12.塚原問答
流罪の罪人とはいっても、全く自由がないわけじゃない。おやじも、あまり遠くまで行かなければ、お堂の近くを散歩するぐらいはできた。おれや日興なんかは、もともと罪人ではなくて、勝手についてきただけだから、遠くまで外出しても別に怒られなかった。
仕送りを受けとるのも自由で、
しかしそれがどうにも気に食わねえ、ていう連中がいてね。
もともとの、
ただ、祈雨で赤っ恥をかかされた良観や、おやじの処刑に失敗してこれも面目まるつぶれで悔しい思いをした頼綱からすると、気が済まない。流罪といっても、承久の乱の時に
だから、表向きは平静を装いながら、裏では子分の坊主どもや武士たちに手を回して、おやじの命を狙っていた。執念深いことだよ。もう、おれたちが佐渡に着いた十日後ぐらいには、怪しいやつらが塚原三昧堂の近くをうろうろしていた。
どうにかして、おやじの命を奪って、良観や頼綱に、仕留めましたぜ!ていう報告をして、喜ばせて褒美をもらいたいんだが、普通に襲撃しちゃあまずい。自分が罪人になっちまう。それなりの理由を作って襲撃するか、でなけりゃ、バレないように事故を装って崖から突き落とすか、毒でも盛るか。
そういう相談を坊主たちがやるなかで、気の利くやつがいて、佐渡の代官である本間の殿さまには計画を伝えておいて、少々ヘマをしてももみ消してくれるよう、前もって話をつけておこうと考えた。
ところが、殿さまは坊主たちの悪だくみを聞いて、怒った。
「日蓮は、死罪ではなく流罪となってこの島に来ている者だ。流人として生活させ、不手際のないようにと、公式の書状もいただいている。もしものことがあっては、代官である私の恥になるではないか。それになんだお前たちは?仏の教えを説いて人々を救うべき僧たちが、集まって殺人の相談とは何事か。僧ならば、法論で日蓮と対決すればよかろう」
殿さま、本間六郎
坊主たちは、そんな話の通じない役人だとは思っていなかったから、慌てただろう。とはいえ、そういうふうに言われたら、法論はやらん、おれたちは暴力ひとすじなんだ、て開き直るわけにもいくまいし、佐渡の代官である本間の殿さまにそう言われたら、特に佐渡に寺を構える坊主たちは、弱腰を見せるわけにはいかない。
そんなわけで、念仏、禅、真言、天台の坊主たちとの法論対決をやることになった。本間の殿さまの使者からその話を聞いた時には、おやじもおれたちも驚いたよ。槍や刀で襲われたり、なんやかや嫌がらせをされることは覚悟してたが、まともに法論の申し入れが来るなんて、予想してなかった。
日蓮のおやじはこんなふうに言ってた。
「本間六郎左衛門どのは、よく物のわかったお人だ。邪宗の僧たちが卑怯な企みをしているのを見て、正々堂々と法論せよと言ってくださったに違いない。京からも鎌倉からも遠く離れたこの島に、語るに足る相手がどのくらいいるかわからんが、法華経の功徳を演説するいい機会になるだろう。それにしても、鎌倉で、何年もかけて、極楽寺良観、建長寺道隆、念仏の良忠たちと法論させて欲しいとあれほど求めたにも関わらず叶わなかったものが、北国の田舎の僧たちを相手に叶うとはなあ」
法論の日は、佐渡にやって来た次の年の正月すぎ、一月十六日だった。
【いずくも人の心のはかなさは、佐渡国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・性諭房・印性房・慈道房等の数百人、より合って僉議すと承る。「聞こうる阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識の日蓮房、この国にながされたり。なにとなくとも、この国へ流されたる人の始終いけらるることなし。たといいけらるるとも、かえることなし。また打ちころしたりとも、御とがめなし。塚原という所にただ一人あり。いかにごうなりとも、力つよくとも、人なき処なれば、集まっていころせかし」と云うものもありけり。また、「なにとなくとも頸を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊なれば、しばらくきられず。終には一定ときく」。また云わく「六郎左衛門尉殿に申して、きらずんばはからうべし」と云う。多くの義の中に、これについて守護所に数百人集まりぬ。六郎左衛門尉の云わく「上より殺しもうすまじき副状下って、あなずるべき流人にはあらず。あやまちあるならば、重連が大いなる失なるべし。それよりは、ただ法門にてせめよかし」と云いければ、念仏者等、あるいは浄土の三部経、あるいは止観、あるいは真言等を、小法師等が頸にかけさせ、あるいはわきにはさませて、正月十六日にあつまる。】
