5.小松原の法難

伊豆の島流しから帰って来たおやじは、また鎌倉で南無妙法蓮華経を弘め始めた。




この時、故郷の安房のほうから大事なしらせが来た。




おやじを故郷から追い出したあの東条景信と、おやじが昔から世話になっていた人たちとの間で、清澄寺の支配権をめぐって裁判が起きたっていうんだ。




清澄寺はもともと、鎌倉に幕府が開かれる前から、長狭ながさ家が領主として治めている地域にある。これを景信は、東条家のものにしようとしたんだ。なんやかやと難癖をつけたり、いやがらせをして、圧力をかけてきた。東条家のほうは、幕府からの任命を受けている地頭だから、強気なもんだ。それに引きかえ長狭家ときたら、源平の合戦のころ、平家に味方して源頼朝を襲撃したっていう過去があったりして、立場が弱い。景信は、強引にグイグイいけば、清澄寺を自分のものにできると算段した。




しかしおやじからしてみると、長狭家の人たちは、おやじやおやじの父ちゃん母ちゃんによくしてくれていて、おやじが京都に旅をした時の資金なんかも、長狭家の人がけっこう出してくれてたっていう、そういう恩義のある人たちだった。長狭家の一族の中には、おやじの弟子として南無妙法蓮華経を信じてる人もいる。




だからおやじは、この長狭家と東条家のあらそいの話を聞いて、長狭家を守ろうと、必死で走り回った。裁判に出すための文書も一部はおやじが筆をとって書いたものだ。そして猛烈に南無妙法蓮華経の題目をとなえて、長狭家の勝利を祈願した。




そしたらまあ。さすがだね。裁判は見事に長狭家の勝ち!東条景信は、屋敷の壁をガンガン蹴って悔しがったそうな。




【東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかとうどとなり、「清澄・二間の二箇の寺、東条が方につくならば、日蓮、法華経をすてん」とせいじょうの起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり。】




この裁判の間、おやじは鎌倉と安房を行ったり来たりして、長狭家の人たちや清澄寺の坊さんたちと、東条景信にどうやって勝つか相談し合ってた。清澄寺のほうでも、最初はおやじのことをやっかいものとして毛嫌いしていたが、乱暴な景信を撃退するためにおやじが真剣にがんばってるのを見て、そんなやつらもだいぶ態度が変わったらしい。




そして裁判が終わった後も、おやじは鎌倉じゃなく安房のほうで弘教を続けた。なんで安房なのかってえと、この頃おやじのおっかさんが、重い病にかかってしまってね。どうも命にも関わりそうなくらいだったから、おやじは弘教の拠点を一時安房に移して、しばらくのあいだ、安房で暮らすことになった。




景信のほうでは、これをいい機会だと考えた。日蓮のおやじは、弘教のために景信の領地の中を行き来する。その時に、おやじの命を奪ってしまおうとしたんだ。




そりゃあ、いくら地頭だからと言って、むやみに人の命を奪えば罪になる。でも自分の領地の中でやっちまえば、あとで幕府から罪を問われても、どうとでも誤魔化しがきくからね。ましておやじは、誰からの保護も受けてない、ただの坊さんだもの。




その日、おやじは工藤吉隆っていう武家のお人に招かれ、その人の屋敷に向かって、十人ばかしの弟子の人たちと一緒に歩いていた。




景信は、その道の途中にある東条郷の松原大路ってところで、おやじたちを待ち伏せてた。




景信が引き連れてたのは、三百を越えるチンピラたちだ。チンピラたちの大半は、景信がひいきにしている念仏の寺の坊主たちだった。あんたも知ってる通り、今どきの坊主ってのは、穏やかにお経を唱えたり説法してたりするもんじゃない。気に食わないことがあったら暴力に訴えて圧力をかけてくるのが坊主だ。比叡山の僧兵ほどじゃないが、まあどこに行っても寺も坊主ってのは、槍を振り回して暴れるのが本職だよ。




計画通り、景信は松原大路を通りかかったおやじたちに向かって矢を浴びせかけ、突進して追い回した。襲撃に気づいてアッと思った時には、もう一人殺されてたそうだ。弟子たちは必死におやじを守って奮戦した。ちょっと遅れて工藤吉隆が五十人ばかりの家来を連れて駆けつけて乱戦になり、ここらで景信も、武士同士の争いはマズイと見て、引き上げた。




おやじの額には、刀傷があったろう。あれは、このとき斬りつけられてできたもんだ。あと、突き飛ばされてしたたか地面に叩きつけられて、腕の骨も折れたと言ってたな。弟子の人もおやじをかばって三人、命を落とした。工藤吉隆やその家来も大けがをしたそうだ。しかしその人たちが体をはっておやじを守ったおかげで、血まみれ泥まみれになりながらも、おやじは何とか命をとられずに済んだ。




それからおやじたちは、東条の領地から出て、青蓮寺っていう、清澄寺の僧坊のひとつに身を寄せた。




そこでしばらく傷の養生なんかをしている時に、おやじのガキの頃の師匠だった道善さんが、おやじを見舞に来たそうな。




道善さんは、おやじが最初に清澄寺で南無妙法蓮華経をやり始めて、念仏の批判を始めた時、おやじの理屈にはちゃんとスジが通っていて立派なもんだと感心していながら、やっかいごとを恐れて、ほかの坊主たちがおやじに嫌がらせするのを、師匠のくせに見て見ぬフリしてたようなお人なんだが、おやじが怪我をしたと聞いて、さすがに心配になったんだろうよ。




