第2話
秋祭りの顛末
「
越してきてそろそろふた月――伝手ができたおかげで早々に、若手の足りないという地域の神社の秋祭りの手伝いに駆り出されることとなり、打ち合わせの末席にひっそりと控えていたつもりの
「
「すみません。大丈夫です。でも、あの――この通り、俺、こんなタッパですけどドンくさいです」
いたた……脹脛をさすりながらなんとか起き上がると、ひとまず人生何度目だかの断りを入れる。これまでの人生、背が高いと言うだけで持たれる周囲の期待と失望に、何度いたたまれない思いをさせられたかわからない。誤解の芽は、早いうちに摘むに限る。
「言うてじゃが、それよ――センセイ。ホンマは初めてじゃけ
しかしながら――集まったメンバーの名前が書き添えられた図面を掲げつつ、ごめんなぁ……言葉通り申し訳なさげに告げられる指摘は、少なくとも揺るぎようのない事実であるので反論のしようはない。確かに、一八〇センチを少しばかり超える身長は、同世代の平均身長を多少なり目立つほど上回るだろう。幅や厚みとしては、痩せているわけでも太っているわけでもないので――威圧感を与えないでいられるらしいのが救いだが。
「いや、でも……俺、ホントに……」
心配せんでも若いけぇ、すぐに憶えてじゃ……皆、口々に慰めめいたことを言ってくれるものの――快諾するに躊躇うのは、幼い頃に当地の祭りを見たことがないわけでもないがため。
大胴打ちとは、つまりは祭りの際に奉納される
正直、自分に務まるとは思えない堯之である。
「心配いりませんよ――しゃぐまが大きく揺れるから派手に動いてるように見えるけど、テンポは一定だし……一番必要なのは、なにより体力だから」
ご苦労様です~……背後からのんびりした声がして――ことん…頭頂部に乗せやられたのは、感触から察するには冷えたペットボトルだろうか。
見上げながら振り向けば、案の定――お茶と思われる複数のペットボトルの入った買い物かごを手にした、白衣に浅黄の袴姿の……そう言ってしまって良ければ……この町に来てからできた友人が、含みありげな笑顔で見降ろしていた。
「お話の途中にすみません。差し入れです――昼間なんでお茶ですが」
酒じゃぁないんかい……口々にはやす中高年をいなしながら手際よくお茶を配り歩く青年は、宮司の孫にして神職にある真砂はるき。いつものように肩に触れるほど伸びた髪が、後頭部で短いしっぽとなって揺れている。
「それに、派手って言うなら――タカユキくんの背があれば、よっぽど見栄えがすると思いますよ」
そのまま、休憩になった部屋の隅――ありがたくペットボトルの封を切る堯之の隣にしゃがみこんだはるきは、励ましのつもりなのだろう……呑気に、返ってプレッシャーめいたことを言う。
おそらくは、この話の流れで断り切れるとは思えないので――できれば、ハードルを上げるようなことを言わないで欲しいとこだが。
「まあ、そう気負わないで。皆さん、素直そうな若い人が仲間入りしてくれて嬉しいんですよ。神儀に関しては、おれは入れませんし」
ぱしぱし…二の腕をはたきながら相変わらずケタケタ笑う彼は、なるほど神事を執り行う側の重要な位置にある。打ち合わせに集まった顔ぶれを見るに――土曜日の午後であるので、職種によっては仕事中で参加できなかった者もあろうが、堯之の次に若いのは三十代初めのIターン移住者であるらしいとなれば、期待されるのも無理はないのかもしれない。
「できる限りは、ガンバリマス……」
はい。よろしく……観念するに、頷く友人の満足げな笑みは悪い気のするものでもなく――確かに、求められることは嬉しくないわけではないのだと、誰にともなく諒解した。
「タカユキくんの説得、成功しましたー!」
「おぉ! さすが、はるちゃん」
きゃらきゃらはしゃいでみせる彼も沸き立つ彼らも――この土地が、本当に好きなのだろうし。
と――。
「はるちゃん、おって?」
ぱたぱたぱた…軽やかな足音が近づいて、ひょこ…開け放ったままの板戸の縁から甲高い声と共に小柄な少女の顔がのぞいた。小柄も通り、年齢が二桁に届くか否かの小学生だろう。さらりと揺れた癖のない黒髪は、背中に届くくらいはあろうか、歳の頃にしては目鼻立ちのはっきりとした、大人ばかりの視線を集めても物怖じのない口調のとおり、いかにも勝気そうな表情の印象に残る少女だ。
「いますよー。どうしたの?
