15.観心本尊抄

そんなこともありながら佐渡で二度目の年越しをした。この時は、最初の年越しほどは寒くなかったよ。日蓮のおやじは五十二歳になった。以前にも増して、筆をとっては猛然と紙に向かって法華経の教えを書きまくってたよ。気がつけば、佐渡でおやじの弟子になった人たちも、阿仏房に千日尼、国府こう入道、最蓮さいれんぼういちさわの入道、中興なかおき入道と、増えもしたし、しっかり法華経を学んでそれなりに立派なことを言うようになって、南無妙法蓮華経を周りに弘めていくまでになっていた。


四条金吾のだんなが佐渡に来たとき、これもずいぶん無茶をしてやって来たもんだが、おやじとだんなが話していて、もし二人で地獄に行った時には、地獄の鬼どもに向かって教えを説いて、南無妙法蓮華経と唱えさせて、地獄を仏国土にしてやろう、と豪勢なことを言っていた。そんな元気だから、佐渡の島にも南無妙法蓮華経が広まったよ。


【日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ】


さて。


ここまで長々と、おれの話を、居眠りひとつしねえで、妙な口ごたえもしねえで、真剣に聞いてくれるとは、お前もなかなかのタマだねえ。いや、時々「それは違うだろ」とお前が言ってたのをおれが聞いてなかっただけかも知れないが。


これは、日蓮のおやじからは、めったに人に話すなと言われてることなんだが、お前には教えてやろう。信用してよさそうなツラだよ。話すな、秘伝だと言われても、わかるやつには伝えておかないことには、おやじだって説いた意味がなかろうし。


【観心の法門少々これを注して、太田殿・教信御房等に奉る。このこと、日蓮が身に当たる大事なり。これを秘す。無二の志を見ば、これを開袥せらるべきか。】


その秘伝は、おやじが書いた『観心かんじんの本尊ほんぞんしょう』っていう御書に書いてある。今は富木常忍が持ってるのかな。中身を見てもおれにはもちろん読めないが、他の御書と同じように、どういう意味かってことは佐渡でおやじから聞いた。


最初、お前と話し始めた時、仏法の教えを説いたのは誰かって話をしただろう。仏法を説いたのはお釈迦さん、釈迦仏だ。にもかかわらず、今の坊さんたちが、釈迦仏を拝まないで、鎌倉の阿弥陀の大仏や奈良の廬舎那るしゃなぶつの大仏、浅草の観音菩薩なんかを本尊として拝んでるのは、見当ちがいの奇怪な話だ。そんなことを話したろう。


日蓮のおやじは、釈迦仏こそ教主きょうしゅとして敬うべきだと教えた。阿弥陀や大日如来を拝むと、悪業を積むことになる。だけど、じゃあ本尊として拝むのは釈迦仏なのかってえと、それはまた少し違うんだ。


念仏のやつらは、阿弥陀の力で極楽に行きたくて、阿弥陀を本尊にして拝む。観音菩薩や薬師如来を本尊として拝むやつらも、仏にすがりたい、救って欲しい、守って欲しい、と思って、拝む。


日蓮のおやじが教えた信心は、そういうんじゃねえ。何度か言ってきたことだけど、南無妙法蓮華経の信心は、自分の命に備わる仏性の力を開いていく努力だ。その、自分の仏性を見つめていく努力を、「観心」という。これも前に言ったっけ。


おやじの言う本尊は、この「観心」のための本尊だ。自分の仏性を開くために拝む本尊。これが「観心の本尊」ってわけ。


天台大師や伝教大師も「観心」が大事だと教えた。でも、どうすれば「観心」ができるのか、何を本尊としたどんな祈りが「観心」になるのかまでは、教えてくれていない。


自分の仏性は、妙法蓮華経の五字に収まっている。だから、日蓮のおやじは、妙法蓮華経に帰依するって意味の南無妙法蓮華経の七文字を、紙に書いて、文字曼荼羅をあらわした。これを観心の本尊とした。おやじが考えた「観心」の実践方法は、その観心の本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることだ。


