3.立正安国論

日蓮のおやじはこう言ってたよ。




同居穢土どうこえど、という言葉がある。




私たちが暮らしているこの世には、魔王の軍勢と、仏の軍勢が同居していて、お互いに、自分たちの領地を増やそうと、ずっと戦を続けてるんだ。




仏の軍勢が勝つこともあれば、魔王の軍勢が勝つこともある。仏が勝てば、楽しく安心して暮らせる土地が広がる。魔王が勝てば、苦しみや恐れの土地が広がる。




だから私たちは、魔王の軍勢を見つけたら、戦を挑んで、打ち負かさないといけない。魔王の軍勢に領地を広げさせてはいけない」




【第六天の魔王、十軍のいくさをおこして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土を、とられじ、うばわんとあらそう。日蓮その身にあいあたりて、大兵をおこして二十余年なり。日蓮、一度もしりぞく心なし。】




おやじが言うには、今のこの末法の世の中じゃ、仏の軍勢は負けっぱなし、魔王の軍勢が好き放題に領地を広げているそうだ。




だから日本中の寺は乱暴な悪僧でいっぱいだし、北条家は殺し合っては寺を建て、仏を供養してはまた殺し合ってるんだ。延暦寺の坊さんたちと園城寺の坊さんたちがお互いに薙刀やこん棒をもって合戦してるんだもの。なにをやってんだか。




日蓮のおやじは、魔王の軍勢を見つけては、戦を仕掛けた。魔王の領地が広がらないようにね。延暦寺の坊さんみたいにこん棒を振り回したわけじゃないよ。きちんと経典に照らして、法論で破折していった。




その第一が念仏だ。




まっとうな仏は、誰にでも「仏性」があることを説く。その「仏性」を信じて、「仏性」の力を引き出そうとする。




魔王の軍勢はそれと逆のことを言うんだ。




「仏性」なんて無い。いや、あったとしても、「仏性」の力を引き出すなんて誰にもできない。




法然が「選択集せんちゃくしゅう」で教えているのがそれよ。




仏性に目覚めようなんて思っちゃいけない。そんなことはよっぽど修行を積んだごく一部の人間にしかできない。ふつうの人が努力しても無理だ。




凡人にできることは、ただ阿弥陀如来におすがりすることしかない。阿弥陀如来の名前をひたすら唱える。自分の力を信じちゃいけない。「他力本願」でないといけない。




これが、法然の教える南無阿弥陀仏だ。念仏の教えだ。




しかも法然は、南無阿弥陀仏と唱える念仏以外の修行や努力は、やっちゃいけねえ、とも教えた。法華経であろうと、仏法のどんな教えであろうと、念仏以外は全部捨てろ、というんだ。




念仏だけが、仏の心にかなった唯一の「正行」で、そのほかの経典を読んで勉強したりすることは、極楽往生への道の邪魔になる「雑行」だというのさ。




日蓮のおやじは怒った。




自分の命の中にある仏性に目を向けることをやめさせて、西方十万億土の極楽浄土に目を向けさせる。仏性の素晴らしさを説いた教えは捨てろ。デタラメにもホドがあるよ。




なのに、ずいぶんたくさんの人が、法然の教えに引っかかっちまった。仏性を、自分が持ってる宝の珠の力を、信じなくなっちまった。




こんなの、黙って見てるわけにはいかねえ。




だからおやじは念仏の連中を責めた。おやじのことを、ケンカ好きだ、よその批判ばかりで乱暴だ、と言う奴もいるが、こんなバカな話、怒らねえほうがおかしいじゃねえか。おやじは、仏性から目をそむけさせようとする魔王の軍勢を押し戻そうと必死にだったんだ。




さて、安房の国を出て鎌倉に向かったおやじは、松葉ヶ谷まつばがやつ、というところに簡単な草庵を構えて、念仏の破折と、南無妙法蓮華経の弘教を始めた。




今の松葉ヶ谷の草庵は、ちょっと道が狭いところにあるが、最初は、今とは少し離れたところの、広い道沿いにあったそうな。弘教のために人を招いたりするには、最初の草庵のほうがよかったんだが、ゴロツキどもが襲撃してきたり物騒なこともあったし、いろいろと都合が悪くなって今のところに越したらしい。




おやじは松葉ヶ谷のあたりに住む人たちと仲良くなって、仏法を教えて行った。念仏みてえな釈尊の教えとあべこべのまがいものじゃない、本当の仏法をね。あのあたりには今も南無妙法蓮華経を唱える人が多いが、おやじが松葉ヶ谷に来て三年ぐらい経ったころには、今の五倍はおやじの門下がいたとよ。ひとつの集落が丸ごと全員おやじに信伏した、ということもあったそうな。




この頃、坊さんたちの中では日昭がまずおやじの弟子になった。おやじとは、比叡山で学んでいた時からの知り合いで、そのころからおやじのことを崇拝していたらしい。で正式に弟子になったんだね。日昭より、安房の富木常忍のほうが弟子になるのは早かった、と常忍本人は言ってたけど、どうなんだか。それから日昭の甥っ子で、おれたちが今いるこのお屋敷の主の、池上の宗仲、宗長兄弟。これが弟子になった。それから、四条金吾のだんなもこのころ弟子入りした。




何しろこの、松葉ヶ谷に草庵を構えてから五、六年の間に、日蓮のおやじを信じる人はどんどん増えていった。




日蓮のおやじが三十四歳のとき、「一生成仏抄」っていう文をひとつ書いた。松葉ヶ谷で布教していたころ、近所の人たちとどんな話をしていたのかはこれを読めばわかるよ。




「一生成仏抄」の出だしの部分はそらで言える。えーと、




れ無始の生死しょうじを留めて此の度決定けつじょうして無上菩提むじょうぼだいを証せんと思はばすべからく衆生しゅじょう本有ほんぬの妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり】




てなもんだ。




「無始の生死」てえのは、無限に続く苦しみってことだ。生まれては死に生まれては死にをずっと繰り返しているなかで、何度生まれてもいつだって苦しい目にばかり遭っている。




それがこの先もずっと続くのはごめんだから、ここらでやめて、「無上菩提を証せん」、まあ、全部解決させてスッキリしようってことよ。苦しみ続けるのはもうおしまい。




そのためには「衆生本有の妙理」ってやつを、しっかりと、大きく目を見開いて、見すえてみないといけねえ。「衆生」てのは、おれたちみんなのことだ。人、犬や猫、虫、植物もいれて全部の生き物が「衆生」。「本有」てのは、もともと有るってことだ。どこにも探しに行く必要はねえ。もともとそなわってるんだ。




で、「妙理」てのが、妙法蓮華経。これは、略して「法華経」と呼んでいるひとつのお経の「題目」、つまり名前なんだが、おれたちみんなにもともとそなわっている仏性についた名前でもある。この妙法蓮華経という名前を呼ぶことが、おれたちにも簡単にできる、衆生本有の妙理を観ずる修行、になるわけよ。仏性の名前を呼ぶことで、仏性があわられてくる。




あと、こうも書いてあった。




たとえば闇鏡あんきょうも磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明いちねんむみょうの迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如ほっしょうしんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又おこたらず磨くべし何様いかようにしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。】




おれたちの心は、磨きをかける前の曇った鏡だっていうのさ。それが、南無妙法蓮華経と唱えることで、磨かれて、仏性の光が輝くようになる。




「阿弥陀仏」なんていう、西方十万億土の、手の届かねえところにいる赤の他人の名前を呼んで、「南無阿弥陀仏」とか唱えるんじゃなくて、てめえにもともとそなわっているてめえ自身の仏性の名前を呼んで、「南無妙法蓮華経」って唱えようじゃねえか。




そう説いたんだ。




そうしてあちこちで寺の坊さんと法論を戦わせたり、町や村の人たちにこんこんと法華経のすごさを説いたりしていたとき、おやじが三十六歳の頃だが、鎌倉で大地震が起こった。




正嘉しょうかの大地震ってやつだ。




たくさんの家々が崩れて、多くの人が亡くなった。おやじの教えを聞いて法華経に帰依した人たちの中にも、亡くなった人がたくさんいた。松葉ヶ谷の草庵も半分崩れちまったが、幸い怪我もせず無事だったおやじは、自分の住処のことはそっちのけで、もっとひどい目に遭ってる人たちを助けるために走り回った。ちょうど八月の暑いさなかのことだ、汗だくになってけが人を介抱したり瓦礫を片付けたりしながら、おやじは考えた。正しい仏法を説き始めて数年の間に、南無妙法蓮華経は少しずつ広まって、まずまず順調みてえだけれども、こんなもんじゃダメなんだ、てな。




