第4話

伊勢佐木町大通りを渡り福富町へ入ると、これまでせわしなく動いていた人影が消えた。


平日の昼間というのにその一帯は、何か黒いもので覆われているかのような陰気な雰囲気が、暗がりの通りに眩く光る、赤や黄色の電飾ネオンをより際立たせていた。


「ここはあまり好かんなぁ」


私は、なぜか頭に浮かんだその言葉を呟いていた。


「どうして?」


彼女が聞いた。


「横浜の中心からそう離れていないのに、店構えや看板が何となく古くさい。さっき通った伊勢佐木モールと比べればよくわかるだろぉ?天気のせいかもしれないけど、何だか生気を失った昭和の町みたいだ」


通りはアーケード状になっており、中華系の雑貨や食品を扱う店が多く連なっていた。福富町は近年アジア系の住民が増えつつあり、それまでの風俗店が一斉に検挙された時から、空のテナントのあちこちに店を出すようになっていった。一階に店を構えた雑居ビルには、大小様々な看板が七色の光色を帯びて、通るものに愉悦と甘美を与えていた。


 私はこの福富町という町がとりわけ好きではなかった。小学校に上がったばかりの頃、親と伊勢佐木モールにある書店へ出かけたことがあり、その日は母が買い物に行くからと、途中で分かれ、私は書店の絵本コーナーでひとり時間をつぶしていた。


 初めて訪れたその場所は、見渡す限り本棚がフロアを埋め尽くし、色鮮やかな表紙が、まだ幼い私の好奇心をくすぐった。三階建てのそれは、駅前のショッピングモールのテナントとはまるで違う、大型の書店だったため、私はフロアは埋め尽くすように陳列された数多くの本や、創業当時から改装されていない、モダンチックな内装の雰囲気にとても興奮した。二、三冊ほど読み終えて、次の絵本を探していると、私のお腹が急に痛み出した。それは私が書店に行った際には、必ずと言っていいほど現れるもので、普段なら多少踏ん張っても捻りだすことができないそれを、なぜだが書店では容易にできるような気がするのだった。しかし、当時の私にはそんなことを考える余裕もなく、無我夢中でフロアを駆け巡り、エレベーターや階段を何回も利用して、やっとのことでトイレの場所を見つけ、用を足すことができた。


 自動の洗面器で手を洗い、ハンドドライヤーで乾かすと、私は自分が今どこにいるのかわからなくなっていた。薄暗いフロアの周りには、見たことのないような言葉で書かれた分厚い本が並ばれ、通り行く人の風貌もどこか暗く、絵本コーナーしか見たことのなかった私には、そのフロアが何故だか哀しく、恐ろしいもののように思えた。自分よりはるかに背丈の大きい人間が、見しらぬ言語で書かれた分厚い本を静かに読んでいる……私はなぜか怖くなって、必死に元の場所に戻ろうと走った。上へ来たのだから、とにかく下へ行こうと私はエレベーターのありそうな、フロアの端へと進んだ。休みなく動いていると、本棚に並ばれた色とりどりの本たちが、フロアを移動する私を睨んでいるような気がしてきて、私は真っ白なタイルに、電気灯で映し出されたおぼろげな自分の影と、静かなフロアにこだまする小さな足音に意識を集中させ、奥へ奥へと進んだ。


 エレベーターの周りには数人の客がいて、白い支柱に凭れたり、今買ったばかりの本を手に取る人もいた。エレベーターを待っている間、私はガラス窓に映った伊勢佐木町の薄暗い町並みを眺めた。休日の大通りは人であふれ、買い物を楽しむ人々の様子がこの三階からも眺めることができるのだが、空は明かりが消え暗くなり、遠くに見える残照が、私をなぜか切なくさせた。ひと数の減った伊勢佐木モールに子供を連れた家族が、手をつなぎながら家路につく姿も見えた。


 私が目を凝らし外の様子を眺めていると、通りから少し外れた雑居ビルの陰から、白い老婆が歩いてくるのが見えた。危なげな足取りで通りに現れた老婆は、白装束を身にまとい、皺だらけの顔は白粉で覆われていた。私はその姿に驚いて、食い入るように目で追っていると、背後から男の声がした。


「また世捨て人が来てやがる」


私は驚いて男のほうへ振り返ってが、男はそれだけ呟いて、フロアの奥のほうへ行ってしまった。私はもう一度ガラス窓に顔を向けた。白塗りの老婆はどこへ行くともせず、ビルの段差のところに腰を下ろして、宙を仰いでいた。私は男の言った「世捨て人」という言葉がなんとなく引っかかった。言葉の意味は良くわからなかったが、男の力強くも弱くもない口調と、去っていく男の憂愁を放ったうしろ姿は、幼い私でも、それが良い意味ではないということを自覚させた。