顔をあげたはるきの視線を追い、もしかしたら目が合ったかもしれない一瞬――妙な圧力を感じた気がしたが……堯之としては、まるで初対面の少女に凄まれるいわれはないはずなので、もとより眼光の鋭い子なのだろうか?
「あんね。マミちゃんとも話したんじゃけど、休憩少のうてもええけぇ、稽古早うにして早うに終わらしてもらえん?」
稽古?……少女の早口から聞きとれた単語にそれほどこだわったつもりはなかったが、疑問が顔に出てしまっていたらしい――。
「巫女舞の稽古をしてるんです。彼女は、日和ちゃん――小学四年生。もうひとり、マミちゃんて子が……」
振り向いて説明してくれるはるきの――言葉尻が途切れるのは、早う……焦れる少女に戸口から急かされたせいだ。
「ごめん、タカユキくん。また、後で――」
お邪魔しました……老人たちに挨拶をして退出するはるきを見送るうち、待ち構えて彼の腕をひこうとする少女に――やはり、あれは睨まれたのだろうか?
「それは、母、見に行くわぁ」
帰宅後、大胴打ちをひきうけた旨を報告すれば、母のみことが無邪気に喜んでくれるだろうあたりは、想定内。まだ少し、彼女の表情の裏を疑いたくなる自分が後ろめたく思うことのあるもの――こちらに来て以来、一時のような、無理をして作られた笑みはまず見なくなったように思うので、引っ越しは正解だったようだと、堯之としてもほっとする。
「練習行って、よう教えてもらいんさい」
「うん――」
それから、以前は単語単位でしか耳にしなかったお国訛りが出てくるようになったあたりも――生まれ育った土地を楽しんでいるのだろうと思われて、温もりのある安堵を覚えるものでもあった。
打ち手は、大胴ひとつに対して四人――古くは、神儀の列が参道いっぱいに伸びたそうだと、はるきと入れ替わりに饅頭を差し入れに来た、彼の祖父である宮司から教わった。宮司の若い頃には既に、全盛期の半数ほどに減っていたとのことだが――そこからさらに、現在では……多くて五台、今回は三台での奉納となるらしい。大胴の他も人数の関係で縮小を免れず――鉦が二枚に、太鼓と鉦の調子をとる房の短い纏のような羽熊が一本、拍子木打ちと――獅子舞も一組ずつに。それから、先導と
それでも、大胴に各四名、鉦に各二名、羽熊持ち一名、拍子木打ち一名、獅子舞二名、天狗一名――それから、神儀を打ちながら街道を練り歩き、参道も神事を行う神職たちと共に鳥居の外の祭壇まで御旅をするため、大胴を背負う者が三名いなければならないので、合計で二十四名が必要となる。後に、祭りが近づいてから知ったことだが、堯之の教鞭をとる高校の生徒にも二名ほど、鉦打ちの担ぎ手と大胴を背負う役目についていたらしい。
さらに、大胴の背負い役の高校一年生の男子生徒は、はるきが口にのぼらせかけていた、もうひとりの巫女舞の舞い手の少女の兄であるようで、打ち合わせがてら練習場に顔を出した後、同じく巫女舞の稽古に来ていた妹と連れ立って帰っていく姿をたびたび見かけた。
彼は、身長こそ平均より低いようだが、柔軟性に富んだ程よく引き締まった体躯も当然、堯之とは真反対にスポーツ等身体を動かすことが基本的に苦ではないようで、競技人数ギリギリの野球部やサッカー部はもとより陸上部や柔道部までが時々勧誘している姿を見かけたことが既に何度かある。ただ、そのたび毎、童顔気味な顔を精一杯曇らせて丁寧に断っていた様子だったので、目立つことが苦手なのだろうかと思っていたが――どうやらバス路線からも少し外れた遠くから通っているためであったらしい。時折、はるきが車を出して、例の日和と共に兄妹ふたりを送っていくこともあった。一度、雨の日に同乗を促され――その際に、改めて妹なる少女を紹介されたところでは、いっそ凛々しい黒髪美少女の日和と対になるように、癖っ毛らしい赤味の強い髪を三つ編みにまとめ、心持ちぽっちゃりとした頬とつぶらな瞳にいつも朗らかな笑みを浮かべて、おっとりとした口調で話す――いわゆる癒し系の彼女は、名前を
それから、練習に出るとたびたびはるきが様子を伺いに現れるため――同様にちょこちょこと練習場に彼を呼びに来る日和とも顔を合わせるようになったのだが、眼差しのきつさは相変わらずで……ただ、さすがに察せられないほど、堯之も鈍いわけではない。
