17.身延入山
佐渡から鎌倉への旅は、来たときに比べて楽だった。海も穏やかだったし、海を渡り終えて越後の国の
【越後のこう・信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す、島の法師原は今まで・いけてかへすは人かつたいなり、我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をば・とをすまじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者ども・あまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず、三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。】
鎌倉の、松葉ヶ谷の草庵まで帰って来ると、四条金吾のだんなと、七、八人の門下の人たちが出迎えてくれた。本当だったら、日昭や日朗、池上宗仲に宗長、富木常忍、といった連中も集まって来たかっただろうけど、大勢集まって騒ぐとまた面倒なことになりかねないからね。人数は絞るよう、前もって知らせてあったんだ。
久しぶりに松葉ヶ谷に落ち着いて、十日も経たないころだ。
この、佐渡から戻って来たばかりの頃ってのは、妙に、幕府のやつらの態度が丁寧だった。越後の国から鎌倉まで護衛してくれた武士たちもちゃんとしてたし。
日蓮のおやじが言うには、おやじが佐渡から戻って来られたのは、おやじに罪が無いことを幕府が認めたからだ。流罪の刑期を終えたから許されたわけじゃねえ。もともと罪が無かった。頼綱がおやじの首をむりやり真夜中に斬ろうとしたことがやっぱりデタラメだった。執権だった北条時宗が、そこを認めて、おやじを鎌倉に呼び戻したんだ。
【水は濁れどもまたすみ、月は雲かくせどもまたはるることわりなれば、科なきことすでにあらわれて、いいしこともむなしからざりけるかのゆえに、御一門・諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模守殿の御計らいばかりにて、ついにゆり候いてのぼりぬ。】
門下の人たちの中には、これをことさら喜ぶ人たちもいた。北条時宗がおやじのことをちょっと理解してくれた。これはいい傾向だ。佐渡に流されてもうダメだと思ってたのが、運よく戻って来られたんだから、これからはあまり激しく他宗を責めず、騒がしいことはやめて、穏やかに仏法を弘めていくべきだと、おやじに進言する人たちがいたよ。
おやじが五十三歳のときの四月八日だね。おやじは平頼綱の屋敷で、頼綱と再会した。前みたいに、おれも屋敷に侵入させていただいて、話を聞こうとしたんだが、この時は、そんなことは絶対にするなとおやじにきつく言われて、やめた。前にそれをやった時は、これは言ってなかったが、あとでおやじに知られて、ひどく叱られたからね。
あとでおやじが話してくれたところによると、こうだ。
頼綱は、竜の口でおやじの首を斬ろうとした時とは別人のように大人しかった。同じ場所で、二年半前におやじと話した時のように、怒鳴り散らすようなことはしねえ。礼儀正しく、仏法についていくつか質問してきた。おやじは、経典を引きながら頼綱の質問に答えた。
それから頼綱は、大蒙古国が日本に攻め込んで来るのはいつごろになると思うか、とおやじに尋ねた。
おやじは、今年中には必ず攻め寄せて来る、と答えた。
なぜそう思うのか、と頼綱がさらに聞いて来たんで、おやじは、それは二十年近く前から何度も繰り返し言い聞かせてきたはずだ、と返した。頼綱が言葉に詰まったんで、おやじは一気に言い放った。
病気の原因を知らない者が病気の治療をすると、病気はもっとひどくなる。蒙古国が攻めて来るからといって、戦の勝利を願って真言密教の僧に
「あなた方も、今のように真言密教や念仏の僧らの祈祷を続けていたら、ただならぬ結末になるでしょう。私は確かに申し上げましたぞ。正しい仏法が何か知らなかった、と、後になって申されますな」
頼綱は青ざめた顔で、しばらくギロッとおやじをにらんでいたらしい。
頼綱は次に意外なことを言った。ならば、南無妙法蓮華経の祈りを、おやじに頼みたいと言うんだ。ちょうど鎌倉に、広くていい土地があって、そこにおやじのための立派な寺を建てるという。北条時宗が、そうしたいと望んでいるそうだ。
おやじは、その土地には念仏や真言の寺もあるのか、と尋ねた。頼綱は、念仏や真言の寺も近くにあると答えた。
「おそれながら、それではお受けできません。大切な日本国の安泰を、念仏や真言の者たちと一緒に祈ることはできません。まずは、その者たちを追放してください」
おやじはそう答えて、この提案はナシになった。
この話を聞いて、おやじの弟子たちとしては、がっかりする者が多かった。北条時宗が、おやじには罪が無いことをわかってくれたから、これからは迫害も無くなって、布教がしやすくなるだろうと、みんな期待していたんだ。
おやじが念仏や真言への攻撃をやめてくれれば、おやじのことを立派な僧の一人として大事にして、寺も建てる。時宗はそういうつもりだっただろう。でも、頼綱に様子を見させたところ、そうじゃなかった。おやじは、やっぱりよその宗派への攻撃をやめなかった。
そうなると、また邪宗の僧たちが、おやじの命を狙ってくるかも知れない。松葉ヶ谷の草庵は何回も襲撃されて、ぶっ壊されて、別の場所に立て直して、ということを繰り返していたが、それがこれからも続く。
そんな中、おやじの門下の一人で、甲斐の国の
鎌倉の都から、そんな人里離れた山奥に引っ越すなんて、おれはイヤだったよ。おやじを慕う他のやつらにとっても、はるばる甲斐の国の奥のほうへ、山越え谷越えしていかないとおやじに会えないってのは、不便で仕方ない。
たが、日蓮のおやじはこの話を受けた。つまり山奥の波木井郷に引っ込むことにしたんだ。なに、隠居ってわけじゃねえ。漢土の詩人が、帰りなんいざ、とか言って田舎にのんびり引っ込んだのとは、ちがうよ。おやじは、これまで身をもって習い究めた仏法を、ちゃんとした形で後の世の人に残しておくことの大事さを考えた。ずっと鎌倉にいて、迫害を命からがら切り抜けながら、倒れて死ぬまで走り回るのも、尊いことにはちがいないが、死んだあとのことが心配だ。もちろん、あとには日興や、日昭、日朗、富木常忍、金吾のだんな、池上の兄弟なんかがいるけども、おやじナシでしっかりやれるか、わからない。おやじが佐渡に流された時、おやじがいなくなった途端、法華経の信仰を捨てたり、かえっておやじを批判しだすような連中が、たくさん出ちまった。信仰をやめなかった奴のほうが珍しいぐらいさ。そこをおやじは深刻に受け止めてたんだと思う。自分がいなくなったあとも、南無妙法蓮華経の信心が続いて行くためには、もっとしっかり弟子たちを教えていかないといけないし、仏法の教えを紙に書いて遺しておいてあげないといけない。
だからおやじは、実長の提案を受けて、波木井郷に移ることにした。鎌倉を出発したのは、頼綱との会見から一ヶ月後。おやじが五十三歳の年の五月のことだ。ほんの二ヶ月前には、佐渡の人たちと涙のお別れをしたってのに、やっと都に帰って来たと思ったら、またお別れだからねえ。おれは、おやじからは、金吾のだんなのところで世話になるか、この屋敷で池上家のやっかいになることを勧められたんだが、金吾のだんなは顔がこわいし、池上家もその時の当主は良観の信者だったから居心地が悪いし、とかまあいろいろとゴネて、やっぱりおやじにくっついて行った。
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