#36 小説にあなたの人生を追い抜かれてはいけない
ノックをしても返事はない。フェリーツェは今さらためらう。今まさに彼は小説を書いているのだ。小説をほとんど読まない彼女にとって、今の彼の存在は遠い。
「フランツ? お話があるの」
中であわただしい物音がして、まもなく収まると、「お入り」という穏やかな声が聞こえた。フェリーツェはおそるおそるドアを開けた。フランツが椅子に座ったままこちらをふりむいた姿勢で、「やあ」と何ごともなかったような顔をして出迎えた。机の上に広げていたであろう原稿用紙はきれいに片付けられ、万年筆さえも見当たらなかった。
「ごめんなさい、こんな夜更けに。あなたとお話してから帰ろうと思って」
「椅子に座って。僕はベッドに座るから」
「ありがとう」
「お茶を入れてくる」
「いいのよ。もうたくさんいただいたから」
フランツはベッドに座り、フェリーツェは彼の方を向いて椅子に座った。彼は彼女とあまり目を合わせず、夢から覚めたばかりの人のようにきょろきょろしていた。
「あなたのお父さんとお話したわ」
「気が合うみたいだね。ふたりとも立派な社会人だから」
「フランツ。あなたも立派な社会人よ」
「いい年してアルバイトみたいな仕事してるって、言ってなかったかい?」
「そうね。言ってたわ」
「これまで何度もひどいことを言われたよ。これもお前のためだ、心を鬼にしてるんだって。まあ、それは本心だと思う。父さんはいつも僕の幸せを考えてくれるから。でもそれは、父さんの考える幸せだ。僕の考える幸せは、父さんから見れば不幸せなんだろう。もっとも、それは僕から見ても同じこと。僕の幸せは、僕から見ても不幸せにしか見えない。そしてこの不幸せこそが、僕の幸せなんだ」
「フランツ、何を言っているかよくわからないわ」
「僕にはこういう話し方しかできない」
「そうね。知ってるわ」
「結婚に反対された?」
「いいえ」
「でも賛成でもないよね」
「お父さんのことはいいのよ。フランツ。あなたはわたしと結婚したいの?」
「わからない」
「言い出したのはあなたよ。怖くなったの?」
「怖いさ。生きることはいつも怖い」
「失敗を恐れているのね。それとも、人を傷つけることを恐れているの?」
「失敗して、君を傷つけることを恐れている」
「うそよ。あなたはあなた自身が傷つくことをいちばん恐れている。わたしはそんな簡単に傷つかないわ」
「僕はずっと小説とともに生きてきたんだ。手塩にかけて小説を育ててきた。僕には見える。僕とそっくり同じ顔をした小さな僕が、この部屋のなかをうろついているのが」
「フランツ。何を言っているか本当にわからなくなってきたわ」
「僕にしか見えないペットだよ。こいつを世話するのが僕に課せられた毎日のノルマだ。僕がいちばん恐れているのは、僕が傷つくことじゃない。君を傷つけることでもない。このノルマを果たせなくなることを、僕は恐れている」
「小説を書けなくなることを恐れているということ?」
「そう理解してくれてもいい」
「結婚したら好きなだけ小説を書くといいわ。あなたは働かなくていい。わたしがぜんぶ稼ぐから。家事もしないでいい。お手伝いさんを雇うから。それでもまだ不安?」
「僕は君のペットじゃない」
「そんなつもりじゃ」
「ごめん。言い方がきつかった」
「いえ、あなたの言うとおりよ。夫婦なら助け合わないと。相手を一方的に養うのでは、結婚する意味がないわ」
「確かに、結婚する意味はないのかもしれない。もし、“意味”なんてものを求めるのならね。君は僕なしで生きてきたし、僕は小説と助け合って生きてきた。いわば君は仕事と結婚していて、僕は小説と結婚しているわけだ」
「なぜわたしと婚約したの?」
「新しい生き方がしたかったから」
「小説を書きたくなくなったということ?」
「そう理解してくれてもいい」
「書きたくないならやめればいいわ。仕事でもないのにしたくないことをするなんて、ばかげているわ」
「人は、自分で生き方を選べないんだ。新しい生き方に憧れても、憧れは憧れのまま、決して現実にはならない。ようやく僕にもわかってきた真実だ」
「そんなことない。生き方は選べる。わたしは自分の意思で今の仕事を選んだのよ。父から受け継いだ雑貨店を自分の考えで今の形につくりかえた。そのことを、わたしは誇りに思っているわ。ビジネスの経験なんて何もなかった。でもうまくいきそうな気がして、いろんな人に助けてもらいながらやってみたの。失敗は怖かったわ。最初の1年は不安で、へとへとなのに毎晩眠れなかった。でも、自分で決めたことだもの。成功しても失敗しても、ぜんぶ自分の責任。そう思うと、勇気が湧いてきてわくわくしたわ。何度も挑戦して、できなかったことが少しずつできるようになって、自分の世界が広がっていくの。まるで、私だけのためにつくられたゲームをプレイしているみたいに」
「生きることはゲームではないよ」
「そこまでは言ってないわ」
「僕と結婚することにわくわくする?」