彼女は、ごくわかりやすく――はるきのことが好きなのだ。それはもちろん、その年頃の少女のこと、容姿も悪からず立ち居振る舞いは軽やかで面倒見がよく、子供と話すときも丁寧な態度の変わらない――いわゆる、『理想的な近所のお兄さん』としてではあるのだろうと思われもするが。
だので、つまりは――夏に突然現われ、何かとはるきに世話を焼かれて親しげな堯之に、心穏やかならざるものを覚えるのだろう。
悪く言えば、見当違いな言いがかりであるわけだが――一回り以上も離れた年齢の少女の幼心、なにやら微笑ましくもあるではないか。
ただ……それでも、綺麗な少女にたびたび睨まれるのはやはり怖いものではあるし、嫌われていると思うのはやはり傷つかないものでもないので――極力、刺激しないよう努めたい堯之だった。
でも、はるきさん――どこまでわかってんだろ? このひと。
件の雨の日、はるきの車の助手席に促されると――運転席の後ろに座った日和からの不満げな視線が、頬に痛かった。
合併前の町村の区割りのまま今も呼ばれるこの地区の秋祭りは、陽暦が使われるようになってから長く十月十日、十一日に行われていた。十月十日が祝日となる以前からのことであったそうだが、世間に週休二日制の浸透を経て該当の祝日が移動祝日になるのに伴い、祝日とその前日の日曜日――十月の第二月曜日とその前日の日曜日とに行われるようになっていた。
神社のあるあたりは、ともかく周辺山ばかりの土地ではそれとわかりづらいものの南北に緩やかに繋がる鶴山亀山ふたつの小さな山が並び、それぞれを鎮守の森として南の鶴の宮、北の亀の宮、二つのお社が連なっており――祭りは、一日目に上の宮とも呼ばれる亀の宮で、二日目に下の宮こと鶴の宮で、それぞれ朝から午後いっぱいをかけて行われる。
近年はさほどでもなくなっているようだが、冬に雪の多い地域であったこともあり――年末年始よりも住民にとって親戚縁者の集まる機会でもあったらしい。
現在は、昔ほど十二月に雪が降らなくなってきたうえに、世間的にも盆暮れ正月に休むのが『普通』であるとみなされるようになってきたこともあって、ここ三十年ほどの間に随分と寂しくなったと皆、口々に残念がるが、それでも――祭りの日取りを連休に移動したことで、子供を連れて帰省する出身者は少なくはないようだった。
自前で用意して欲しいと言われたのは、白いスニーカーとボトム。ボトムは、作業着やジャージなど、若干伸縮性のある方が望ましいと。それから、汗取りのためのアンダーシャツも数枚――こちらは、胸元や背中にイラスト等が入っていてもかまわないが、袖が無地であれば白か黒で…と指定された。
その上から、白地に朱で亀甲紋を染め抜いた着物を着つけ、裾を端折った上で兵児帯の襷掛けで袖をまとめる。綿を入れて白い巴紋を打ち出した赤い腹当と松竹梅と縁起の良い絵柄を縫いつけた赤を土台とした草擦を身に着け、同じく赤い手甲を巻いてから、頭上の頂にぐるり立ち上げられた長々しい鳥の黒い尾羽根が笠のように広がり揺れる『しゃぐま』を被るのが、大胴打ちの出で立ちである。
もちろん、かつては
一日目は、堯之の家からほど近い――現在は町役場の支所となっているかつての町役場の駐車場から打ち出しをはじめ、街を縦断する主要街道である旧国道を鉦や大胴の
打ち出しで小一時間、移動中は基本的に先頭の天狗の振る扇子と揺れる羽熊に従って、大胴を鳴らしバイを放り上げながらゆっくりと歩き――亀の宮の鳥居の下で、神事を執り行う宮司はじめ正装した数名の神職に出迎えられ、さらに背の高い大きな杉の立ち並ぶ参道を奥のお社近くまで進む。まずは社殿の前で姿勢を正し、二礼二拍手一拝――それから、諸々の準備が整うまでのほんの短い休憩をはさんでのち、社殿の周囲をゆっくりゆっくりと回りながら、お社内で神事の執り行われている間、実に二時間を舞い続ける。
確かに、これは体力勝負だ……。
ゆったりしたテンポと鳴らされる鉦の響きに釣られ、どうにか舞い続けてはいられたが――しだいしだいに跳ねる足が実際に地面を離れる回数は減ってくる。先導の天狗と拍子木が終了を指示する頃には、頭の中は足の縺れることへの心配ばかりに占められて――心底安堵を覚えたほどだった。
