第3話

中学ニ年の夏に、私とさちこは出会った。

私たちの中学校は、横浜の中心にある公立中学校で、商業ビルやマンションが多く立ち並ぶ繁華街の一画にひっそりと位置していた。小さな学校だったので、ひと学年に百名程度しか生徒はおらず、そのほとんどが、小学校から上がってきた顔見知りだった。そのため、入学して一ヶ月も経つと、私はほとんどの生徒の顔と名前がわかるようになっていた。

さちこは、私とAとは別の隣町の小学校に通っていて、クラスも別だった。背は低く、無口で暗い生徒だったため、クラスでは少し浮いた存在だったと、ある時部員の一人が言っていた。彼女の特徴とも言える、黒い長髪は、顔の大部分を隠すように垂れていて、鼻先まで伸びたその髪は、一瞬おばけのような印象を与えた。私は一年の二学期に、委員会の集まりで、一度だけ彼女と話したことがあったのだが、声は小さく、髪のせいで顔もよくわからなかったため、その時は、不思議な生徒もいるんだなぁといった感覚で、彼女に対して、あまり良い印象を持っていなかった。


それから一年が過ぎた二年の夏休み。私は練習が午前中で終わり、借りていた『斜陽』を返そうと、体育館の階段を降って、図書室へと向かっていた。

中学に入ってから、私は本を読むことが好きになっていた。初めは、授業が始まる前の数分の読書時間中に、私が居眠りをするからと、先生が本をくれたのがきっかけだった。「朝練で疲れているのはわかるけど、今は読書の時間だから我慢してね」まだ教員にになって二年目の、若い女の先生だった。

私は渋々先生に進められた夏目漱石の『ぼっちゃん』を開き、何とか眠らないように目を開けて、それを眺めていたのだが、次第にどんな内容か気になってきて、少しだけ読んでみることにした。

『ぼっちゃん』は、私が思っていたほど難しい言葉はなく、むしろ小学生でも読めるんじゃないかと思うほど、簡単な文章で書かれていたため、私は難なく内容を理解することができた。

それからなんとなく読み進めていくうちに、だんだんと続きが気になり出して、初めは毎日の読書時間に読むつもりだった『ぼっちゃん』を、一週間で読み切ってしまったのだ。


少しの余韻に浸った後、物足りなさを感じた私は、次の日から図書室に行って、他の文学作品を手に取るようになった。私は授業の始まる小休憩と、昼休み。部活の始まる少しの時間を読書に費やし、それ以外の授業時間にも、机に本を開き、先生の目を盗んでは、こっそり読むようになっていた。

その日は七月の下旬で、夏休みが始まってからまだ一週間も経っていなかった。私は首から噴き出る汗を手で拭い、小走りで図書室への廊下を進んで扉を開いた。

図書室は学校の二階位置し、教室二つ分ほどの広さに受付けの台とパソコンが二台。窓側に数席と、中央に長机が二つ置かれた小さなものだった。

在校生が少ないのだから、図書室が狭いのは仕方がない。しかし、その図書室には、狭いながらもさまざまなコーナが置かれていて、季節によってその位置を変えたり、張り紙もひとつひとつが凝っていたりと工夫がされていて、私は小さいながらもその図書室が好きだった。私はいつも窓側にある、近代文学の本棚に近い席に座って、誰が生けているのかわからない、水色の花瓶とその花を眺めては、頭上から吹く冷風と、微かに匂う甘い香りを、ページを捲るごとに感じていた。

引き戸を開け中を見渡すと、人の気配はなかった。普段なら年配の司書が受付にいるはずなのだが、夏休みだから自然開放にしているのだろうと、私は受付台にあるバーコードリーダーで返却する本を読み取り、パソコンで手続きを済ませた。室内はよく冷房が効いていて、部活終わりの私の身体には寒いくらいだった。

今日は返却だけ済ませて帰ろうと思っていたのだが、クーラーの心地よさと、誰もいない図書室は、私には最高の居場所のように感じられて、何か本を読んで帰ろうと、私はいつもの席に向かった。

「あれ?」

なんと、そこには彼女が座っていたのだ。彼女は白いワイシャツの制服を着て、肩を覆うように伸びきった長髪を木製の机につけ、静かに本を読んでいたのだ。

私は彼女に声をかけようか迷っていた。同学年だし、一度は話したことのある相手だったので、そこまで改まる必要もないのだが、なぜだか声をかける気にはなれなかった。第一、彼女に話しかけたところで、何かあるわけでもなかったし、真剣に本を読んでいる彼女の邪魔になってしまうのではとも思った。けれど、私はいつもの席に座って、本を読みたいと言う思いもあった。

