さちこ
なしごれん
第1話
それは突然の出来事だった。
「今日の祭り、さちこも来るらしいぞ」
「えぇ?」
屋台の連なるメインストリートから少し外れた道路脇の石レンガに腰を下ろして、私とAは冷めた焼きそばを食べていた。
「来るって……それならなんで前もって言ってくれなかったんだよ」
私が不満そうにそう言うと、
「そんなことしたらお前、恥ずかしがって祭りに来てくれないんじゃないかと思ったんだよ。それに、来るって言っても噂で聞いた程度だし、俺はアイツと会いたくないんだ」
そう言って、Aは最後の麺を啜ると、乱暴にプラスチック容器を道路に放り投げた。
私は深くため息をつきながら、まだ半分近く残っている焼きそばを、Aの方へ押し付けて、忙しなく動いている、人の賑わった道路に目を置いた。
毎年秋に行われる横浜の酉の市(とりのいち)は、私の地元では最大の規模を誇る屋台祭りで、大鷲(おおとり)神社の周辺一帯を埋め尽くすその赤や黄色の屋台は、やれ、どこどこのコンテストで優勝したとか、名の知れた料理人が営む名店などが多く連なり、陽が落ちる前でも、私たちの周りでは行列がそこかしこに見受けられた。
そんな年に一回のこの酉の市を、私は幼馴染のAと一緒に周っていた。三日前、私が自室のベッドで寝転がりながら、いつものように本を読んでいると、机の上にあった携帯が、勢いよく部屋に鳴り響いた。
「お前、今何してる?」
「何って……本を読んでたんだよ」
「お前って本当につまらないやつだなぁ、そんなことしたらあっという間に大学生活なんて終わっちまうぞ」
Aは呆れながらそう言うと、一緒に酉の市へ行かないかと誘って来たのだった。つまらないやつだなんて、そんなこと自分が一番わかってる、と私は言いそうになったが、彼には何を言って無駄だと思って、私は壁にかかったカレンダーの、『十一』という数字を眺めた。
十一月十二日。早いもので、私が大学に入学してからもう七ヶ月が経っていた。地元の中学を卒業した私は、ごく一般的な公立高校に入り、担任に言われるがまま、東京の西側に位置する中途半端な私立大学に進学して、興味のない人文学の講義を日々受けていた。四年前にできたその大学は、都心から少し離れた郊外にキャンパスを設け、男女合わせても三千人程しかいない、小さなものだった。そんな知り合いなど一人もいない、無名な大学に、私は一体何をしに行っているのだろうと、毎朝の電車に必ずと言っていいほど居合わせる、黒のジャージを着たメガネの男を横目で見ながら、私は現状と自分に憤りを感じていた。
大学に入学して一か月が経ったある日、特にやりたいこともなかった私は、とりあえず髪を金色に染めてみることにした。高校時代、面倒くさいという理由から、まともに部活動に属さず、家と学校を行き来するだけの日々を送っていた私は、大学に入りさえすれば、自分の中で何かが変わると思っていた、居着いた環境から抜け出すことで、何か自分も、新しいものに生まれ変われるような気がしていた。だから髪を染めた翌日、それはもう飛び上がるようにして学校へ向かい、いつもの席で誰かが声をかけてくれるのを静かに待っていた。けれど一限から五限まで、私の隣にいつも座る、一つだけ歳が上の山下が休み時間に発した、「今日は随分と明るいなぁ」という言葉以外、私は誰からも話しかけられることはなく、授業終了のチャイムと共に、逃げるようにして大学を出たのだった。そしてその時初めて、好機は自分から掴みにいかなければならないということに、私は気づいたのだった。入学時は私と同じように教室の真ん中で、黙って授業を聞いていたクラスメイトの一人が、今、目の前で、何やら楽しそうに女子と喋りながら、駅の方へと消えていくのを見かけた時、私はなぜもっと前から、クラスメイトに話しかけることをしなかったのかと、後悔した。