 空は大部分を藍色が覆うようになり、通り端に置かれた街灯にも明かりがともり始めた。座り続ける老婆の周りは、帰路に就く通行人と、派手な衣装を着た仕事人がせわしなく動いていた。その不気味な姿は、暗くなり、その明るさがより際立つ看板の淫猥な電飾と、通りに増え始めたスーツ姿の男たちと同様に、私の目にいつまでも映り続けていた。見知らぬ書店のガラス窓から、人間とは思えない姿をした白塗りの老婆を眺めている……


 私は体内の水分が一気に湧き出るほどの寒気に襲われ、早くこの場所から去りたいと強く思った。まだ幼い私には、今見た光景が、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかという罪悪感だけを与え苦しめた。そうなると、さきほど男が呟いていた「世捨て人」という言葉が、時代の波に呑まれながらも必死に生きてきた、昭和の生き証人みたいなようにも思えて、頭の中で何度も流れては消えていった。


 エレベーターに乗り、心配そうな母の顔が私に近づいてきても、私の目には電飾ネオンに囲まれ、どこか一点を見続ける白塗りの老婆の疲れ切った風貌が頭にちらついて離れようとしなかった。私は母親に抱き着いた。何が恐ろしいのか、自分でもわからなかった。ただこぎざみに体を震えさせ、奥底から込み上げる悪寒に必死に耐えていた。


 中学校に入ってからは、私はこの町について知る機会も増え、あの時のように恐怖を感じることもなくなったのだが、疲れ切った白塗りの老婆の、どこか達観したように感じられる眼は、いまだ脳裏に住み着いて、まだ町のどこかにいるのではないかと、私に思わせるのだった。


「雨、やまないね」


隣の彼女がぽつりと呟いた。


「俺は雨が嫌いだ」


「どうして?」


彼女は不思議そうに私の顔を覗いた。傘に打ち付ける雫のひとつが、こまから露先に流れ出て、彼女の肩を濡らした。それはしばらく無言だった私たちの間に、ようやく話の花が咲いた合図とも呼べるものだった。


「雨の日はとにかく面倒だ。傘を持って行かなくちゃいけないし、靴は濡れるから予備の靴下を持っていかないといけない。歩くときは水たまりを踏まないように慎重に歩かないといけないし、風が吹くと傘をさしていても水が掛かってびしょ濡れになる」


「でも、悪いことばかりじゃないでしょ?いつもは混んでいる図書室も、雨の日は比較的人が少ないし、窓から見える景色も晴れの日よりもよっぽど神秘的に見える。毎日練習があるサッカー部なんか、雨のおかげで少しは休むことができたんじゃない」


「いいや、俺はそれでも雨が嫌いだ。雨の日のじめじめした湿気と生暖かい風は、何となく気分が上がらないし、雨の日特有の、あの土と葉っぱが合わさった独特の匂いは、けだるい体に追い討ちをかけるみたいに鼻をつついてくる」


「さっきから町が嫌いだ、雨が嫌いだってあなたは言うけど、それじゃあいったい何が好きなの?」


彼女は足を止めてそう言った。傘を持っているのは私なので、歩みを進める私の傘から離れた彼女は、まだ上がりそうにない夕立に打たれ、伸びきった黒髪が白く光っていた。


 いったいあなたは何が好きなの。それはあまりにもシンプルで、彼女の正直な心の内だった。思えば彼女と出会ってから、私は自分の事についてなにひとつ話していなかった。彼女が私について知っていることといえば、一年の時、同じ福祉委員だったことと、バレーボール部に所属しているということだけだった。だとすると、彼女が私に何が好きなのかと問うことは、少なからず私に興味があることを示しているのではないだろうか。


 だとすれば、私はいったい何をするのが好きなのだろうか。バレーボール部に入ったのは、根気強く私を誘ってきた友人の口車に乗せられただけで、特別好きではなかったし、流行りのドラマやアニメなんか、私にはまったく興味がなかった。いつも部活が休みの日は、家でゴロゴロと時間を潰し、適当に家の周りをランニングする以外、他にすることがなかった。私の好きなこととは何だろう。いつまでも雨に打たれながら私を眺める彼女の目は、濡れぼそった前髪に隠れて見えなかった。


