第5話

 夏休みが終わり学校が始まっても、私とさちこが会話をすることはなかった。時々廊下ですれ違って、一瞬だけ顔を合わせるのだが、私も彼女も下を向いて、一向に口を開こうとせず、そのまま通り過ぎてしまうのだった。


 あの日から私は図書室へ行かなくなった。三年生が引退して、部活が忙しくなったのも理由のひとつなのだが、専ら私は、その頃漫画雑誌にはまっていて、クラスメイトの何人かの男子たちと放課後教室に溜まっては、当時流行っていたバトル漫画の談議に花を咲かせていたのだった。


 ある日の放課後、私はホームルームが終わっても体育館へ行かず、いつものように教室でクラスメイトと駄弁っていた時のことである。その日は、九月にしては暑すぎる雲一つないよく晴れた風の少ない日だった。教室には私の席を中心に三人の生徒が漫画雑誌を眺めていた。テスト二週間前ということもあり、放課後の教室には私たちと、掃除当番で床を掃いている男しかいなかった。クラスメイトの一人が


「なぁ」


と言って私の肩をつついてきた。


「この萌木晴美ってキャラクター、あいつに似てねぇか?」


「あいつ?あいつって誰だよ」


漫画雑誌のカラーページに描かれたひとりのキャラクターを指さす彼に、私はそう尋ねた。


「ほらあいつだよ、あいつ、名前何だったっけなぁ」



「三組にこんな可愛いやついたかぁ?」


私は首を傾げ、敵と交戦してポーズをとっている、端麗に描かれたそのキャラクターを眺めた。


「ほら、三組にいるじゃねぇか、背が低くて髪のなげぇやつ」


「こんな可愛い女子、俺は知らねぇぞ」


私は机の上で胡坐をかきながら、紙うちわで首筋をパタパタと仰いでいる男を横目に、三組の知り合いを何人か頭に浮かべて、首を横に振った。


「思い出した、楠原さち子だ」


横から割り込んできた別の男が、声を張り上げてそう言った。


「ああ、そいつだそいつ」


男は疑問が晴れてすっきりとした表情を浮かべ、笑いながら私に顔を向けた。

「さち子……」


 私は背後から強く胸をつかまれたような、言い知れぬ強迫感みたいなものに襲われて、一瞬目の前が暗くなった。なぜそうなったのか自分でもわからなかったが、私は学校が始まってから、彼女と偶然廊下で出会ったり、他の者からさち子という言葉がでる度に、体のどこからかが熱くなって、眩暈のような感覚に襲われるのだった。私は頭を下にさげ何度か深呼吸をすると、机上のペットボトルを一気に飲み干した。


「おぉ、すげぇ勢いだな」


隣では男が感心したかのように私を覗いていた。


「このキャラクターが三組の楠原に似てるってぇ?あいつ、こんなに可愛かったかぁ?」


 私はおどけたような口調でページを指さしながら言った。描かれていたキャラクターは童顔で目が大きく、肩まで伸びた黒髪が、紺のセーラー服に映えていた。たしかに、髪の長いところと、少し顔が幼いところは似ているのかもしれないが、だれからも愛されるヒロインとして描かれた萌木晴美と、学校では目立たず暗い印象のさち子のそれとは、まるっきり異なっていた。


「どこも似てねぇな」


私は雑誌を眺めながら言った。


「確かに、あいつは髪も黒いし身長も低い。だけど、あいつはこんなキャラじゃない。いつも机の上で本を読んでる正真正銘の根暗だ。それにあいつはこのキャラクター見たく、喜怒哀楽を顔に出せるような奴でもないだろう」


私はいつもの調子でそう言ったが、頭の中ではあの雨の降る帰り道の、彼女が私の胸の中で凭れていた短いようで長かった時を思い出して、私は唇を噛みしめ下を向いた。隣に座っていた男が不思議そうに私を見やって、その目線をまた雑誌の一コマに注がせた。