私は足早に駅へ向かった。明日からどうすればいいのだろう、そんな不安が私の頭をよぎった。かと言って、次の日から別人のように話しかけるのも、なんだか違うような気がした。高校時代、なるべく人と話さず生活して来た私にとって、わざと明るく振る舞って、お調子者のキャラを演じるのは、自分ではない何か別の生き物のように感じて、気持ち悪かった。私はホームにつながる駅の階段を、蹴るようにして上がり、横浜行きの電車に飛び乗った。
開くドアとは反対の扉の前で凭れた私は、ふと携帯の黒画面に移された、稲のような自分の髪を眺めた。金色の髪は、一本一本が細く透き通っていて、触るだけで抜けてしまいそうな、小動物のようだった。そんな金白色の髪を眺めていると、自分の身体なのに、何か違う生き物のように感じて、不思議な気分になった。と同時に、金色にするために、一万も叩いて染めたこの髪が、今日の無慈悲な出来事のせいで、ひどく汚くて、憎らしい物のようにも思えた。すると、車内に佇んで、多くの視線に晒されている自分という人間が、周りからひどく浮いた、かわいそうな存在のようにも思えて来て、言い知れぬ恥ずかしさに襲われるのだった。私は視線を窓の外へ移すと、どこまでも続く長い河川敷を眺め、その時の気分で入れてしまった自分の髪の毛を、強く握った。
そんな私にとって、幼馴染のAという存在は、ただの同い年の男友達という簡単な言葉では言い表すことのできない、特別な存在だった。家が近く、幼少の頃から面識があったAは、中学時代は同じバレーボール部に所属し、日々汗を流し練習に勤しんだ。時には言い合いになったり、手を出すこともあったが、それでも私たちは三年間、毎日と言っていいほど互いに顔を合わせ、練習に励んだ。
ある時Aが私に言った。「お前そのペットボトル、便所の水に入れ替えてこいよ」
練習試合で他校に行っていた私たちは、機嫌の悪い顧問が、タバコを吸いに行ったことを確認すると、急いでトイレへ行き、便所の水を汲み取って、顧問の前に差し出したのだった。「これ、水です」「おぅ、ありがとう」
私たちは試合中、ベンチに座り怒号を叫び続けている顧問を横目見ながら、互いに顔を見合わせて、クスクスと笑った。普段は厳格で、鬼のような形相で私たちを叱りつけてくる顧問が、整備のされていない、田舎のボットん便所の水を飲んでいる。それを考えただけで、体の至る所から、沸々と笑いが込み上げて来て、その後はもう試合どころではなかった。
そんなことを日々していると、次第に共同意識みたいなものが芽生えて来て、私達の仲は、戦友と言ってもいいほどのものになっていた。けれど中学を卒業し、別々の高校に進学してからは、たまにコンビニで会って話す程度の仲に落ち着いて、あの時のように毎日顔を合わすような間柄ではなくなってしまった。
彼は県外の高校に進学し、朝から晩までバレボールの毎日で、今すぐにでも俺は部活を辞めてやるんだと、いつものように語るのだが、そんな彼の語り口調に、私は少し羨ましさと妬ましさを感じるのだった。なぜ私は高校で、バレーボール部に入らなかったのだろう。今でもその疑問がふと頭に降りて来ては、私を眠らせなくさせた。
だからこそ私は、珍しく連絡をして来たこのAからの誘いに、断ることができなかったのである。
「あっちにブドウ飴があるからさぁ、ちょっと買ってきてくれよ」
Aは携帯で、友人の投稿した写真を眺めながら、私に千円札を握らせてきた。
「お、千円もくれるなんて太っ腹だなぁ。俺は食わないから、その分で射的でもしてくるわ」
「好きににしろよ」
私は屋台通りの中でも一際混んでいる、大鳥神社へと続く本通りに入った。
ブドウ飴のある屋台は、本通りの奥の方にあったため、私は人混みをかき分けながら、炭火やバターの匂いが充満する、屋台通りをゆっくりと歩いた。
それにしても、なんて人の数なんだ。私は学校帰りの小学生や、制服姿の男女が、忙しなく動いている様子を眺め、昨年よりもはるかに人の出が多いことに気がついた。神社へ続くこの本通りは、普段はどこにでもある住宅街の、閑散とした道なのに、祭りの時になると一斉に人が現れて、飲み食いをし始める。昨日まで何もなかった本通りの道路脇には、大量の割り箸や紙パックが、山のように積められていて、その周りに、何羽かのカラスが宙を舞っていた。
