4.伊豆流罪
『立正安国論』を時頼に提出した後、ひと月もたたないうちのことだったらしい。
松葉ヶ谷の草庵に、夜中、大勢のゴロツキどもが押し寄せて来た。何かの仕返しだとか、悪党を成敗するとかなんとか、わけのわからねえことをワイワイわめきちらした。
何しに来やがったのかといぶかしむ間もなく、その連中はワーッと草庵の中に乱入してきた。五、六人の弟子たちが抵抗したがすっ飛ばされて、日昭なんかも引きずり倒されてさんざん足蹴にされたそうな。とにかく草庵の中で、壁に穴をあける、柱は歪ませる、経典や書の道具なんかも踏み散らかして、火でもつけられなかったのがまだよかった。
しかし、日蓮のおやじはというと、すんでのところで草庵を脱け出して、草庵の裏山の山道をつたって、追っ手に捕まることもなく逃げ延びることができた。
これは、松葉ヶ谷でふだんおやじと仲良くしていた近所の人たちが、急を報せてくて逃がしてくれたものらしい。それから騒ぎを聞いたそのほかの近所の人たちも、なんだなんだと目を覚まして集まって来て、ゴロツキどもも退散するしかなくなった。
けしかけたのは、北条重時だろう。幕府の中でも、いっとう南無阿弥陀仏に惚れ込んでたのが重時だ。念仏をやめろという『立正安国論』の主張を聞いて、腹を立てねえわけがねえ。
北条重時は、承久の乱の総大将だった泰時の弟だ。そのころ幕府では時頼の次に偉かった。いや実力では時頼以上に権力を持ってたかも知れねえ。だから日昭や富木常忍、池上の宗仲、四条の金吾のだんなといったおやじの弟子たちが、犯人のゴロツキどもを探し出して捕らえるよう幕府に掛け合っても、のらりくらりだ。重時とつながってるんだもの、誰も手出しはできねえ。
【夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、その夜の害もまぬかれぬ。しかれども、心を合わせたることなれば寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る】
重時の兄貴の泰時は偉いひとで、生きてたころ、人々が安穏に暮らしていくために必要な掟をまとめて「御成敗式目」を定めた。式目によれば、夜中に人を襲撃するような連中は、罰せられないといけないはずだ。なのになんのとがめもねえ。自分たちで決めた掟を、自分たちで破ってやがる。
物騒でしかたねえから、仕方なくおやじはしばらく故郷の安房に戻って、富木常忍の屋敷で過ごした。常忍の屋敷を根城にして教えを弘めて、また弟子が増えていった。大田乗明、曽谷教信、秋元太郎、といった安房のほうの主だった弟子の人たちには、この時期に弟子入りした人が多い。
で、ほとぼりが冷めたろうと思う頃合いに、鎌倉に帰ってみたんだが、そこに幕府の役人どもが待ち構えていた。幕府にたてついて、世間さまを騒がせた罪だとかで、アッという間に捕り押さえられた。
それからロクに裁判しないまま流罪と決まった。行先は伊豆だ。襲撃したゴロツキは調べもしねえで、襲撃されたおやじは島流しだよ。
よくまあこう簡単にポンポンと、人を殺そうとしたり捕らえて島流しにしたり、できるもんだねえ。
いや、世間では、北条重時といやあ、幕府の重鎮として、秩序を重んじる折り目の正しい人だと言われてた。それがおやじに対して、こうまでデタラメをやるってのは、いくらおやじが何の後ろ盾も持たないただの坊さんだかっらって、ねえ。
エライ人の考えることはわからねえが、おそらく重時からしたら、自分がとことんホレてる念仏が否定されたのが、どうしても我慢ならなかったんだろう。自分も頭を丸めて念仏三昧やってるし、大金をはたいて寺を立てたり盛大な法要をやったりしているし、そこまで入れ込んでるものを、「無間地獄の因」とやられちまったら、これは、自分のメンツを潰されることになっちまう。
幕府のエライ人と、山賊の親分は、とにかくメンツを気にするもんだ。
そういうわけで日蓮のおやじは伊豆に流されて、伊東ってところに落ち着いた。おやじがちょうど四十歳のときだ。伊東っていえば物見遊山に出かけたいくらい暖かくてのどかでいいところだけど、その時のおやじは罪人扱いだから、狭いお堂にに押し込められて監視つきの生活だ。
この時、駿河の国から、のちにおやじの一番弟子になる日興が飛び出して来て、おやじのところへ押しかけた。まだ十六歳ながらに、筆やら紙やらたくさん行李に入れて背負って、百五十里ほど旅をしてね。
もともとおやじに仕えたいと願っていたのを、まだガキんちょだし四十九院でしばらくは大人しく修行していろと、おやじに言われて、その言いつけを守っていたんだが、おやじが流罪と聞いて居ても立ってもいられなかったんだろうよ。