「ちげぇよ。俺が似てるって言ったのはここだよ、ここ」


男はキャラクターの一点を指さして、嬉しそうに言った。



「胸だよ、胸。おっぱい。ほら、あいつって胸デカいじゃん?」



男はそう言って空中で手をまさぐりながら、口を開けて笑った。


「そうなのかぁ?」


「ああ、本当だぜぇ。俺は確かにこの目で見たんだ。あれは夏休み前の国語の授業中、俺は腹が痛くなってトイレへ行ったんだ。二週間くらい前からなんだか腹の調子がおかしくて、トイレに行ってみたら案の定下痢だったよ。出しても出しても止まらない酷いやつだ。俺のワイシャツは汗でグショグショになったよ。それから何とか痛みと格闘して、やっと落ち着いたときに、俺は風に当たろうと思ってガラス窓を少しだけ開けたんだ。個室の窓は防犯上、半分も開かないようになっていたから、俺は狭い隙間から顔を出して、何とか風に当たろうと思ったんだ。そしたらちょうど体育館裏のプールが見えて、授業を受けている三組の生徒の姿が見えたんだよ」


「おい、それ本当かよ」


いつのまにか私の隣に座っていた掃除当番の男が、興奮気味にそう言った。


「トイレって、三階のトイレだよなぁ。あの、突き当りの角にある。どうやって見るんだよ」


「あとで教えてやるから、とにかく俺の話を最後まで聞けって」

  

 学校のプールは体育館の裏にあるため、私たちのいる三階の廊下窓から眺めると、体育館の大きな屋根が遮って、プールを見ることができなくなっているのだが、階段横にあるトイレの、一番奥の個室の窓から、僅かに生徒が泳いでいるところを確認できるのだと、男は語っていた。


「俺たち一組と隣の二組はいつも合同で授業をすることになっているから、三組の奴らとは一度も同じ授業を受けたことがないだろう?だから俺は、テニス部の飯島美南の水着を見てやろうと思ってしばらく隙間から様子を眺めていたんだよ。そしたら背は低いのにやたら身体に起伏のあるやつが出てきたもんだから、誰だと思って顔を覗いたんだ。そしたら、あの根暗な楠原さち子だったんだよ」


男は言い終わると、笑みを浮かべながら私たちの顔をうかがった。鼻の下を伸ばして口元を緩ませている者も、教室の床の一点をただぼんやりと眺めている者もいた。



「それで、その……どんな身体だったんだよ」



話を始めてからずっと無言だった男の一人が、神妙な顔つきで言った。


「ああ、上半身は学年の中でもトップに入る大きさだったな。スクール水着でもよくわかるその膨らみに、プールの水が滴り落ちてくるところはもう最高だったね。そして、何といってもあの腰から尻にかけての柔らかな曲線は、雑誌に載ってるアイドルと何ら遜色ない、見事なもんだったよ。あの後三組の知り合いに聞いたら、どうやら男子の間では結構有名らしくて、それが目当てで、あいつに告白するやつも出てきているらしいぞぉ」


得意そうにそう話す男の口調からは、絶えず吐息みたいなものが漏れていた。私は黒板横に飾られた時計を見やるふりをして、男の言っていたさち子の姿と、あの雨の日に見た彼女の姿を照合してみた。あの腰から尻にかけての曲線は見事なもんだったよ。果たして、彼女はどんな身体つきをしているのだろうか……私は、プールの水面に反射して光っているさち子の、紺色の水着が大きく揺れている姿が頭に浮かんできて、動揺を隠そうと


「ただ太ってるだけだろ」


と言った。


「はぁ?お前はなにもわかってねぇな。あいつは太ってるんじゃなくて、生まれつき肉付きが良いだけなんだよ。あの餅みたいに白い身体の要所に、ちゃあんと肉がのっていて、それ以外のところは締まってる。確かに顔は下の中ってとこだけど、背も低いし何だか小動物みたいで可愛いいと思わないか?まぁもっとも、お前みたいな面食いには、あいつの良さはわからねぇだろうな」



「あぁ、俺は面食いさ。だからこんなやつのどこが良いのか、一生経ってもわからねぇよ」


私は苦笑しながらそう言ったが、身体の内部が燃え盛るように熱くなっているのを感じ、慌ててポケットに手を突っ込んだ。


 実際、さち子はスタイルが良かった。いつも猫背で顔を覆うように伸びきった髪が、彼女の身体を隠していたためあまり気が付かなったのだが、あの雨の日、ワイシャツの下から覗かせた、薄桃色の斑点みたいなものが、雨に濡れて透けていたことを思い出し、私は彼女の見てはいけない秘密を知ってしまった気がして高揚した。見てはいけないもの、白塗りの老婆、世捨て人……


