第2話
「すみません、俺、委員会の途中なんで」
私は内心呆れながらも、薄ら笑いを浮かべることしか出来なかった。新城先輩は両親が経営しているファッションヘルスの二階に住んでいて、夜な夜な取り巻きたちと公園で悪事を働いていると言う噂が、私の耳にも入ってきていたのだった。私は早くこの場から立ち去りたかったので、適当に返事をして、逃げるように廊下を歩いた。もちろん、先輩が手を出してきそうで、怖かったのもあるが、真っ黒な学ランを着て、必死になって窓に顔を埋めている男たちの後ろ姿が、私にはどこか哀れで、見窄らしいものに見えて、仕方かなかったのである。
廊下の突き当たりにあるトイレに着いた私は、袋の石鹸を、新しいものに取り替えていると、
「わたし、ああいうの嫌い」
と、彼女が言った。
私はその口調に驚いて、彼女の顔を覗いたが、そこには黙々と袋から石鹸を取り出す、いつもの彼女の顔があるだけだった。
私は黙ったまま作業に戻った。たった今彼女の言った言葉が、何故だか頭の中に何度も流れては、私を不思議な気持ちにさせた。クラスでは明るくも暗くもない性格で、昼食後はいつも友人ふたりと静かに話している乃衣花の口から、強諌(きょうかん)のようなものが出るとは思えなかった。それも、先ほどの彼女の口調は、上部だけの空返事みたいなものではなく、なにか怨みや憎しみなどを含んだ、最大の憎悪のように私には感じられたのだ。
私はもう一度彼女の顔を覗いた。彼女はやはり黙ったまま、目線を下に落とし、手についた石鹸の泡を落としていた。
その時、トイレの窓ガラスに差し込んだ日差しが、彼女の目元辺りを照らして、不気味な艶っぽさを現していた。その妙に光った彼女の眼孔は、丸くなった石鹸の一点に注がれて、いつまでも私の頭から、離れようとしなかった。
その後二年間は、特にこれといった思い出はなかったのだが、私は未だ彼女を見ると、あの時の、いやに大人びた彼女の顔が甦ってきて一瞬戸惑うのだった。
彼女の隣には、マスクをした少女がいた。
「あれ、そっちの子は?」
「この子は私の高校の友達。同い年だよ」
乃衣花は明るくそう言うと、横にいる彼女に、何かヒソヒソと話して、また私を見つめた。
「えーと……乃衣花と同じ中学だった白石水木です」
私は彼女の赤い目元を眺めながらそう言った。背は乃衣花より少し低く、髪は二つに結えられ、原宿のロリータファッションを彷彿させる、鮮やかなピンクの服を着ていた。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて
「………………きみこ」
と言った。
「え?」
「………………きみこです」
彼女は人間が聞き取れるスレスレの声で私にそう言うと、乃衣花の後ろに隠れてしまった。
「ごめんねぇ。きみこ、あんまり人馴れしてないから」
乃衣花は笑いながらそう言うと、友達との待ち合わせがあるからと言って、私に手を振った。
「確か、七時に公園で集まろうってことになってたよね。だからその時にまた話そ」
乃衣花はきみこの腕を自分のに絡ませると、楽しそうに人混みの中へ消えていった。私は、彼女の後ろで束ねられた髪が、左右に大きく揺れるのをしばらく見つめ、Aからのお遣いを思い出した。
七時に集まるなんて、あいつそんなこと一度も俺に言わなかったじゃないか、と多少苛ついたが、もしかすると、その場所にさちこもいるのではないかと考えて、私はポケットに両手を突っ込みながら、ブドウ飴の屋台へと急いだ。
*
ブドウが刺さった串を二本手に持って、私が屋台から戻ってくると、Aが数人の男たちに囲まれていた。
また面倒臭いことに手を出したな私は思って、遠くから、その様子を見物してやろうと、ビルの陰に隠れた。男たちは私よりも背が高く、大柄な体型で皆黒い服を着ていた。Aは何やら真ん中の男と話しているようだったので、私はその内容を盗み聴こうと、顔を出してその男の顔を眺めた。
