第8話 サミュエル、エマ、それぞれ②(自覚)

(どうしよう、どうしよう、どうしよう)


 部屋に戻るなりベッドに倒れこんで突っ伏し、エマは後悔していた。


(アーレにひどい言い方しちゃった! 彼は何も悪くないのに! きっと驚いたに違いないわ!!)


 だけど、たまらなかった。

 いつの間にか膨れ上がっていた気持ちが、こんなにどうしようもなくなるなんて、想像もしてなかった。


 エマは思い出す。


 はじめてトレモイユ邸に来た時。


 家族の前では笑顔を作って家を出たけど、本当は不安で仕方なかった。

 奴隷を買い集めては切り刻む、そんな噂の男性との結婚。どんな待遇で何をされるのか。

 なるべく胸を張って、顔を上げて、必死に恐怖と戦っていたエマを、優しい笑顔の家令が迎えてくれた。

 それだけで、どれほど安心出来たか。

 

 そして伯爵邸は、噂とまるでかけ離れた場所だった。


 トレモイユ領で暮らす人々はあたたかく、子ども達も楽しそうに笑っていて、エマはすんなりと新しい生活に溶け込むことが出来た。

 また、そうなるよう尽力してくれたのが家令のアーレ。


 エマが困らないよう、楽しめるよう、常に心を配ってくれていた。


 たとえそれが主人である伯爵の命令からだったとしても。


 そばにいて心強く支えてくれる彼にエマは感謝し、年も大きく違わないはずなのに伯爵家を切り盛りしていてスゴイと、尊敬の念を抱いていた。


 そのうちに。


 エマは一日の終わりに、いつもアーレのことを思うようになっていた。



 今日は彼にたくさん会えた。いっぱい声が聞けた。

 楽しかった。嬉しかった。



 伯爵から贈られた高価なドレスや宝石は、アーレからのプレゼントのように感じてしまうし、"教室"でアーレに毎日会えるようになって、驚くくらいに心が弾んだ。


 意外な面もたくさん見れた。

 子どもっぽいところには笑ったし、怒っていると、抑えていてもとても迫力があるのには、びっくりした。

 時々口が悪くて、実はあんずが大好きで、アールグレイが好みで。



 ある日、気がついた。



 ──私、アーレのことばかり考えている──



 そして自分の想いに、特別な気持ちが含まれていることを自覚して、慌てた。


 ダメだ。

 自分はすでにエマ・カデュアールではなく、エマ・トレモイユで夫のある身。

 しかもその夫は、アーレの主人。


 このままではアーレに迷惑をかけてしまう!!!


 あわててアーレと距離を置こうとした。

 気づかれないよう、かれないよう、望まないように。


 きっとアーレが来ているだろう"教室"には、焼き菓子を理由に時間をずらして行った。


 逆効果だった。

 思いがけず無防備な寝顔を見ることになり、たまらなくなって、自分の気をそらすために歌を歌った。

 かつて祖母から教わった、思い出の歌。


 その後初めて見た彼の素顔には、息が止まりかけた。


 エマの胸中には、想像通りに素敵で、想像以上にいとしいアーレが焼き付いてしまい、あわててバスケットで顔を隠して、赤く染まった頬と耳を見られないよう必死に平静を装った。


 あとの展開ことは、何度でも思い出す。


 花冠をそっと載せてくれた彼が、すごく、すごくあたたかかった。

 髪越しに伝わる柔らかな眼差まなざしに、泣きそうになった。

 あの胸に飛び込むことは許されてない。これまでも、これからも、ずっと。


 こんな気持ち、初めてだった。

 止まらなくなるほどの想いなんて、知らなかった。



 これが"恋"というもので、自分はアーレが好きなのだと。



 ──気づかないままいれたなら、良かったのに。



 ◆ ◆ ◆



「今夜、伯爵様がお会いになります」


 エマにそう告げたのは、侍女長であるジルだった。

 彼女は伯爵の腹心であるゾフの妹とのことで、他の侍女たちを指導し、エマの身の周りの世話をかいがいしく焼いてくれている。とても助けられている相手ではあるが。


(こういった連絡は、いつもならアーレが伝えてくれていたのに……)


 お昼の件で、気を悪くさせてしまったのだろうか……。でもアーレに会ったら心が揺らいでしまう。伯爵に会うと決めたのは、自分なのに。


 エマのうれいた表情をどう受け取ったのか、ジルが言う。


「ご緊張なされなくても大丈夫ですよ。伯爵様はエマ様のことを、とてもお気に召していらっしゃいます。エマ様がいらしてから、いつも機嫌よく楽しそうにされておいでで。お仕えする私たちも、嬉しく思っておりました」


「? 私はまだ、お会いしたことがなかったはずですが……」


 それなのに気に入られてる? 嬉しそう? どうして?