私はなぜかその時、不思議な快感みたいなものを覚え、全身からが恍惚としたものが湧き出てくるかのような気分になっていた。


 その未知なる快感は、授業を受けている時や、部活に精を出しているほんの一瞬に現れては、私の身体の一点を狂えるほど熱くさせた。私は彼女のシャツの裏側にある、秘められた柔和な物体を確かめてみたくなっていたのだ。 



 衝動を抑えきれなくなった私は、意を決して彼女に頼んでみようと思った。部活が始まる数分前に、何とか体育館を抜け出した私は、図書室へ入ると窓側の席へと進んだ。


「今日、一緒に帰らない」


廊下を走ってきたので私の息は荒く、膝に手をついて目線を下に落としていたので、彼女の顔はよくわからなかった。けれどページをめくる音はぴたりと止み、若干の沈黙が流れた。


「いいよ」


彼女は小さくそう呟いた。目線は手元の本に注がれて動かなかった。


「練習が六時に終わるから、裏門から少し歩いたところにあるコンビニの前で待っていてほしい」


私が言葉を言い切ろうとした時に、彼女は顔を上げ不思議そうに私を見つめた。


「練習が長引くかもしれないけど、できるだけ早く向かうから」


「うん」


 彼女はいつものように軽い返事をして、また視線を手元の本に戻した。私は彼女に見つめられたその一瞬、頭に血が上っていくような体の熱さに陥り、手は発汗して震えていた。図書館を後にして廊下を歩いている時も、その暑さと倦怠感は続いた。


 彼女は本当にコンビニに来てくれるだろうか。先ほどの私の誘いに、彼女は快く返事をしてくれたものの、彼女の態度はどこかよそよそしく、あの日のように笑顔を見せることもなかったため、私は彼女との関係が、夏休み前の他人と同然な間柄にまで戻ってしまったのではないかと不安になった。私の胸の中でいつまでも、悲しい瞳をしている彼女の、あの心地よい肌の温もり早く感じたかった。


 その日は平日なのに、久しぶりに顧問が練習に現れた。いつもなら授業準備や会議などで、平日にはめったに顔を出さないのだが、どうやら私たちが怠けていることが、女子部員の口から伝わったようで、顧問は鬼のような形相で体育館へ入ってきた。いつものパイプ椅子に座った顧問は、案の定時間通りに練習に来ない私や他の部員を叱りつけ、それでも機嫌が収まらない顧問は無言で私を睨んだ。私は良からぬことが起きるだろうと、その不穏な空気を察して小さくため息をついたが、それが顧問の引き金だったらしく、かごに積まれたボールが私の顔に飛んできた。


「こんなボールも取れへんのかぁ」


顧問は体育館床に這いつくばる私を見下ろすようにして怒鳴ると、またボールを宙に放った。


私はあちこちに放たれるボールに何度も飛びつくのだが、私の手があと数センチでボールに届くというところで床に落ちてしまい、その度に顧問は、酒で焼けた喉をゴロゴロと鳴らして、私に怒号を浴びせるのだった。


「取れぇ。死んでもボールを落とすなぁ」




 予期せね顧問の到来で、私が校門を出た時には、時計は六時十分を指していた。学校からコンビニまではそう遠くはないのだが、学校帰りの生徒に合ってしまうと、良からぬ噂が立ってしまうと思った私は、時間が過ぎているにもかかわらず、遠回りをしてコンビニに向かおうと思った。走りながら私は、彼女の顔を思い浮かべた。図書室で冷たい顔のまま本に目を落としている彼女の表情と、雨の日に見せた、濡れて光っている憂いた彼女の表情……

もう待ち合わせの時間からかなり時間が経っている。もしかすると、彼女は先に帰っているのかもしれない。そんな不安が私の頭によぎったが、それならまた別の機会に誘えばいいだろうと割り切って、私は足早にコンビニへ向かった。


 彼女はコンビニの前で本を読んでいた。先ほどまで図書室でも読んでいた、分厚い単行本の長編小説を手に取って、蛍光看板の下でひっそりと立っていた。


「ごめん、練習が長引いた」


彼女はその声で顔を上にあげると、無言で私に近づいて


「帰る?」


と聞いた。

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さちこ なしごれん @Nashigoren66

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