その時、私は男と目があった。
「おい、アイツか?」
男は私を見つけると、そう言って近づいてきた。
私はその黒い顔に見覚えがあったので、咄嗟に目を伏せて逃げようとしたが、足が動かなかった。
「なんだ、帰ってきてたのかよ」
男と一緒に近づいてきたAが、呆れたようにそう言うと、私の手からブドウ飴を取り上げて、口に入れた。男もそれに続いてブドウ飴を取ったので、
「あの…………それ、僕のなんですけど……」
と私が言うと。
「あ?」
男は私を睨みつけてきた。
「……なんでもないです」
肌黒のその男は、オールバックにした髪を何度も手で触りながら、ブドウ飴をガリガリと噛み砕いた。
「水木にはまだ紹介してなかったなぁ。俺らと同じ中学だった新城さん。ほら、俺たちが一年の時、三年生だった……」
「……はぁ」
「新城さん、今は伊勢佐木町のクラブで客引きをやってるんだ。それで、俺も来月からそこで働くつもりだから、ちょっと話しておこうと思ってね」
Aはブドウ飴を口の中でころころと転がしながら、隣で携帯を眺めている新城先輩を紹介した。そんな用事なら、俺のいない場所でやってくれよ、と私は思ったが、どうやら私にも相談があるらしく、口の中に飴がなくなるのを待ってから、Aが口を開いた。
「それで、だ。お前大学に入ってから、何もしていないんだろ?良かったら俺と一緒に、客引きの仕事してみないか?」
Aはそう言って、私の顔を覗いた。
「はぁ?何で俺なんだよ」
「いいじゃねぇかよ。家からも近いし、ただ道の真ん中に立って、声をかければいいだけの簡単な仕事だぜ?それに時給は二千円で、大学からの交通費も出してくれる。こんないい仕事他にないって」
Aは目を輝かせながら熱弁していた。先輩はそのことにあまり興味がないのか、Aの隣でいつまでも黙って携帯を眺めていた。
私たちの近所にある伊勢佐木町という街は、関内駅から吉田橋を渡ったところにある、大きな繁華街で、横浜の開港後、外国人居留地が近かったことから、飲食店や興行場が数多く立ち並び、伊勢佐木町通り周辺は、連日多くの人で賑わっていた。戦争が終わり、米軍からの接収が解除されると、周辺には、闇市やバラック小屋が幾つも建てられ、伊勢佐木町は横浜の中心と呼べるほどに、大きな街になっていった。仕事のない女性は、米軍の私娼になったり、街娼婦になったりして、町を彷徨うようになり、通りには多くの売春婦が見受けられるようになった。その名残なのか、今でも伊勢佐木町から少しそれた裏通りには、外国人向けの風俗店やキャバレーが軒を連ね、本職の方が頻繁に利用する、アングラな場所になっていた。今では店の数も減り、その手の方々も、姿を見せなくなっていったが、私が生まれる少し前までは、裏通りに有名なナイトクラブや特殊喫茶が点在し、夜になると幾つもの眩い光が男たちを引き付けていた。
そんな場所で、Aは私に客引きをしろと言ってきたのだ。何かを探し求めている、豹みたいな客と、夜にしか現れない不気味な仲間と一緒に仕事をする……
そんなことをしていると、もう二度と平穏な生活には戻れないだろうと私は思って、
「……ちょっと、考えさせてくれよ」
と言った。本当は早く断りたかったのだが、横にいる先輩の顔が気になって、適当に返事をするしかなかった。
「わかったよ。でも来週までに言ってくれよなぁ。俺だって暇じゃないんだぞぉ」
「あぁそうするよ」
Aはポケットからタバコを取り出すと、一本を先輩に突き出して、また何か話しを始めた。
その時私は、先輩から少し離れた道路の小脇に群がって、駄弁りながらタバコを吸っている取り巻きの中に、ひとりだけ女性がいることに気がついた。