彼女は私の存在に気づいていないようで、目線は手元の小説に注いでいた。私が声をかけるべきかと後ろに立ちすくんで戸惑っていると、彼女が何かを思い出したかのように顔を上げ、私の方へ顔を向けた。


「……こんにちは」


彼女は軽く会釈して、小さくそう呟いた。


「それ、今度霧風リカが主演で、映画化されるやつだろ?面白い?」

私はなぜか緊張して、彼女の目をまともに見ることができず、伏し目がちに言った。


「……うん」

顔いっぱいに覆われた黒髪から少し覗かせた彼女の瞳が、私を見つめていた。


「面白いよなぁそれ。俺もこの前読んだんだよ、主人公が透明になれる能力を持っていて、幼なじみの男子とデートするって話だろ?」


「……うん」


「て言うか、恋愛小説を読むんだな。てっきりサスペンスとか、ホラー系が好きなんだと思ってたよ」


「……うん」


彼女はうんとしか答えなかったが、私が話している間、彼女はじっと私の瞳を見つめてきて、なぜか恥ずかしくなった。


「それにしても、この教室は涼しいなぁ。さっきまで体育館にいたから、突っ立ってるだけで汗が湧き出て大変だったんだよ。顧問の野郎、こんな真夏日に練習なんかさせやがってぇ……それに比べてこの部屋は天国だな。程よく冷房が効いていて、好きな本がたくさん置いてある。こんな幸せな場所は他にないね」


その時、彼女は下を向いて笑った。


「おい、何がおかしんだよ」

彼女は私の質問に答えず、下を向いて静かに笑っていた。おかしなことを言ったつもりはないのに、彼女がいきなり笑い出したので、私は一瞬戸惑って、ただ笑っている彼女を見つめていた。黒髪に覆われた顔の下にある、小さな口から真っ白な歯が見えた。そんな彼女を見ていると、次第に私にもそれが移って、私は声を出して笑った。


「ううん、なんでもない」


その時、左右に揺れた前髪が、クーラーの送風でふわりと上がり、彼女の素顔が現れた。

私は何か彼女の見ては行けない部分を目にしたような気がして、慌てて目を逸らしたが、前髪のない彼女の白く透き通った素肌に現れた大きな瞳と長いまつ毛は、私の頭の中に鮮明に刻み込まれて、離れようとしなかった。


次の日から、私は練習後の時間を、図書室で過ごすようになっていた。

図書室は毎日きまって彼女が窓側の席に座っていて、他には誰もいなかった。人がいないので、私は受付台を陣取り、乱暴にカバンを机に置くと、椅子に腰掛け脚を台に置き、持っていた宿題のプリントをパタパタと仰いだ。こんなこと、授業のある平日では絶対にできないだろう。普段なら何人かの図書委員や、本も読まずに席を陣取っておしゃべりを始める女子軍団。シャツを入れていないだけで注意してくる、口うるさい老年の司書が必ずと言っていいほど中にいるのだが、皆んな夏休みで学校に来ていなかった。そのため、いつもなら混んでいて、中々見ることのできないライトノベルのコーナーや、話題作が置かれている本棚などを私はゆっくり見て周ることができた。

私は夏休み中、図書室に行っては本を適当に読み漁り、宿題をしたり、昼食を食べたりして、下校までの時間を自由に過ごしていた。

彼女は私の行動など気にせず、いつもの席で静かに本を読んでいた。真っ白なワイシャツにリボンを付けて、時折巻き上がる前髪など気にせずに、視線はきまって手元の恋愛小説に注がれていた。時々そんな彼女が気になって、本を探すふりをして、彼女の様子を窺ったり、話しかけたりしてみるのだが、相変わらず無愛想な返事しか返ってこないので、同じ部屋にはいるものの、いつしか私は彼女をいない存在として扱い、ひとり図書室を楽しんでいた。



