16.船出

日蓮のおやじは本当の仏法を教えてくれた。釈尊が死んじまって二千何百年も経って、末法の時代になって、仏法がへろへろになって、悪僧たちがはびこる今、何を信じてどう修行していかないといけねえのかを示してくれた。


佐渡の人たちも、それがわからないはずがないよ。おやじは一の谷の屋敷から遠くへは行けないが、おれや日興があちこち駆けまわって、南無妙法蓮華経の信心をしゃべって回って、南無妙法蓮華経の題目を唱える人がどんどん増えていった。


これを怨んだのは、念仏、禅、真言の悪僧たちだ。塚原問答で法論では負かされた。それから謀反の予測が当たって、代官である本間の殿さまからして、おやじに信伏しちまった。阿仏あぶつぼう国府こう入道、中興なかおき入道と、地元の有力者もおやじを信じていく。農民や漁師たちも、仲良く手を合わせて南無妙法蓮華経と唱える。


たとえば、誰かが死んだ、となる。さあ葬式だ。さあ稼ぎどきだ。坊さんたちが意気込んで待ってても、なかなか声がかからねえ。葬式に呼ばれねえ。どうしたのかと思うと、もう念仏はやめて、南無妙法蓮華経で行くから、念仏の坊さんには用は無い、と言われる。坊さんたちにしてみりゃ、冗談じゃないよ。葬式でカネをとり、子供ができた安産祈願だといってカネをとり、厄年だお祓いだといってカネをとり、お彼岸だ先祖供養だといってカネをとらないことには、やつらの商売が立ち行かない。


おやじが佐渡に来たせいで、坊さんたちの収入が減っちまった。日数が経つほど、稼ぎが減っていく。これはまずいと言うんで、佐渡の各宗派の悪僧たちが集まって協議した。このままでは生活ができなくなって餓死してしまう。悪僧たちは、鎌倉へ行って、本間の殿さまのもっと上、佐渡の領主である北条宣時のぶとき直訴じきそすることにした。


直訴ったって、おやじは悪いことは何もしてねえ。しかしそいつらの理屈はこうだ。佐渡では、念仏の僧も禅の僧も真言の僧も、仲良くやっている。それぞれ、北条宣時さまを敬い、北条家からの寄進を受けて、鎌倉幕府の繁栄のために一生懸命、宗派を超えて力を合わせ、頑張ってる。にも関わらず、日蓮は、自分だけが正しいと主張し、他の宗派を攻撃して、佐渡の僧侶たちのうるわしい団結を破壊している。北条家のために仏法の権威で民を手なずけている各宗派の努力を無駄にしている。もともと日蓮は北条家に歯向かって佐渡に流された身だ、民に向かって、北条家を敬うことを教えるわけはないし、逆に、北条家、鎌倉幕府は間違っている、と教えている。いや、幕府を呪詛している。これを野放しにしていたら、どうなるか。佐渡の人々はみんな幕府に従わなくなって、反乱が起きるかも知れない。すでに代官の本間六郎左衛門からして、日蓮になびいてしまっているじゃないか。


てなところだ。


【又念仏者集りて僉議す、かうてあらんには我等かつえしぬべし・いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬ・いかんがせん、念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観が弟子の道観等・鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す、此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす、夜もひるも高き山に登りて日月に向つて大音声を放つて上を呪咀し奉る、其の音声・一国に聞ふと申す】


北条宣時はこれを信じた。日蓮の教えを信じることは許さん、日蓮を信じる者は処罰せよ、というデタラメな命令書を書いて、本間の殿さまに届けた。殿さまは、本意ではなかったけども、主君の命令となると従わないと仕方ない。


そうなると、おやじを信じる人たちへの締め付けはいっそう厳しくなった。一の谷の屋敷とその周りにも、人相の悪い見張り役たちが増えた。おれや日興も自由に出入りできなくなったし、おやじを慕う人たちも、屋敷に近づいただけでとがめられて、口ごたえするとすぐ連れて行かれてしまう。