秋にしてはやや寒い、薄水色シースルーを纏ったその女性は、見た目から私と同い年か、ひとつ上の年代だろうと思ったのだが、彼女の群青色に澱んだ瞳から、何もかもを超えて、修羅の道を歩んできた、僧侶みたいなものが感じ取れて、私はその女性が、見た目よりも何倍も大人に見えた。その瞳のせいなのか、彼女の身体からは、幼い頃から磨き上げてきたものとは、到底比べることのできない、彼女の天性の魅力とも言える、女の業みたいなものが、色濃く醸し出ていたのだった。きっと先輩の妾か、取り巻きのひとりの彼女だろうと思って、私は街灯に照らされた、彼女の薄く塗られた白粉の顔肌を、ただぼんやりと見つめていた。
「おい水木、何かあったら、新城さんに連絡してくれだってさ」
話の終わったAが、私の肩を叩きながらそう言った。
私は隣の先輩に、軽く会釈して、半ば強制的に、連絡先を追加すると、Aをよろしくお願いしますと、言葉を述べた。
先輩は睨みつけるように私を見ていたが、やがて
「おい」
と言った。
「はい……なんですか?」
「これ」
そう言って、先輩はポケットから一万円札を取り出すと、黙って私に握らせた。
「あ……ありがとうございます」
そう私はお礼を言ったが、先輩はそのまま背を向いて、仲間たちと静かに去っていった。
「これでお前、断れなくなったなぁ」
Aは不敵な笑みを浮かべて、私の手から一万円札を奪った。
「おい、それ俺のだぞ」
「まぁいいじゃねぇか、これから働けば、何倍も稼ぐことができるぞぉ」
Aはそう言って、ポケットに一万円札をしまった。
「はぁ?これは先輩が俺にくれたもんだろ。何でお前にあげなきゃなんねんだよ」
「……お前、さっきのおつり返してねぇな」
Aは睨みながらそう言った。
「あんなの、パシリ代だろ?」
「んな訳ねぇだろ。俺だってなぁ、そんなに余裕がある訳じゃないんだぞぉ。彼女にはフラれるし、パチンコは当たんねぇしで、もう散々なんだよ。だからこの金は、俺が一旦預かっておくから、な?」
「…………お前、はるかと別れたのかよ」
「あぁ、そうだ」
Aは平然とそう言った。Aは高校一年の時、友達の紹介で出会った女子校のはるかと付き合っていた。
顔がよく、人気だったはるかとAは、どう見ても不釣り合いで、私はいっとき彼女にAのどこが良いのか聞いたことがあった。
「うーん……私が欲しいって言ったものなんでも買ってくれるところ、かなぁ」
あの時、私は彼女がふざけてそう言っているのだと思っていたが、まさか本当にそんな理由で付き合っていたとは………
「女なんてみんな一緒、顔が良くて金持ちなやつが好きなんだぁ。それで、俺たちみたいな不細工が努力して、ちょっとお金を持ったらすぐに寄ってくる。そんで無くなったら直ぐにおさらばだ。そんな奴にはなぁ、腐ったみかんみたいな顔しか寄ってこないんだよ」
「お前……別れたって、本当なんだよな?」
「嘘なんかつかねぇよ」
Aはヘラヘラと笑いながらそう話していたが、その彼の表情には、どこか悲しげで、憂いたものが感じ取れた。はじめての彼女だと嬉しそうに語る、三年前のAの顔が鮮明に甦ってきて、私は言い知れぬ喪失感に襲われた。
「おい、そんな顔するなって、もういいんだよあんなヤツ」
「お前……金が理由ではるかにフラれたのかよ」
その私の質問に、Aは驚いた顔をして、しばらく下を向いて黙っていたが、やがて
「……たたねぇんだ」
と言った。
「はぁ?」
「だから…………俺のがもうたたねぇんだよ」
Aはそう言って徐(おもむろ)に自分のそれを眺めた。その動作で、ようやく何を言っているのかわかった私は、Aと顔を見合わせて、静かに笑った。
「その一万円、お前にやるよ」
私はいつまでも笑い続けているAにそっとそう言った。
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