「よう頑張っちゃった。お疲れさまです」
そのせいもあってか、午後の鳥居の外にある御旅所での神事までの中休みの時間――祭りの例にもれず振る舞われ、せめて付き合い程度にと口を付けた酒の酔いのまわりは思いの外に早く。
「先生、大丈夫?」
その場にいると次々に酌をされかねない――覚のくれた水のボトルを手に神儀奉納者の談笑の輪を離れ、参道脇のお手洗いのそばの大きな杉の木の陰に逃げ込んだ。ひとまず、ここならもしか朝食と今しがたの御神酒に申し訳ない事態になっても誰かに迷惑をかけてしまう事態は免れよう。
この辺りではこの秋祭りを目処に、こたつを出す家が多いのだという――それでも、昼時の日の当たる明るい場所ではまだ温かさを感じないこともないが、さすがに背の高い木々に囲まれた社の周辺や参道と言った境内はいくらか肌寒く、特に祭りの参拝者や屋台の熱気から離れた物陰に引っ込んでしまえば、神儀を舞っていたために汗ばんだ髪が冷やされていくのを心地よいとばかり言ってもいられない。
それでも酔い覚ましにはなるだろう……汗拭きに首にかけていたタオルを被り、生き物であるからだろうかほんのり温もりを孕んで思える木の幹に背中を預けた。
目を閉じると、やたら酒に強いらしい諸先輩方の声も参道の砂利を踏む音も屋台のモーターの響きも、窓を一枚隔てた程度に遠ざかる。
やっていけるだろうか……漠然と浮かぶ自問は、この後や明日もある神儀の舞い手としての務めについてばかりではなく――しかし、不思議とすぐに答えは浮かんだ。
なんとかなるんじゃないかな――。
これまで、さして社交的でないと思っていた自分でも、こうしてコミュニティの一員として扱ってもらえる。もちろん、過疎地域にやってきた若手として確保されたいという部分もあるのだろうけれど、打算でなく自分たちの町に住まおうとする者を喜んでくれているのだと感じられる――それを自分は、ありがたいと思っているし、できる部分では応えたいと思っている。
それから、練習に参加して今日を迎えて――今さらのように気付いたが、なるほど長年の経験で慣れた者はいるとしても、やはり皆、素人ではあるのだ。本職は、農家であったり個人商店の経営者であったり勤め人であったり……また、各々の趣味や得意なことも違っていて――そういった人たちが、その中で少しずつ出せるものを出し合って……それで出来上がるものが、最高値なのだ。
実際のところ、Uターン、Iターンでこの町に越してきた者のうちには、長年この町で暮らしてきたご年配とは常識の異なる世代も少なくはなく――しかしながら、今の世の中、町の外のとの往来がないまま老齢に達する者はなく、町以外の世界を知らない者もいない。拒絶には奇異と忌避の目を向けられもするだろうが、単純で純粋な困惑や驚愕には好奇と厚意でもって迎えてもらえるようで――まま、古い映画やドラマに見えるようなステレオタイプな愚痴を耳にすることのなかったではないが、その場合も『イマドキ』の世代の悪意のなさと善意が了解されれば、和解とは言わずとも差異の存在の理解はされるものと思われた。
結局、どこにいても人間同士が関係を築いていく経緯は変わらないわけで……それでも、常に主張を強いられるでなく、寛容と共に向けられる少しの期待は、気の長い付き合いを既に確定されているもののようでもあり――今さら焦る必要はないのだと、安心と余裕を与えてくれた。
「緊張してばっかりの関係なんて、もちませんよ」
耳に甦るのは――二か月ほど前の夜、一人称が崩れかけた頃合いの友人の言葉と笑い声。
ゆるりゆるりとやっていきましょ……気さくに距離を詰めてきたようでいながら、同じだけのものを求めるわけではないらしい彼の流儀に、友達になりたいと――堯之も思ったのだ。
そんな物思いに耽っていたせいだろう――ふわり…脛のあたりを柔らかく温かなものが撫でるまで、ぶるり…身震いがするほど気温が下がっていることに気付かなかった。
「え? 寒っ……って、え? 犬?」
とっさに立ち上がり、そして足下に子犬ほどの褐色の毛の塊を見つけ――さらに、発した自分の声でもうひとつの異変を知覚した。
なんで、こんな――静かに……?