 にっこりとジルが答える。

「膝掛けをお贈りになられましたでしょう? 私どもに何度も自慢されまして、兄のゾフなど、とうとう伯爵様お相手に"いい加減にしてください"と言ってしまったのだとか」


 思い出したように、くすくすとジルが笑っている。

 

(膝掛け、確かにお贈りしたわ。その後ものすごい量のお礼の品が届いて、逆に恐縮したっけ)


 そんなに喜んでくれてたのなら、良かった。


 同時に心が痛む。

 やはり伯爵様は噂とは全然違う、良い方だ。


「伯爵様のご事業の成功を妬む人たちがいろんな噂を流していますが……、伯爵様のもとで働く者たちは皆、あの方が好きなのです。幸せになっていただきたいと、僭越ながらも願っております。エマ様があの方を笑顔にしてくださると、信じております」

 

 言葉に詰まった。


 私はなんということをしてしまっているのか。


 伯爵の妻としてここに来たのに、伯爵に仕える、彼のことが好きな人たちすべてを裏切るような行為をしている。

 その最たるはアーレ。何も知らない、何の罪もない彼をも巻き込んで。


 以前、ジルに伯爵とアーレの関係を尋ねたことがある。名前のことなど気になっていたので、血縁者ではと思っていたからだ。

 とても近しい間柄だと、彼女は言っていた。

 そんなふたりに、波風を立てるわけにはいかない。自分の一方的な思いのせいで、アーレに迷惑をかけるわけにはいかない。

 

 この想いは、絶対誰にも悟られるわけにはいかない。


 悶々と思い悩むうちに、気がつくとエマは素晴らしく綺麗なドレスを着せられていた。


 ジルや他の侍女たちが、伯爵に会うためにと身支度を整えてくれており、髪を結い、化粧を施し、しっかり仕上がって、彼女たちから賞賛の声をおくられていた。


「後ほど伯爵様がおみえになります」 


 そう言って恭しく頭を下げたジルが、侍女たちと共に退室する。


 自分が行くのではなく、相手が来る?

 足は大丈夫なのだろうか。


 不思議に思いつつも、鏡台の前にエマはひとり残された。

 息を吸って、まっすぐに鏡の中の自分を見つめる。

 

 花嫁のように純白のドレス。施された全面の刺繍が、祝うようにきらめいていて……。


 ぽろり


 頬を涙がつたい落ちる。


(どうしよう……。私がドレスを見せたい相手は、伯爵様じゃない……)


 たまらなくなった。

 夜に会う・・・・という意味が、エマに覚悟をいてくる。


 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙に、ぬぐう手が間に合わず、エマはついに席を立った。


(やっぱり無理)


 アーレ以外の男性にれられて、耐えられるとは思えない。


 アーレに相談すれば、何とかしてくれるかもしれない。

 だけど私が伯爵を拒否する理由が、アーレに思いを寄せているせいだと知られたら?


 もしかしたら私のことを軽蔑するかも知れない。

 勘違いだと冷たく拒否されるかも知れない。

 もしくは一緒に悩んでくれるかもしれない。

 そうしたら、彼を苦しめることになってしまう。 


 そのどれもが、絶望にしか繋がらなかった。

 


(逃げよう)



 どこか遠くに、誰にも見つからない場所に。

 逃げてひっそりと、アーレだけを想って生きていこう。



 伯爵家の捜査力も、実家のことも、今のエマには思い及ばなかった。

 若い彼女はただ混乱して、逃げるためにバルコニーへと出た。高い位置に、ある部屋だというのに。



 ◆ ◆ ◆


 

 そして今。

 エマは絶体絶命に、陥っていた。


 バルコニーの手すりに、テーブルかけなどの布をわえて、下に降りようとした。

 いろいろな計算が、まったく噛み合っていなかった。

 布は短く、そしてまた弱かった。

 途中で千切れそうになり、全身で捕まっていて、足下そっかには遠く地面が見える。


 3階の見晴らしの良い部屋を、とアーレが用意してくれた場所は、脱走にはまるで適していなかった。


(どうしよう……、どうしよう……、誰か……アーレ!!)

 

 そんな状態でも、呼んでしまうのはただ一人の名で。

 エマはつくづく泣きそうになりながら、身じろぎひとつ出来ずにいた。


 コンコンと、遠くノックの音が聞こえる。


(!! 伯爵様?!)


 でも、これをどう説明すれば?

 こんな場所にぶら下がってしまったのでは言いわけのしようがないし、助けてもらうにしても難しい。


「エマ……?」


 部屋に姿が見えない自分を探しているのか、声が聞こえる。


(この声!!)


「ア……レ……」


 絞りだした声は、呟くようにかすかでかすれて、とても彼まで届かないように思えた。なのに。


 途端に駆けてくる音が聞こえて、バルコニーの手すりから、よく知った彼が、アーレが顔を出した。


「エマ!!」


 目が合う。


(あ……今日は前髪を下ろしてないんだ)


 こんな状況だというのに、そんな意識が頭をよぎる。


(アーレの瞳……、紫で綺麗……)


 しびれた手が、布から離れた。


「!!!!」


 彼の顔が驚愕に染まり、そしてアーレが、んだ。

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