おやじも、日興が伊豆にひょっこり現れた時は驚いたが、そのままそこに留まることを許した。それ以来日興は、おやじが身延に入るまで、常におやじのそばに居たよ。おれほどではないけどね。
伊豆でおやじが書き残した書きもんの中で、おやじは、この流罪について大きな喜びと、大きな嘆きがある、と書いている。
大きな喜びってのは、正しい南無妙法蓮華経の教えを説いたおやじが、経典に書いてある通りに迫害を受けて、法華経を身で読むことができた、ってことだ。それまでは、毎日の生活のいろいろな煩わしいことがあって、じっくり経典を読む時間を作るのもひと苦労だったが、経典の通りに迫害を受けることで、伊豆にいる間中、朝から晩までずっと法華経を身で読んでいる状態になってるっていうんだ。これほど名誉なことはねえ、てね。
【法華経の故に
大きな嘆きのほうは、正しい南無妙法蓮華経の教えを説くおやじを殺そうとしたり追放した、幕府の連中や手下のゴロツキどもが、仏罰を受けるのが可哀そうだ、ていうんだよ。重時なんかは、おやじを伊豆に流罪にしたその年にもう死んじまったしね。
【我一人、この国に生まれて、多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く。】
【長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知って理不尽に伊豆国へ流し給いぬ。されば、極楽寺殿と長時と、彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし。】
あー、極楽寺殿っていうのは、北条重時のことだよ。
日蓮のおやじは、伊豆の伊東で大人しくしているよう幕府に命じられたんだが、まあ、言われた通り大人しくしてるわけはねえわな。
ひとつには、元気いっぱい十六歳の日興が、南無妙法蓮華経の教えを近所に説いて回った。しまいには、金剛院っていう真言宗の寺の住職の、行満ってのを、おやじのところに引っ張って来て、弟子にしちまった。これでこの金剛院は、大乗寺と名前を変えて、南無妙法蓮華経の教えを信じる法華経の寺になったんだ。
それから、伊東でおやじの面倒を見るように幕府から仰せつかったのは、伊東佑光っていう武士だったが、これも日蓮のおやじと話してるうちに、南無妙法蓮華経の教えを信じるようになった。だから伊豆での暮らしは、のちの佐渡ほど悪くはなかったそうだ。
結局、伊豆に流された翌々年の五月、おやじは鎌倉に帰ることを許された。許されるも何も、悪いことはいっこもしてないんだけど。まあ帰っていいってんで鎌倉に帰った。幕府の判断というのは、つまりは、おやじに罪が無いことがハッキリして、伊豆に押し込めとくことができなくなったってことだ。言い出しっぺの重時も死んだし。もちろん、残された弟子の人たちが、あれこれと必死に幕府に働きかけた結果だよ。
そういや、幕府が京都から、律宗の叡尊を鎌倉に招いたのは、おやじが伊豆に流されてる間のことだった。
叡尊ってのは、初め、比叡山の悪僧どもの堕落ぶりを見かねて、戒律をきっちり守ることの大切さを説いた。けっこうなことだね。しかし、それってのは、つまり比叡山の坊主たちがいかに堕落してるかってことを説くことでもあるから、反発を食って叩かれた。
けど、だんだんと人々に理解されるようになっていき、特に、貧しい人や病気の人のために住む場所や食べるものを用意してやる活動が、位の高い人たちだけでなく、おれらみたいな下っ端にもウケた。なんでも、叡尊は聖徳太子と行基を特別に敬っていて、その人たちが貧しい人たちをいろいろと世話していた逸話に、影響されているらしい。これもまあすこぶるいいことだ。
そういう偉い坊さんが京都にいるってんで、北条時頼は使いを走らせて、ぜひ鎌倉に来て教えを聞かせてくれとせがんだ。日蓮のおやじの立正安国論には返事もしねえで、律宗の坊さんには必死こいて会おうとするんだからねえ。
叡尊は時頼の誘いをずっと断っていたんだが、何度も頼まれて、ようやく鎌倉に来た。これが、おやじが伊豆にいる頃のことだ。時頼は、この高僧に土地や寺を差し出して、ずっと鎌倉にいて欲しいとせがんだらしいが、京都に帰りたい叡尊はそれを固く断った。
それで、自分の身代わりってわけでもないだろうけど、自分の弟子の忍性を、鎌倉に置いとくことにした。
そう、この忍性が、またの名を良観、このあと極楽寺の住職になって、ずいぶんと羽振りをきかせて、日蓮のおやじとバチバチやりあった、あの極楽寺良観だ。
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