明るさは、たぶん変わらない――見上げた高い杉並木の先に見える空は、薄い雲に覆われてはいたがそのぶん淡く光っていた。けれど、先ほどまで遠くとはいえ聞こえていた――いっそ、心地よく身を委ねてさえいたつもりのひとの気配が消えていた。
息を呑むほど静まり返り――しかし、物音が、なにもしないわけではない。
さわさわと、風が杉の枝を揺らす衣擦れか波音のような騒めきが――あたり一面に満ちていた。
『誰ぞ――』
『訪うものか――』
『こちらへ、
「は?」
さやさやから、やがて――ざわざわと、低く重く揺れる響きに、声を聞く。
ひとりの声ではなく、またどこから発せられているとも知れない――敢えて言うなら、わおわおと反響しあう波が頭上から降り注ぐに似ているだろうか。
ともかくは――名とは関係なく誰何され、呼ばれているらしいことだけが、わかる。
『こっちへ――』
背中を押されるように――。
『
手を引かれるように――。
ぎゃう――っ!
甲高い、獣の叫び声に、はっ…とした。
無意識のうちに、参道脇を離れ樹々の間へと踏み出そうとしていたらしい。
きゃう、きゃう……行く手を阻み、押し留めようとするかのごとく――足下から忙しなく飛び上がり、前足を伸ばす獣。いや、実際――止めてくれたのだろう、ごわごわと鼓膜を刺激する声は、正直な感想として、肚の冷える怖さを孕んでいまいか。
きゃう!
「わかった。行かないから――」
膝にすがり鳴き続ける獣を抱き上げる。犬かと思っていたが……違うだろうか? 身体を包む豊富な毛並みは、少しの白を交えて黒から褐色に濃淡を持ち――短く尖ったマズルは、見知った知識ではポメラニアンを連想させたが、もう少しばかり四角く太い。正面から見据えることのできる丸い目の下から頬にかけて特徴的に黒いその獣は――これほど近くで見たのは初めてだが……。
「タヌキ……で、あってる?」
そして、おそらく……犬や熊の子と間違われるといわれる乳幼児の時期を過ぎてはいるが――まだ、子供だろう。
きゅぅ。
もこもことした温もりに、しばし和んでしまったが――事態は、何も変わってはいない。
『こっちぃ、
『
ぞうぞうと立ち並ぶ樹々が、目に見えるほどに揺れ騒ぐ。
ぐうるぅぅぅぅぅ……。
腕に抱いた、子タヌキが勇まし気に威嚇の声をもらすも――さすがに、どうにかできるものではないだろう。
なにが起きているのかわからないなり、子タヌキの温もりをよすが――腹と背に力を込めて、ふらふらと踏み出しそうになる足を押しとどめる。
鼓膜への絶え間ない重たい刺激に、しだいしだい平衡感覚が失われそうな不安を覚え始めた頃――。
ぱぁん――!