私は千円札を崩そうと、どこかに射撃場がないかと見渡した。私の町で開かれる酉の市は、地域柄、年配の来場者が多く、屋台のほとんどは飲食の店だった。私がまだ小学生だった五、六年前までは、くじや輪投げなどの屋台がちらほら見受けられたのだが、今ではその半分の数にまで減り、去年まで屋台を出していた、ハゲ面の老人が店主の射撃場は、もうそこにはなかった。
仕方なく私は、本通りに一店だけあった、ストラックアウトの店先に顔を出すと
「あの……一回いくらですか?」
と言った。
「ごめんねぇ、お兄ちゃん。後ろの人が待っとるから」
店主はそう言って首を横に振りながら、私の隣を指した。私が店主の指差す方へ顔を向けると、三、四人の子連れが、店横に列を作って並んでいた。
「……すいません」
私は恥ずかしくなって、最後尾の方へ逃げるようにして移動した。あまりの人の数に、並んでいる人がいたなんて、気づかなかったんですと、何度も心の中で呟やいて、私は目線を下に落とし、流れゆく人波の脚を、ぼんやりと眺めた。
外もだんだんと日が落ちてきて、屋台暖簾(のれん)に着いた電飾が、描かれた文字ををより目立たせていた。そんな赤や黄に光っている暖簾を眺めていると、隣り合わせの色とりどりの屋台がひとつになって、キャンバスに出された絵の具のように見えてきた。その光景を見ていると、先ほどの店主の首筋から覗かせた、あざやかな彫りがなぜか鮮明に蘇ってきて、私は慌てて目を瞬かせた。
思えば高校時代、一度も祭りなどに行くことはなかったな。学校に行っても、まじめに勉強をするわけでもなく、部活動に所属して、精を出していたわけでもなく……そう考えると、俺は一体何をしに、大学なんかに入ったのだろうか。
カップルや子連れが行き交うその通りをひとしきり眺め、私は言葉にできない寂寥感が、喉元に登ってくるような感覚がした。
「俺もブドウ飴……食うかぁ」
そう言って、私が並んでいる列から、いそいそと抜け出そうとしたその時、
「あれ? 水木じゃん」
私の背後から、女性の声がした。
「あぁ、やっぱり水木だ。久しぶり」
その声で、私は女性の方へと振り返り、声の主が荒木乃衣花(のえか)だとわかると、
「おぉ……久しぶりだなぁ」
と伏し目がちに言った。
「中学生ぶり?顔全然変わってないから、びっくりしちゃった」
彼女は笑いながら、私の方へ近づいてきた。
「でも背、高くなったねぇ。一瞬誰だかわからなかったよ。何センチ伸びたの?」
「うーん、十センチくらいかなぁ…」
私は彼女を見下ろしながらそう言った。ショートカットの彼女は、中学時代よりもやや肌が白くなり、線のように引かれた細い眉毛の下に、きららかな茶色の瞳が光っていた。
私と同じ中学だった荒木乃衣花は、一年生の時、福祉委員の集まりで出会った。
私の中学では、毎年クラスから一人ずつ委員会に入るものを選出し、月に一度全クラスの代表が集まって、現状についての話し合いをするのだが、私たち一年生は三クラスしかなく、三組の福祉委員の子は、いつも学校を休んでいたため、自ずと私と彼女が会話することが多くなっていた。
あれは体育祭が終わった頃、確か、十月の中旬くらいだったはずだ。私と彼女がトイレの石鹸を取り替えようと、二人並んで廊下を歩いていた時、廊下の窓際に男子が集まって何かをしていた。
「おい、何してんだよ」
私は同じクラスの、髪の長いサッカー部員の男に聞いた。
「ここから唾を落として、誰が最初にあのバケツに入るのか、賭けてるんだ」
男は笑いながら口を窄めて、唾液を口の中に溜めていた。私が不審に思って、男の隣を見ると、隣にいる三、四人の中に、素行が悪くて有名な、新城先輩の姿があった。
先輩と、その取り巻きは、四階の窓から必死に唾を吐きかけて、花壇横にある水色のバケツに入れようとしていた。
「おい、お前もやってみろよ」
坊主のうちの一人が、私にそう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます