2.立宗

鎌倉の大仏が誰なのかすら知らないおめえさんだって、法華経、っていうお経があることぐらいは聞いたことあるだろう。


お釈迦さんが説いた教えってのは、経典にまとめられて、六万宝蔵とか言われるくらいたくさんのお経があるんだが、その中で一等すごくて、すべてのお経の大王なのが、この法華経よ。


聖徳太子だってこの法華経をとりわけ大事にして、法華経について説法をしたし、『法華義疏ほっけぎしょ』ていう論文までこしらえたほどだ。比叡山の延暦寺だって、元はといえば伝教大師が、この法華経を広めるために作ったんだからな。今じゃ、悪僧たちが火付けとケンカの稽古をする道場になってるけれど。


その法華経の中に、『衣裏珠えりじゅたとえ』っていう話が出て来る。お釈迦さんから法華経の教えを聞いた弟子たちが、法華経の素晴らしさを譬えて語ったお話だ。


それってのは、あるとき、ある人が親友の家の前に来て、酔っぱらってへべれけになって倒れてグウグウ寝ていた。親友はその人に気づいたが、すぐに出かける用事があったんで、寝ているその人の面倒を見てるひまがない。だから代わりに、たいそう値打ちのある素晴らしい宝のたまを、その人が着ている服の裏にしっかり縫い付けておいたんだ。


その珠はすごい。その珠に向かって願いごとをすれば、何でもかなえてくれて、幸せに暮らせるっていうお宝なんだ。しかし、目を覚ましたその人は宝の珠に気が付かない。自分の衣の裏にしっかり縫い付けてあるんだが、わからない。それで、気づかないままそれからもずっと貧しい暮らしをした。


しばらくたって、親友が再びその人に会った。相変わらず貧しい身なりをしている。親友は、おめえ、宝の珠に気づいてないのか、何で珠を使わないんだ、とその人に言う。そこで初めてその人は、自分が宝の珠を持っていることに気づいて、まあその後は、望む通りの何不自由ない暮らしができたってことだ。


法華経が教えているのは、そういうこった。


この宝の珠が何を表しているかってえと、これは「仏性ぶっしょう」っつって、おれたち全員にもれなくそなわっている、自分の願ったことをかなえていくすげえ力のことを指している。どんな不幸も投げ飛ばすえれえ強い力でもある。これを「宝の珠」だと言ってるんだ。


この「仏性」の力をいつでも自由に引き出せるようになったら、その人は仏だ。もうこわいもんはねえ。だが、自分に「仏性」がそなわっていることに気づきさえしないで、それか、気づいたとしてもその力をなかなか発揮できないで、毎日悩み苦しんでいるのが、おれたち迷える衆生なんだってことよ。


この法華経の教えは、むかーしからあった。中国では六百年ばかし前に天台大師が説いたし、日本でも、さっき言ったように比叡山で、四百年も昔からずっと教えてる。


一切衆生いっさいしゅじょう悉有仏性しつうぶっしょう」、誰にでも仏性があるんだ!てな。


ところが、そんなこと言われたって、おれたち凡夫には、その仏性の力をどうやったら発揮できるのか、そいつがわからねえ。天台大師や伝教大師なんかは、観心、とかいって、うんと修行を積んで、てめえの心の中をこう、ぐーーーっと見つめて見つめ抜いていけば、仏性に目覚める、なんてことを言うんだが、おれたちにとっちゃ、どうにも気の遠くなるような話だ。寺の坊さんたちにはそんなヒマもあるだろうが、おれたちは毎日畑を耕さないといけねえもの。


そこで日蓮のおやじは考えた。おれみたいな馬鹿でも、おめえみたいに仏さまを敬いますとか言いながら大仏が何かすらわかってねえようなめでてえやつでも、畑いじりやガキどもの世話で忙しい人たちでも、仏性の力を発揮できるようになる方法をだ。


それが、南無妙法蓮華経ってわけよ。


南無妙法蓮華経と唱えれば、衣の裏の宝の珠が光り輝くように、おれたちの中にある仏性の力が呼び起こされる。難しい観心の修行をしなくても、おれたちの中から、お釈迦さんと同じ仏の智慧が湧いてくる。おやじはそう教えてくれた。