柏手の乾いた音が、空を割くように響き渡った。
さわさわさわ…しばし、ざわめきが遠のく。
だだだだだ……っ。
砂利と砂地を蹴る足音を聞きつけた時には、もう一匹――腕の中の子タヌキよりも一回りほど大きな身体をしたタヌキが足下に駆けつけていて。
がるうぅぅぅぅ――!
堯之を背に庇うように向きを変えると、誰もいないが気配だけが濃厚な並木に威嚇を発する。
さよさよと続いていた声の意識が、自分を逸れていくのを感じた。もちろん、全く範疇外に置かれたわけではなさそうで、頬のあたりに今度は視線に似た刺激を覚えたけれども。
「ひとの子を早急に返せ――。お前たちも、南の
そして、こちらは明確に聞こえた――確かな声。
もともと杉の大樹を背にしていた堯之からは死角になる――参道の砂利を踏む音。
『南の――』
『南……』
「さぁ、早く! そも、短慮が過ぎようぞ。祭りが遅れてしまう」
ひそひそと今やそよ風になってしまった樹々を叱責する声は、太くはないが低く良く通る声で――確かに初めて聞く声であるのに、漠然と……聞いたことのある声のような気もした。
そして、正しく静寂の訪れた境内――ふらり…参道の方へ戻ろうと足の向くのは、この場合、声の主を確かめようとする以前の、本能的な反射ではないだろうか。堯之としても好奇心のないではなかったが、それよりも――自分を助けてくれたのだと了解すれば、礼のひとつ告げたい気持ちが働いた。
――のだけれども。
かくん。
膝から力の抜けるのは、先ほどまでの緊張のせいか?
急に揺れた視界が――ぐるり…そのまま回転するのは、そうだった、自分は酒に酔っていたのだ……思い出す間に、世界が暗転した。
「先生――先生、大丈夫?」
「タカユキくん……起きれそう?」
体感として、ホンの瞬きの間。
「はい……!」
肩を揺さぶられ、名前を呼ばれて――慌てて顔をあげれば、法被姿の覚と祭りのために直衣に冠を身に着けたはるきに覗きこまれていて。
「酔い、まわりすぎてる? 午後、いけそうです?」
「すみません。寝てました?」
人々の気配にも物音にも先ほど覚えたような違和感はなく――いつの間にか寝落ちて、夢を見ていたらしいと、思い至ったのだけれども。
「たぶん、うとうとした程度だと思いますけど」
思うほど時間はたっていなかったらしい。ただ、心配そうなふたりには恐縮なことに、堯之としては随分と酔いが抜けてすっきりした気分になっているのだが。
「ところで……」
この後も大丈夫だと請け負ったところで、つぃ…はるきの指が胸元へと伸ばされた。
「犬か猫でもいました?」
気付けば、胸元や腕に褐色の獣の抜け毛を大量に付けてしまっていた。
え? でも、夢だったんじゃ……?
戸惑いながらも――ふた月前の夜の光景が思い出された。
その後、午後の鳥居の外へ出かけての御旅所での神事も――翌日の鶴の宮での神事も滞りなく完了した。神儀の奉納を終えて装束を解いて一息ついたところで、同じく巫女装束から普段着に着替えた日和に呼び止められるという珍事も発生し、どうやらはるきの友人として認めてもらえたらしい上に――この先、彼女からも『タカユキくん』と呼ばれることになったようではあったが。
「疲れたぁ~」
さすがに、体力も限界を見た――。
帰宅後、風呂上がりに十畳間のこたつに足をおさめたとたん、ものの十分もない間に、後に思い出しても驚くほど速やかに寝落ちていた。
夕食の準備をしていた母親もさすがに起こすに忍びなかったレベルの寝入り様であったとみえて――掛け布団だけかけて、そのままにしておいてくれたらしい。
ふと目が覚めたのは――いつかと同じように、囁き交わされる声を耳がとらえたせい。
「お宮の杉たちが、ちょっかいかけたみたいだな……?」
「そろそろ、潮時じゃないか? 御神酒の件からして、もうわかってるんだろうし」
話し声はごく近くで聞こえたが、目蓋越しが暗いように思えた――みことが電気を消しておいたのだろうと、疲労と寝起きであまり複雑に働かない思考の判断に従うべきではなかったかもしれない。
様子を探ろうと、そろり…目を開けた――。
金と銀の二対の視線に――見降ろされていた。
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