9.ようじ本尊

いやー、出た出た。

わりいな待たせて。小便だけのつもりだったんだけど、モリモリ出ちまって。


さて、本間の殿さまの屋敷に着いたところからだったな。


依智にある本間の屋敷には結局ひと月ほどいたよ。

幕府のお偉いさんたちのほうじゃあ、竜の口での頼綱の真夜中の首切り未遂事件を受けて、それなりにすったもんだあったらしい。


幕府の連中からしたら、日蓮のおやじがロクでもない奴だってことは、まあだいたい意見が一致していたんだと思う。時頼のころからずっと崇拝している極楽寺良観をコケにして、さんざ悪口を言ってきたんだからよ。


にしたって、いきなりとっつかまえて吟味もしないで真夜中に首切りはまずい。デタラメにもほどがあるよ。しかも、いざ松葉ヶ谷の草庵に踏み込んでみたら、ウワサされてたような武器のたくわえとか、謀反の証拠みたいなもんは、何も無かったんだから!


頼綱の見込みでは、真夜中に首を斬って、あとで何か言われたとしても、草庵から何かちょっとでも謀反の証拠みたいなもんが見つかれば、それを理由に、反乱を未然に防いだんだってことにしたかったんだろう。


ところが、何も出てこねえどころか、首切りにも失敗して、光り物にはビビらされるし、家来たちはおやじの振る舞いに感服して信仰をあらためる者まで出て来るし、どーにも思惑が外れちまった。これは頼綱もあせったに違いないよ。いい気味だ。


しかし喜んでもいられねえ。何とかおやじを悪人に仕立てあげたい頼綱は、おやじの弟子の日朗たちを捕まえて牢にぶち込んで尋問したり、念仏の信者たちを使っておやじの悪い噂を流したりした。これにはおやじもだいぶ気をもんでいたよ。自分のことより、日朗たちが心配でならない様子だった。


日朗は、日興よりひとつ年下だから、まだこの時は二十七、八歳かなあ。日昭と、この日朗と、池上の兄弟とは、みんな親せきの間柄だ。おれや日興はおやじと一緒に佐渡に行ったが、その間に鎌倉に残っておやじの弟子たちをまとめてたのはまず日昭と日朗だった。


で幕府でのすったもんだのほう、これはおやじの弟子で、葬式にも来てくれてた、比企ひき能本よしもとっていうじいさんががんばってくれた。まだ生きてるとは驚いたよ。この首切り騒ぎの時にはもう七十近かったからなあ。長めにいうと比企ひき大学三郎だいがくのさぶろう能本よしもと。おやじは、「大学どの」と呼んでたな。このじいさんはむかし北条義時に滅ぼされた比企能員よしかずの息子で、比企一族が滅ぼされた騒動から何とか生き延びて、出家して坊さんになり、しばらく京都で過ごしたあと、鎌倉に戻ってきた。元は有力な御家人だった比企の一族ということもあって、幕府の中に知り合いも多いし、何かとおれたちの力になってくれているよ。


頼綱のやってることがデタラメなのはまず間違いない。いくらみんなの大好きな良観を批判してるからって、証拠も無いのに謀反人扱いしていきなり首を斬るこたあない。伊豆流罪の時だって結局罪は無かったじゃねえか。そんなふうなことを、能本は主張してくれた。


これに、能本と仲の良かった安達泰盛あだちやすもりが賛成してくれてよ。知っての通り泰盛は、当時の執権であり頼綱の主君である北条時宗の嫁の父親、つまり時宗のおしゅうとさんだ。東北のほうを監督する、「秋田城介」っていう重要な役職も持っていて、おやじは「城殿」とも呼んでたが、いくら頼綱でもこの安達泰盛にはおいそれと歯向かえねえ。


この「城殿」こと安達泰盛が、首切りはやりすぎだってことを執権の時宗に訴えてくれた。


【大がくと申す人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時、身をすてて、かとうどして候いし人なり。この一代は城殿の御計らいなり。城殿と大がく殿は知音にておわし候。】


ついでに、これはよくわからねえ話だが、おやじが竜の口で首を斬られそうになった次の日、時宗の屋敷で何か不吉なことが起きたらしく、陰陽師に占わせてみると、これは日蓮のおやじを処刑しようとしてるのが原因だ、と言ったらしい。すぐやめさせないとひどいことが起きる、とこの陰陽師は言ったらしいよ。それで、時宗の屋敷の女たちなんかも気味悪がって、時宗に、おやじを処罰しないよう頼んだそうな。