釈迦仏と同じく自分にも備わっている仏性を、南無妙法蓮華経とあらわして、南無妙法蓮華経の本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えれば、釈迦仏と同じように仏性が開かれていくんだよ。


【釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。】


【「我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。】


釈迦仏と等しい自分の仏性、妙法蓮華経のことを、おやじは「己心の釈尊」とも言った。むかし仏法を説いた月氏国の釈尊や、法華経に出て来る四大菩薩といわれるえらい菩薩たち、そのほか多宝如来やら文殊菩薩、弥勒菩薩やらが、「己心の釈尊」である妙法蓮華経の周りに集まって、妙法蓮華経を誉め称える。おやじは、紙の真ん中に南無妙法蓮華経と書いて、その周りに釈迦仏をはじめとした如来たちや菩薩たちの名前を書いた。観心の本尊である文字曼荼羅は、そういう格好になってる。


【地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。例せば、太公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属、武内大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるがごとし。上行・無辺行・浄行・安立行等は我らが己心の菩薩なり。】


【この本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にもこれを付嘱したまわず。いかにいわんや、その已下をや。ただ地涌千界を召して、八品を説いてこれを付嘱したもう。その本尊の為体は、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士たる上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸の菩薩は万民の大地に処して雲客月卿を見るがごとく、十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表する故なり。】


あ、それと大事なのは、この観心の本尊を初めてあらわしたのは、日蓮のおやじだってことだ。だから曼荼羅の真ん中の南無妙法蓮華経の下には、同じくらいの大きさで、日蓮、と必ず書いてないといけない。釈迦仏は南無妙法蓮華経のヨコに小さく書いてあればいいし、おやじが書いた本尊の曼荼羅の中には、釈迦仏が書いてないやつもあるぐらいだが、日蓮、は必ず無いといけない。


【この時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。月支・震旦にいまだこの本尊有さず。日本国の上宮、四天王寺を建立して、いまだ時来らざれば阿弥陀・他方をもって本尊となす。聖武天皇、東大寺を建立す。華厳経の教主なり。いまだ法華経の実義を顕さず。伝教大師ほぼ法華経の実義を顕示す。しかりといえども、時いまだ来らざるの故に、東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕さず。詮ずるところ、地涌千界のためにこれを譲り与えたもう故なり。この菩薩、仏勅を蒙って近く大地の下に在り。正像にいまだ出現せず、末法にもまた出で来りたまわずんば、大妄語の大士なり。三仏の未来記もまた泡沫に同じ。】


この文字曼荼羅の本尊を、おやじは本当に信心の強い人にだけ授与した。四条金吾のだんななんかは、早いうちからもらってたね。あと佐渡では阿仏房がもらってる。おやじは阿仏房に、この本尊は阿仏房の仏性を書きあらわしたものだから、この本尊を拝むときは、多宝如来とかの仏さまを拝むんじゃなくて、自分の仏性を拝むんだと思って、南無妙法蓮華経の題目を唱えろ、わが身が如来なんだと信じて題目を唱えろ、と教えていたよ。


【末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。

 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。】


おやじの秘伝の話は、そんなところだ。こんな話まで聞けるとは、お前、ツイてるぜほんと。


ついでに言っておくと、妙なことに、この『観心本尊抄』を受け取った富木常忍も、四条金吾のだんなも、日昭や日朗たちまで、本尊は文字曼荼羅だっておやじは書いてるのに、よくわかってねえらしく、その後、釈迦仏や、四菩薩の仏像を作って、ありがたがって拝んでる。おやじは、取り立ててそのことを叱りはしなかった。阿弥陀や大日じゃなくて釈迦仏の像を造るのはいいことだと誉めもした。だが、おやじが本当に伝えたかったことは、『観心本尊抄』に書いてある通りだ。釈迦仏の像を拝むのは、南無妙法蓮華経の信心じゃないよ。それがわかってるのは、日興だけなんじゃねえかなあ。おれ以外ではね。





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