経典には、仏法が衰えてデタラメな教えが国に広まり始めると、次々に災害が起こると説かれている。日蓮のおやじは、この悲惨な大地震も、原因はそれだと考えた。




法華経を弘めねえといけねえはずの比叡山は悪僧の巣になっちまってるし、法然はこのおれたちの世界のことを、「穢土えど」、けがれた世界だって決めつけて、ありもしねえ極楽をありがたがることを教え、たくさんの人がそれを信じちまってる。だから仏法を守る神々はこの日本の国から離れていっちまって、入れ替わりで悪鬼や魔物がやって来て好き勝手やってる。




まず大事なのは、デタラメな教えに帰依するのをやめることだ。念仏をやめる。念仏の坊主だちにお布施としてゼニやら土地やらを差し出すのをやめる。それから、正しい仏法を信仰する。そうすれば、災害は止まる。




逆に、念仏をいつまでも信じ続けるようなら、大地震につづいて、二つの災いが起きる、とおやじは予言した。




ひとつは、「他国侵逼たこくしんぴつ難」といって、他の国から侵略される災い。もうひとつは、「自界叛逆じかいほんぎゃく難」といって、国の中で内乱が起こる災い。この二つの予言はおめえも知ってるように、後でどちらも的中しちまった。




念仏をやめろ、やめないと二つの災いが起きるぞ。そのことを書状にまとめて、当時の執権の北条時頼に提出したのが『立正安国論りっしょうあんこくろん』だ。




【住持の聖僧行って帰らず、守護の善神去って来ることなし。これひとえに法然の選択せんちゃくに依るなり。悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり。謗を好んで正を忘る。善神怒りをなさざらんや。円を捨てて偏を好む。悪鬼便りを得ざらんや。】




【薬師経の七難の内、五難たちまち起こり、二難なお残れり。いわゆる他国侵逼の難・自界叛逆の難なり。】




おやじは、正嘉の大地震のむごい光景を見て、この『立正安国論』を書くことを思い立った。だが、完成して時頼に提出したのは三年後、三十九歳の時だ。三年の間、おやじはあらためてあちこちの寺を巡って、寺が所蔵している経典や論釈を調べなおした。立正安国論を書くための準備としてね。




日蓮のおやじの一番弟子の日興が、おやじに出会ったのはこの時期だ。




駿河の国に実相寺という寺があってね。そこには、仏法の経典が全て揃っていたらしい。これは奈良や京都ならともかく関東の田舎では珍しいことなんだとよ。なんでもこの実相寺に昔いた末代上人という人が苦労してあちこち旅をして、各地に散らばっている経典を書き写してまわって、ひと通り揃えたということだ。




おやじは、そのたくさんの経典を読ませてもらうために実相寺を訪れた。その時に、実相寺の近所の四十九院という寺の小僧さんだった日興と出会った。日興はそのころ十三歳、おやじは三十七歳。




もともと法華経を学んでいた日興は、おやじの南無妙法蓮華経の教えを聞いて感激して、四十九院を出ておやじの弟子になろうとした。だがおやじは、四十九院を出ることは許さなかった。まだ歳も十三だし、当分は今の場所で修行していろ、とそういうこった。




北条時頼が、『立正安国論』を読んで、どう思ったかはわからねえ。ただ、時頼から何も言って来なかったことは確かだ。つれないねえ。時頼といえば、代々の執権の中ではわりとマシな、賢い男だったっていうから、話が通じなかったってこともねえんだろうよ。だが、鎌倉のど真ん中にあんなうすらでかい阿弥陀如来の像まで建てておいて、念仏を一切やめろっていうのは、さすがの時頼も、思い切れなかったんだろう。




時頼が返事をよこしてこない代わりに、押し寄せたのは大勢のゴロツキどもだった。松葉ヶ谷の草庵にいたおやじの命を奪いに来たんだよ。

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