「俺は読書が好きだ」


私はアーケードから垂れる雫の行方を目で追いながら呟いた。


「どんな本が好きなの?」


私から二メートルほど離れた彼女は、いまだ傘の中に入ろうとせずに、降り続ける雨を全身で受けていた。水を含んで細くなった黒髪の、先から雫がぽたぽたと落ちた。


「俺は途方もない夢を追いかけるファンタジーが好きだ。そこでは、平凡で何もない世の中とは比べ物にならないくらい、魅力的で幻想的な世界が広がっているんだ。文字を読み進めるごとに俺の頭の中に独自の世界が形成されいって、読み終わる頃には言葉にできない達成感と幸福感が俺を満たしてくれるんだ」


「それから?」


彼女は私を見つめながら、ゆっくりと近づいてきた。

 

「俺はヒューマンドラマも好きだ。登場人物の様々な思いが錯綜して、そのひとつひとつが明かされる度に、自分の中で何か新しい発見があるような気がして楽しくなるんだ。それに、物語が進んでいくうちに登場人物の成長過程が見えて、終わる頃には懐かしさと寂しさが合いまった、忘れかけていた人々の温もりを俺に思い出させてくれるんだ」


「それから?」


「それから……文語的で滑かに話が進む純文学も、難解な問題に立ち向かうサスペンスも、先人たちの思想を探る時代小説も……」


彼女は足を止めずに私の傘に入ってきた。そのまま体を私のほうに摺り寄せて、肩に彼女の頭がつく寸前まで迫ってきた。



「予期しない出来事に心を躍らせる恋愛小説も、俺は好きだな」



 彼女は小さな頭を私の胸に凭せ、私の身体にあてがった。密着した彼女のほとばしる熱気と、私の心臓の鼓動が、傘に打ち付ける雨音を消し去るように高鳴って、私と彼女との間に新たな退廃的な世界を作り出していた。彼女は黙ったまま、しばらく私の胸の中でじっとしていたが、やがて小さく



「……して」



と呟いた。


「今、何て言ったの?」


 私は濡れて縮れた彼女の髪に向かって囁いた。彼女の発した言葉はあまりにも小さく私の耳に届かなかった。学校を出た時よりも雨の勢いは増していき、私たちの頭上に激しく音を立てた。


 彼女はそれきり黙っていた。雨に濡れ冷えた体を温めるかのように、私の胸の中でうずくまって離れようとしなかった。身体は僅かに震え、彼女の長い黒髪から覗かせた、白い首筋から汗なのか雨なのかわからない雫が伝っていった。灰色に染まった福富町の喧噪だけがいつまでも私たちの間に流れていた。


 隣をダンプカーが走り去っていった。道路溝に溜まった雨水をはじき出して去っていった。黒い液体が私と彼女の足に流れ出て靴の中を濡らした。

さちこは顔を上げると、濡れた革靴を一瞥し、何事もなかったかのように私から体を離すと、前を向いて歩きだした。彼女がいきなり歩き出したので、私は慌てて彼女に歩調を合わせて、また福富町のネオン通りをトボトボと歩きだした。



 「……して」彼女が胸の中で呟いたのその言葉は、私を歓喜にも悲嘆にもさせた。鼻に何かを詰まらせているような彼女のうわずったかすれ声は、決して広くない傘の下で官能的な広がりを見せ、感じたこともない胸の喧騒になって私に訪れた。そうなると、男の言っていた「世捨て人」という言葉が、薄暮の下にたたずむ白塗りの老婆と、さちこの、以外にも肉質のある膨らみに潜んだ、ある種の色気のようにも思えて、私は未だ鼓膜の奥で鳴り続ける心音と、溢れんばかりに体内を移動する血潮の震えを静かに感じていた。暗くなり、だんだんと通りに外国人が現れて、昼間とは別世界に移り変わっていく福富町の異色な光景も、雨に濡れてより輝きを増す赤の電飾看板も、私にはまるで目に入らなかった。



 福富町の通りを抜け、大通りに架かった橋を渡ったところで、彼女は足を止めた。


「ここの三階が私の家」


大通りから逸れた小道の、赤ちょうちんが目立つ居酒屋の隣に彼女の家はあった。お世辞にもきれいとは言えない、灰色の外壁をした四階建ての小さなマンションだった。


「送ってくれてありがとね」


彼女は私の顔を見ずにそう呟くと、静かに傘から出て行った。



「待てよ」


「お前、前髪を上げた方が……その……似合ってるよ」



 彼女はエントランスに向かう足を止め、ゆっくりと私のほうへ振り返った。

顔を向けた彼女の虚ろな表情に、黒く大きな瞳が、かすかに水に濡れて輝いていた。

その彼女の表情を見て、私は今日の出来事を、誰にも話してはいけないなと思った。と同時に、私は今後、彼女と一緒に帰ることはないだろうとも思った。

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