その日は、朝から、寒いのにご苦労なことに、雪がちらつく中、袈裟を着た坊主たちが塚原三昧堂の前の原っぱにばらばらと集まり始めた。
最初は静かだったが、三十人ぐらいになってくると、だんだんざわつき始めた。寒いから黙ってじっとしてもいられないだろう。坊主だけじゃなく、話を聞きつけた付近の農民や武士も集まって来て、何者なんだかよくわからんゴロツキも混じって、百人ばかり集まったころに、お堂の中から日蓮のおやじが出て来た。
坊主やゴロツキどもは一斉におやじに向かって罵声を浴びせた。罰あたりとか、仏の敵とか、死ねとかなんとかね。真冬の吹きさらしの原っぱで寒いもの、大きな声でも出して温まりたかったんだろうよ。
おやじは、騒いでるやつらの顔をしばらく眺めていたけども、どうにも耳ざわりがよくないから、連中に向かって大きな声を響かせた。
「お前たち、法論をしに来たんじゃないのか。法論をしたいんだったら順序だててちゃんと話してみよ。悪口雑言などほざいて何になるか!」
何を!と坊主どもも色めきたった。ちょうどその時、本間の殿さまが一族や家来たちを連れて現れた。殿さまは、日蓮の言う通りだ、と、こっちの味方をしてくれて、騒ぐやつらを黙らせて、それでもまだわめいてる何人かのやつらは、家来の侍に首根っこを捕まえられて追い出されちまった。これは愉快だったよ。
【念仏者は口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失い、天台宗ぞ勝るべきよしをののしる。在家の者どもは「聞こうる阿弥陀仏のかたきよ」とののしりさわぎひびくこと、震動・雷電のごとし。日蓮はしばらくさわがせて後、「各々しずまらせ給え。法門の御ためにこそ御渡りあるらめ。悪口等よしなし」と申せしかば、六郎左衛門を始めて諸人、「しかるべし」とて、悪口せし念仏者をばそくびをつきいだしぬ。】
何人かの坊主とか、仏法をかじってる武士なんかが、かわるがわるおやじに法論を挑んだけど、もちろんおやじにかなうやつはいない。ねちねちと粘って意味もなく話を長引かせようとするようなやつもいたが、そういうのは本間の殿さまがバサッとさばいてくれた。もういいお前の負けだ黙れってね。
塚原三昧堂の前の原っぱに集まった人数は、最後は三百人ぐらいにはなった。ところが、法論というか、おやじとまともに仏法の話ができたのは七、八人で、その他の連中は、その七、八人がおやじに簡単に言い負かされたのを見て怖気づいてしまって、おやじに挑んでは来なかった。他に誰かいないかと、何度かおやじは呼びかけたんだが、誰も出て来ない。なんだか今ひとつ盛り上がらなかったねえ。しかし、乱暴者が暴れ出したり、槍や薙刀もった奴らが乱入してきたりしないでよかった。
法論の内容はどんなだったかって?だから大した話はなかったんだよ。教養の無い、お粗末な坊主たちばかりでね。おれが言うのもなんだけど。経典もなにもロクに学んでない、読んだことさえないクセにデタラメ言ってるのが丸わかりでさ。法然の弟子を名乗るやつが「
あー、ただ、
中興入道は、本間の殿さまに頼まれて、もう白髪ひげのじいさんながら、この塚原問答の警備役として、武装した家来を連れて、坊主やゴロツキどもににらみをきかせていた。もともと、坊主どもなんかよりよっぽど教養があって、世間の知恵も豊富なじいさんだったから、日蓮のおやじが法論するのを聞いてるうちに興味がわいて、とうとう自分がおやじに話しかたんだ。
「日蓮どの、わしは長年念仏を唱えているが、最近、禅も始めましてな。心しずかに禅をくむというのもいいもんじゃ。その前は弘法大師の
おやじは答えた。
「わたしは、禅の
おやじがそう言うと、中興入道はフームと息をついて、ごそごそと懐をさぐって、念仏の数珠を取り出した。そしてその数珠をポーンと空に向かって放り投げた。で、今日からさっそく念仏を捨てて、他の教えもやめて、おやじの弟子になるって、大きな声で宣言してたよ。