道善さんは、一応おやじのガキのころの師匠というだけに、バカではなかったから、南無妙法蓮華経が正しいってことは理解してたんだ。もちろん、小さいころから面倒みてきたおやじへの愛情ってもんもあったろう。可愛い小僧さんだったおやじが、重時やら時頼やら北条家のお偉いさんたちを向こうに回して仏法を説いてるってのも、立派になったもんだってんで、嬉しかったろう。




けれど、念仏への信仰をやめることはできなかった。信仰というか、周りの坊さんや清澄寺の信徒の連中に念仏好きが多かったもんだから、自分もそっちの仲間だって態度をとらずにいられなかった、てところだろう。




それでいて、日蓮のおやじが「自分の中にある仏性を信じないで、西方十万億土の遠くにいる阿弥陀を拝んで何になるんだ」て言うと、それもそうだと理解するから、この時、青蓮寺で養生してるおやじにこう尋ねたらしい。




「私は念仏への信心を続けていて、阿弥陀如来を尊ぶ気持ちを形にしたかったから、阿弥陀如来の仏像を五体作った。念仏を信じる者は地獄に堕ちる、とお前は言うが、そうすると私も地獄に堕ちるのか」




いくらおやじだってね、子供のころから世話になってる相手だもの。仏法のことだって、算術や読み書きだって、なんにもわからなかった時に、この道善さんが親切に教えてくれたんだ。その相手に向かって、「あなたは地獄に堕ちる」だなんて、それは、言いたくないよ。おやじもこの時は、困ったらしい。だが、おやじは師匠に向かってこう言った。




「阿弥陀如来の仏像を五体作ったということは、五度地獄に堕ちるでしょう」




もちろん、敬愛する師匠に正しい仏法を信じて欲しい真心で言ったのさ。




【思い切つて強強つよづよに申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし其の故は正直捨方便の法華経に釈迦如来は我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるはあに不孝の人に非ずや】




のちに、この道善さんは、だいぶおやじの言うことも信じるようになって、南無妙法蓮華経の題目を唱えるようにもなったらしい。




この道善さんが亡くなった時、おやじはその追善供養のために、『報恩抄』っていう、ものすごい量の書きものをして、南無妙法蓮華経の正しさについて山ほど書きまくって、その時おやじはもう身延の山の中にいたけど、その書いたやつを弟子に持たせて、清澄寺の道善さんの墓の前で、墓石に向かって読んで聞かせた。そんときはおれも一緒に行って、おやじの文を弟子が読み上げるのをとなりで聞いた。いやそれはもう長い長い文で、夕方から読み始めて、読み終えた頃にはあたりは真っ暗だったよ。しかし、そのくらい、この度胸の無い師匠に対するおやじの思いは、深いもんだったってことだと思う。




青蓮寺でしばらく養生して、傷も治りかけた頃、弟子たちの一人が、おやじに常陸の国にある湯治場で湯治することを勧めた。




この人は常陸の国の生まれで、自分の生まれ育った村の近くに、その昔、八幡太郎義家が傷を治したっていう、由緒正しい湯治場があるっていうんだ。おやじの刀傷や骨折した腕の骨にも、きっと効果があるだろうって。




東条景信がまたしつこく何か仕掛けて来るんじゃないかっていう状況でもあったから、しばらく安房を離れてみるのもいいだろうってことで、おやじは日興や日昭たち弟子を引き連れて、常陸の湯まで旅をした。おっかさんの具合もこの頃はいくぶんよかったしね。旅すがら、常陸や下野でも南無妙法蓮華経を弘めて、そのあたりにも新たな弟子がたくさんできたそうな。




おやじはその常陸の湯をずいぶん気に入ってね。身延の山からわざわざ出て来たのも、おやじが常陸の湯に行きたいと言ったからだ。その途中、この池上の屋敷で死んじまったわけだが、はるばる常陸まで行って帰って来られるとは、おやじも思ってなかったんじゃねえかな。




話を戻して、安房でのことだが、湯でさっぱりして青蓮寺に戻って来たら、驚くことがあった。おやじの帰りを待ってた富木常忍らが真っ先におやじに知らせたのは、あの景信が死んだってことだ。特に病気をしていたわけでもなく、死ぬすぐ前にもふつうに晩めしを食って酒を飲んで、さあ寝ようって寝所に向かって廊下を歩いていたら、ふいにコトンと倒れて、それっきりだったとよ。




人が死んじまったのを喜ぶわけにはいかないけども、ずっと日蓮のおやじを目の敵にしていた東条景信が死んで、安房ではだいぶ安心して南無妙法蓮華経を唱えることができるようになった。伊豆流罪に続いて、このケンカもおやじの勝ちってことだ。




にしても、おやじが命を狙われることは度々あったが、いっとうひどかったのはこの時だった。腕は折れるし、頭から血は流すし、弟子は殺されるしだったからね。仏法のために、このくらいの目に遭ったのは、この時の日蓮のおやじたちと、熱原の神四郎たちだけだ。




それからまたしばらくして、おやじのおっかさんが亡くなった。こわい景信もいなくなって、おやじの元気な姿を見て、安心して旅立ったと思うよ。

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