう坂道と南の国道に繋がるこちらも急な上り坂とが続いていた。

 ん~と……麦わら帽子をしっかり被り、しばし迷ったしろがねは、おもむろに下る方の道を選んだ。


 晴れ始めた霧に濡れた田畑に挟まれた道――水音がするのは、用水路が並走しているためだ。

 木ノ瀬きのせ家を含む数軒の並びを南端として家屋が途切れるので、すぐ向かいに山があるとはいえ迫りくるほどの傾斜でもなければ――空が広い。

 いったん御堂まで――御堂に祀られた石仏の皆さんに手を合わせてから、半ば引き返すような形で――けれど、今度は下りてきた方ではない坂道を上ってみる。昨秋の終わりに多少は整えようとしたものの、結局、手が回り切らず家屋から遠いあたりはやはり草叢になってしまっている裏手の畑を左手に歩き、やがて右手に、周囲の藪に呑まれてしまいそうに屋根の傾いた空き家と、年季は入っているが去年まで入居者のあった二軒続きの町営住宅が続き――それから、やはりまた……しかし、こちらはトマトにナスにトウモロコシと実り賑やかな畑が続く。

 坂の傾斜が無くなる頃、道路に面した庭先に支柱を立てて並べられた蔓を巻く緑――高い位置に低い位置に、青紫色のあるいは赤紫色の漏斗状の花を咲かせているのは、朝顔だ。根元を見れば、長いプランタンの隣に四角いプラスチックの鉢も見られるので、その家の子か孫が学校で栽培して持ち帰ったものも混じっているのかもしれない。


「木ノ瀬のお孫さんかねぇ?」


 ひゃっ……すっかり見入っていたらしい、不意にかけられた声に驚く。

 振り向けば、野良着の老人が、先ほどの畑で収穫してきたところなのだろう、竹製のざるにトマトとトウモロコシを乗せて坂を上って来たところだった。

「お…おはようございます……」

「はい。おはようさん――。みこっちゃんのとこのは大きい息子さんじゃったけぇ、お兄ちゃんの方の下の子かねぇ? 夏休みに遊びに来ちゃったん?」

 慌てて頭を下げると――日に焼けた頬を緩めて浮かべらやれる笑顔は、人好きがして温かい。堯之やみこととの繋がりについては……ひとまず、堯之の甥と説明することが多いので、概ね間違っていないだろうと曖昧に頷いておいたが――そちらも、突然声をかけられた子供が戸惑っているものと、好意的に解釈してもらえたようだ。

「朝顔は、もうちぃと小学校へ近ぁ方へ住んどる孫のも世話ぁしよるんじゃけど――しばらくは咲きよるけぇ、また朝、見に来ちゃったらええよ」

 そして、並んで花を眺める――老人は、眩しそうに目を細めた。


「花も咲いたばぁの綺麗な盛りに見てもらえりゃぁ嬉しかろうけぇ……」



 しろがねの早朝の散歩の楽しみが、増えた。


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