【武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし、或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる】


そうやって、おやじを信じる人たちが苦労をしていたのは、相模や安房でも同じことだった。おやじは、自分のことはさておき、その人たちが無事でいられるよう、真剣に南無妙法蓮華経の題目を唱えていた。冬は凍えながら、夏は汗だくになって、一心不乱に唱えていたよ。


【何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり】


おれにしてみたら、そんな中で監視の目を盗んでサササッと手紙を届けたり、食い物や紙を仕入れたりするのが、楽しみだったけどね。これは監視の目が厳しいほど面白い。


そうやってだんだんと状況が悪くなって、この窮屈なのがいつまで続くのかと思っていたころだ。佐渡に来て三度目の年越しをした、おやじが五十三歳のときの三月だったが、思いがけず唐突に幕府から使いが来た。使いの者は、おやじが「赦免」された、つまり、流罪はもう許すから鎌倉に帰っていいよ、という幕府の赦免状を届けに来たんだ。


【上へ此の由を申されければ案に相違して去る文永十一年二月十四日の御赦免の状・同三月八日に島につきぬ】


「赦免」と言ったって、もともと罪が無いんだから、許すも何もねえんだけどね。つまりは、執権の北条時宗ときむねが、おやじには何の罪も無いってことを認めたってことだ。罪に服して刑期を終えたってことじゃねえよ。もともと流罪にしたのが間違いだったってことがハッキリしたから、島を出ていいってことなんだ。意味としてはね。


この知らせを聞いた時には、さすがに嬉しくて、飛び上がって叫んだなあ。


それからは、罪が無いってことがわかったわけだから、北条宣時の命令も取り消しになって、阿仏房や千日尼、そのほか佐渡で南無妙法蓮華経の題目を唱えていた人たちが、自由に行き来できるようになった。おやじも初めて遠出ができるようになって、阿仏房の家にも行ったし、中興入道の家でも騒いだし、愉快このうえなかったよ。


野暮なことに、念仏や他の宗派の悪僧たちは、この期に及んでまだおやじのことを攻撃してきた。むしろ、生かして島から出すものか、と悪心をむき出しにしておやじの命を狙っていたらしい。けれど、本間の殿さまが家来たちに命じてニラミをきかせてくれていたから、大したことはなかった。


本当だったら、おやじと一緒に佐渡をすみずみまで巡って、世話になった人たちにあいさつして、それから船に乗りたかった。しかしそんな状況で、悪僧たちが何をしてくるかわからないし、鎌倉ではまた、一刻も早く帰ってきて欲しいと待ってる人たちがいる。おれたちは赦免の報せが届いた五日後には、佐渡から旅立った。


船出の日には、大勢見送りに来てくれてね。もう罪人ではないもの。南無妙法蓮華経の日蓮上人に、みんな大きな声でお別れを言った。おれたちも必死で手を振った。ありがとうありがとうって声が枯れるまで叫んだよ。佐渡に来た時には、ずいぶんひどいことになっちまったと思ったけど、二年半ばかり暮らして、島の人たちとも仲良くなってみると、やっぱり別れはつらい。


おれたちを乗せた船が動き始めて、岸を離れても、島の人たちはなかなか立ち去らなかった。岸辺に立って、ずっとこっちを見ていた。日蓮のおやじは甲板の上に立って、島の人たちに向かって手を合わせて、南無妙法蓮華経の題目をずっと唱えていた。日焼けしてくちゃくちゃの漁師の顔や、肩車されて両手を振る小さな女の子の顔、お互いに支え合いながらずっと立ちつくして涙を流している老夫婦の顔、ひとつひとつを拝んでは、一心に南無妙法蓮華経と唱えた。如来とは一切衆生なり、だ。おやじは仏さまを礼拝していたのさ。

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