夏休みも中盤に差し掛かったある日のこと。

その日は午後から急に夕立が現れ、いつもより暗い校内に湿った空気と土の匂いが蔓延っていた。初めは小粒だったので一、二時間もしたら上がるだろうと思い、図書室の窓ガラスから外を眺めていたのだが、雲は徐々に厚さを増して大きくなり、窓に滴る水の粒も、ガラスを叩きつけるようになって、静かな図書室に大きく響いた。校庭で練習に励んでいたサッカー部も早々に退散し出し、私はこれ以上酷くなるのも嫌なので、すぐにでも家に帰るべきかと机に肘をついて考えていた。図書室の黒板には、来週からお盆で、学校も閉鎖されると言う文言がチョークで書かれていた。


「帰るかぁ」

いつもより大きく呟いた私は、机にある宿題のプリントを片付け、帰り支度を始めた。もう休みの間、図書室にくることはないだろう。私は何枚かのプリントに紛れていた部活の予定表を眺めそう思った。お盆が終わった後、毎年バレー部では、長野県で開かれる大会兼合宿に参加することが恒例になっていたのだ。顧問のツテで開かれるそれは、関東から強豪のチームが何校も集まって合同に練習するという、貴重な行事だった。私たちが一年生だった去年までは、スタメンと三年生だけが参加することになっていたのだが、今年は全員が強制的に参加することになっていたので、休むわけにはいかなかった。私は溜まったプリントを取り出すと、始業式までに読むつもりの、今日借りた三冊の本をタオルで丁寧に包み、カバンに入れた。入れる時、カバンの奥から水色の小さな折り畳み傘が、プリントに紛れて潜んでいた。生憎、私は傘を持ってきていなかったので幸運に恵まれた気持ちでそれを取り出した。


「待って」


いつ立ち上がったのか、彼女が私の後ろに立っていた。


「なんだよ」


「……私も帰る」


彼女は目を伏せながらそう言った。


「あぁ、そう」

私は適当に返事をして、また帰り支度に取り掛かった。この数週間、彼女が自分から私に話しかけてきたのは,これが初めてのことだった。


「………かさ」

また後ろから声がした。


「……ん?」


「………かさ………ないの」


彼女は悲しそうに呟いた。


「あぁ、傘ね」


私はカバンの奥から折り畳み傘を取り出すと、彼女の前に突き出した。


「これ、使っていいよ。俺はジャージだからいいけど,制服は濡れると大変だろ」


彼女は黙ったまま、それを受け取ろうとはしなかった。視線は床に落ちていて、いつまでも悲しい表情をしていた。いつもなら明るい日差しが差し込んでくる窓からは、黒い雨雲の僅かな光と、そこらか降り注ぐ激しい雨音しか聞こえなかった。

彼女が傘を受け取ろうとしないので、私は複雑な気持ちのまま、出した手を引っ込めると、そのまま図書室を後にした。


「待って」


彼女が私の後ろを追って、廊下へ出てきた。


「なんだよ」

私は苛立った感情が、言葉に出ていた。


「家まで……家まで送って欲しいの」


真っ黒な髪の隙間から、黒い瞳が私を覗いていた。



外の様子はガラス越しで見るよりも穏やかだった。雨のピークは過ぎたようで、校庭にできた水溜りに打ち付ける雫の量も減っていた。それでも傘を差していないと、家に着く頃にはずぶ濡れになっているだろうと、私は傘に彼女を入れながら校門まで歩いた。


「家、どっちの方だよ」

私は黙っている彼女にそう聞いた。


「あっち」


「あっちって……そんなんじゃわからんよ」


「福富町のほぉ」


福富町は、私の町とは反対の場所に位置していたため、私は行くのを躊躇ったが、家に帰ってもこれと言ってすることもなかったので、私は伊勢佐木町へ続く横断歩道を彼女と渡った。


「なんでいつも図書室にいるんだよ」


閑散とした伊勢佐木町通りを歩きながら、私は隣の彼女に尋ねた。


「……好きだから」


「好きって言っても、休みの日にまで来ることはないだろぉ。毎日毎日おんなじ場所でおんなじような本読んで……お前、本を読む以外に他にやることないのかぁ?」


「じゃなんでいつも来るの?」

今度は彼女が私に聞いてきた。


「……暇だから」


「なにそれ、つまんない答え」


「はぁ?ちゃんとした理由だろ」


「じゃあ私も。暇だから」


彼女は私を見つめ、静かに笑った。背が低いので、上を見上げるようにして私の顔を覗いていた。雨で薄ら濡れた前髪の奥に、細くなった瞳が見えた。私はその彼女の笑い姿を、今初めて見たような気がした。

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