そのほか、三昧堂の近くの「
ともかく、何百人も集まってみたものの、誰もおやじにはかなわないってことがわかったし、昼めしの時間も近づいたんで、本間の殿さまは集まった坊さん、武士、百姓、よくわからんゴロツキどもに、解散を命じた。
ぞろぞろと去って行く中には、まだ何かいわくありげに目をギラつかせてるヤカラもいて、法論がダメなら力ずくでどうだ、って雰囲気もあったから、殿さまと家来たちが最後まで残って、おやじに手出ししないよう見張っててくれた。あの殿さまは本当にもののわかったいい人だ。
だいたいみんな解散して、残り十人くらいになったころ、もういいだろうってことで殿さまも家来を連れて屋敷に戻り始めた。すると、おやじは帰ろうとする殿さまの背中に向かって大きな声で呼びかけた。
「本間様!次に鎌倉の都に上るのはいつごろの予定ですか」
「ふむ。冬のあいだは海が荒れて危ない、春になれば農地の手入れも必要だから、それが済んで七月ごろか」
「都に戦があっても、でございますか」
「なに?」
「殿は佐渡の代官であられますが、都では名高い武士として知られておりましょう。農地の手入れは大事ですが、いざ鎌倉で戦が起きたとなれば、急いで鎌倉に向かうべきです。遅れてしまうようなことがございませぬよう」
おやじは、それだけ言うと、寒い寒いと言いながら三昧堂の中へ引っ込んだ。
殿さまは首をかしげて、わずかに残っていた念仏の連中なんかもおやじの言葉を怪しんでいたが、お前も知ってるだろう、その翌月の二月に、北条時宗の兄貴の
【皆人立ち帰るほどに、六郎左衛門尉も立ち帰る。一家の者も返る。日蓮、不思議一つ云わんと思って、六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云わく「いつか鎌倉へのぼり給うべき」。かれ、答えて云わく「下人どもに農せさせて、七月の比」と云々。日蓮云わく「弓箭とる者は、おおやけの御大事にあいて、所領をも給わり候をこそ。田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに、急ぎうちのぼり高名して所知を給わらぬか。さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくりいくさにはずれたらんは、恥なるべし」と申せしかば、いかにや思いけめ、あわててものもいわず。念仏者・持斎・在家の者どもも、「なにということぞや」と怪しむ。】
ついでだけど、塚原問答の翌日の一月十七日、
「法然上人は、法華経を捨てよと教えられたが、それは、法華経を捨てて浄土に行ったあと、浄土で法華経の修行をせよ、という意味なのだ。だから法華経を罵っているわけではなく、地獄に堕ちるなどと言われる筋合いはない」
想像できると思うが、まずおやじは、法然が本当にそう言ったのかどうか、どの文書にその言葉があるのか見せてみよと言った。そんなものは無い。それから、阿弥陀経や無量寿経をはじめ、一切経のうちのどこに、法華経をしっかり名指しした上で、法華経を捨てよと書いてあるのか、示してみよと言った。もちろんそんな経文は無い。
法華経の開経である無量義経には、「
弁成は、そんなやりとりでやっぱり簡単に言い負かされて、それだけじゃなく、言い負かされた証拠の紙に一筆書かされちまった。素直に一筆書くだけ、鎌倉の坊主どもよりはマシだよ。
【日蓮、管見をもって一代聖教ならびに法華経の文を勘うるに、いまだこれを見ず、法華経の名を挙げて、あるいはこれを抛て、あるいはその門を閉じよ等ということを。もししからば、法然上人の憑むところの弥陀本願の誓文、ならびに法華経の「阿鼻獄に入らん」の釈尊の誡文、いかんぞ、これを免るべけんや。法然上人、無間獄に堕ちなば、所化の弟子ならびに諸の檀那等、共に阿鼻大城に堕ち了わんぬるか。今度分明なる証文を出だして、法然上人の阿鼻の炎を消さるべし云々。
文永九年太歳壬申正月十七日
日蓮 花押
弁成 花押 】
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