【十郎入道と申すもの、来って云わく「昨日の夜の戌時ばかりに、こうどのに大いなるさわぎあり。陰陽師を召して御うらない候えば、申せしは『大いに国みだれ候べし。この御房、御勘気のゆえなり。いそぎいそぎ召しかえさずんば、世の中いかが候べかるらん』と申せば、『ゆりさせ給び候え』と申す人もあり。】


だったら、一切おとがめなし!となって欲しいもんだが、頼綱のほうもまたしぶとく粘って、無罪とはならなかった。結局のところ、首は斬らないものの、佐渡に流罪にするということで落ち着いたんだ。


本間の殿さまの屋敷があった依智から、越後の国の寺泊まで歩いて行って、そこから船に乗って佐渡ヶ島だ。


さて幕府のほうでごちゃついてる間、屋敷に押し込められていた日蓮のおやじは、ずっと弟子たちのことを心配していた。特に、牢にぶち込まれていた日朗たちの様子を知りたがったよ。だからおれや日興は、おやじのお使いとして、鎌倉にも安房にも行って、おやじがみんなのために書いた手紙を読み上げて、そんでおやじの弟子たちとあれこれ話をしては、その様子をおやじに報告した。自分は首ちょん切られても平気な覚悟ができていても、弟子たちのことは気になって仕方なかったんだ。


【今夜のさむきにつけても、ろうのうちのありさま思いやられて、いたわしくこそ候え】


それからおやじは、自分が捕らえられて、佐渡に流されることで、弟子たちがこの南無妙法蓮華経の信心を捨ててしまうんじゃないか、ということを心配していた。せっかく念仏や禅のデタラメな教えを捨てて、正しい仏法を始めたってのに、おやじのことを疑ったり、おやじがいない心細さから、信心を失くしちまったら、かわいそうなことこの上ねえ。


本間の屋敷にいたおれたちにも嫌がらせはあった。


誰の指示だか、おおかた頼綱のクソ野郎だろうが、おやじがしきりと手紙を書いてはおれや日興に持たせて弟子たちに届けてるんで、これがまた悪い企みの準備だとかなんとか疑って、筆と紙を取り上げられちまった。本間の殿さまは、まあまあわかった人だったし、家来たちもそんなことはしたくなかったんだけど、上からの命令で仕方なかったんだとよ。おれたちも、ねちねちしたことされて腹が立ったが、本間の屋敷の連中に迷惑をかけたくないから、言われるとおりにした。


ところが、依智を出発して寺泊に向かおうというその日の朝、まだ暗いうちに日蓮のおやじが急に言うんだ。


「熊王。少しでいいから、筆と墨と紙を、手に入れて来てくれんか」


おれはまだ眠かったが、おやじに頼まれちゃ仕方ねえ。お屋敷のなかを物色して、筆と墨と紙をちょっとちょろまかして来るぐらい、文字通り朝メシ前だからねおれにとっちゃ。


とは言いながら、張り切ってコソコソとお屋敷の中を探ったものの、出発の朝とあって人はもう起き出してうろつき回っているし、時間はねえし、どうにも不調に終わって、何とか手に入れたのは紙が三枚と、小さな墨つぼだけ。筆が手に入らなかった。


まあ仕方なしにおやじのところへ戻って、それを渡した。おやじが何か書きたいってのに、筆がねえのは困る、何とかならねえかと言っていたら、日興が、つまようじの先をかみ砕いて、筆の代わりを作った。やっぱりあいつは賢いよ。


すると日蓮のおやじは、喜んで、そのようじの先に墨をつけて、紙の真ん中に、南無妙法蓮華経、と、グリグリと大きく書いた。それからその南無妙法蓮華経の両脇に、愛染明王、不動明王、をそれぞれ梵字で書いて、あと日蓮、花押、日付、書いた場所、てなことを書きつけた。


これが南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊の第一号だ。


おやじは、屋敷の近所に住んでいた弟子のひとりにこの曼荼羅を届けるよう、おれに言った。


「この曼荼羅を本尊として、この曼荼羅に向かって南無妙法蓮華経と唱えるよう、しっかりと伝えてくれ。これは日蓮の魂でもあり、みんなの仏性を鏡に映した姿だ。頼むぞ」


つまようじでグリグリ書いたものが、そんな大事なご本尊になったと聞かされて、おれはずいぶんとビビったが、言われた通りに、屋敷を飛び出して届けて来た。


確かに届け終わって、急いで屋敷に戻ってみると、もうみんな越後に向けてぞろぞろと出発してるじゃねえか。オーイと叫びながら、置いていかれるまいと、おれは必死で駆けておやじを連れた行列に追いついた。


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