この南無妙法蓮華経を、おやじは最初、清澄寺の坊さんの一人として、清澄寺の中で説き始めた。三十二歳のころだ。


それだけだったらけっこうな話さ。法華経を信仰するのは大昔からたいへんよいことだとされているし、南無妙法蓮華経って唱えるだけで仏性が現れ出て来るってのも、わかりやすくって素晴らしい。新しい信心のあり方のひとつとして広めていくのに、ひどく反対する人はいねえ。


ところが、おやじはもちろん例のアレをやるんだ。


「南無阿弥陀仏の念仏を唱える奴は無間むけん地獄に堕ちる!」


てね。それを聞いて清澄寺の坊さんたちは青くなった。


そりゃそうだろう。こんな物騒な話はねえもの。念仏の悪口なんか言って、ただですむわけがねえ。


幕府からして、鎌倉にでっかい阿弥陀如来の像を建ててしまうくらい、念仏に熱心な人が多い。特に北条重時は熱狂的に念仏にのめりこんでた。重時といえば、あの二代執権義時の子で、五代執権時頼の補佐役をつとめ、自分の息子の長時を六代執権にした男だ。念仏の味方にはそんなどえらい人がいるくらいだ、批判なんて普通はとてもできねえ。


それから、もっと近いところで、おやじの生家や清澄寺があった安房国長狭郡ながさごおり東条郷とうじょうごうを支配下に収めている、地頭の東条景信。


こいつは自分たちの縄張りの安泰をはかるため、そしてスキあらばもっとたくさんの土地を手に入れるため、一生懸命北条家に尻尾を振っていた。それで、念仏の信心に力を入れることで一層、北条家の連中とお近づきになろうとしたんだ。そのぐらいは、武家ならばみんなやってることだけど。


景信は清澄寺に圧力をかけて、清澄寺の念仏化を進めた。阿弥陀の仏像を作らせたり、坊さんたちに念仏を学ばせて、付近の人たちに弘めさせたりな。おやじでさえ、清澄寺に入ったばかりの頃は念仏を唱えさせられたそうだ。


景信のそんなやり方に意見しようものなら、景信は大声でわめき散らして脅かした。それだけならまだいい、裏から土地のゴロツキに手を回して、夜道で襲って痛めつけたりってことまでしていた。日蓮のおやじも襲撃されたことがあるが、それはまたあとで話すよ。


そんなだから、清澄寺の坊さんたちにとっちゃ、念仏の批判を始めた日蓮のおやじというのは、ひどく都合が悪い。幕府と景信がこわい。みんなこぞって、師匠にあたる道善さんまで一緒になって、日蓮のおやじに、念仏の悪口を言うのはやめろと説得したり脅したりした。もちろんやめない。


おやじは、景信と直接対面して話すことを何度も申し入れた。しかし景信は、ウラでは嫌がらせをしてくるくせに、おやじと会おうとはしない。おやじが怖かったのさ。おやじと直接対決してコテンパンに言い負かされたりしたら、地頭としての面目が丸つぶれになっちまうもの。そのへんの損得勘定はさすがにしっかりできていたよ。京都奈良鎌倉でとことん仏法を学んだ人に、田舎の地頭ごときが法論で勝てるわきゃない。


おやじとしては、清澄寺から念仏の教えを締め出して、世話になった清澄寺に、正しく法華経の道場になって欲しいという願いがあった。もともとが天台宗の寺だしよ。しかし清澄寺の方では、いつどんな形でおやじを追放するか毎日話し合うようになっていった。子供のころから世話になってる道善さんに至っては、おやじのことを勘当して、師弟の縁を切っちまった。おやじの方では、ずっと道善さんのことを師匠として敬っていたけどね。


まあ清澄寺はそんなザマだし、もともと、南無妙法蓮華経を弘めるなら都である鎌倉に出なきゃいけねえって考えもあったんで、おやじは故郷の安房を離れて鎌倉に移り住むことになった。清澄寺で初めて南無妙法蓮華経と唱えて一年も経たねえころのことだ。

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