「いいえ」
「それなら、どうして婚約してくれたの?」
「ゲームがすべてじゃないって思ったから。いえ、本当は、本当にわからないの。どうしてOKしたのか。取り消したいわけではないわ。今、もういちどあのときのことをくり返しても、やっぱりわたしはOKすると思う。あなたは後悔してる?」
「わからない」
「でも、不安なのね」
「結婚したら、小説が書けなくなる。ノルマを果たせなくなる」
「ノルマってなんなの? 誰もあなたに命令してないのよ。書きたくないのなら、しばらく休めばいいわ」
「書きたいとか書きたくないという問題じゃないんだ。そもそも小説を書きたいなんて一度も思ったことない。書きたくなくても、書かないとならないんだよ」
「誰があなたに命令しているというの?」
「小説の神様」
「フランツ。神様は、人間が人間のために生み出したのよ。困ったときの神頼み。わたしも、商売を始めたばかりのころは神様に祈ってばかりだったわ。店が軌道に乗ってからは祈らなくなった。神様がいらなくなったから」
「またうまくいかなくなったらどうするの? 一度捨てた神様は二度と戻ってこないよ」
「そのときは、わたしの力でなんとかする。神様にはもう頼らない。たくさん経験を積んで成長したから。神様に頼るのは、本当に無力なときだけよ」
「僕は無力だ」
「そんなことないわ」
「小説の神様も同じくらい無力だ」
「無力な神様の命令に従っているの? そんなのおかしいわ」
「無力な存在だからこそ、その命令には逆らえないんだ。命令を無視すれば、小説の神様は死んでしまう。そうなったら、僕はもう小説が書けない」
「フランツ、話が堂々巡りになっているわ。誰にも命令されないのなら、小説なんて書かなくていいのよ」
「僕は小説を書きたいんだ」
「さっきと言ってることがちがう」
「僕は小説を書きたい。しかし自分の意思で書いているわけではない」
「フランツ。何度も言うけど、わたしにわかるように話して。ようするに、小説を書くのはやめられないということかしら?」
「ああ。小説を書くのはやめられない」
「だとしても、それが結婚しない理由になるとは思えないわ。人がそばにいると書けないということ? それなら問題ないわ。平日の日中、わたしは仕事で家にいないから。お手伝いさんにもあなたの部屋には決して入らないよう言っておくわ。休日だって、おたがいの生活空間をうまく仕切ればなんとかなると思う。ねえ、フランツ。まずは同棲から始めてみない?」
「結婚前の同棲だなんて! フェリーツェ、そんなこと許されないよ」
「誰が許さないの? あなたが許さないの? それとも小説の神様が許さないの?」
「世間が許さないよ」
「わかったわ。あなたはいろいろ言ってるけど、ようするに人の目を恐れてるのね」
「いや、そういうことでは」
「世間体を気にして、結婚しようなんて言い出したのよ。いい年して独身なのが決まり悪くて、それでわたしと結婚しようとしてるのね」
「ちがう」
「ねえ、フランツ。世間って、そんなたいしたものじゃないわ。ルールとマナーさえ守っていれば、たいていの人はおとなしくて無害な存在よ。わたしは世間を相手に仕事してきたの。どんなことをすれば喜ばれて、どんなことをすれば怒りを買うのかは、だいたい想像がつく。大丈夫。今どき同棲したくらいで世間は騒がないわ。それに、騒がれたって関係ない。フランツ、あまたはあなたがしたいことをすればいいのよ」
「僕のしたいこと?」
「一度小説を捨ててごらんなさい」
「僕の話を聞いてなかったのかい? 僕は小説を書かなければならないんだ」
「だからこそ捨てるのよ。あなたのその不思議にねじれた考え方は小説の悪影響よ。わたしの職場や取引先であなたみたいなしゃべり方をする人はひとりもいないわ。みんな一所懸命仕事をしてるから。要件は手短に、ポイントを押さえて伝えないと、お互いの時間を無駄にしてしまう。時間が無駄になるということは、それだけ利益が失われるということよ。わたしたちにとって時間はお金そのものよ。一刻も無駄にはできないの。それがわたしたち商売人の道徳よ。そして、その道徳があるからこそ、わたしたちはお互いに理解し合えるし、お互いに尊重し合えるの。ビジネスは決してあなたの考えるような不道徳な世界ではないわ」
「それは君の考えの押しつけだよ。君から見れば、小説を書くのは不道徳なことなんだろうね」
「そこまでは言ってない。プライベートで何をするかはその人の自由よ。でも、あなたの場合、仕事とプライベートの境目が曖昧になってると思う。小説にすべての時間が食い尽くされてしまって、何をするにも小説におうかがいを立てなければならなくなっているのよ。あなたが自立できないのは、あなたが小説の神様に主導権を握られているから。わたしと結婚するのを躊躇するのは、あなたが小説の神様の顔色をうかがっているから。ちがう? これもわたしの考えの押しつけかしら」
「いや、確かにその通りだ」
「小説を捨ててごらんなさい」
「そんな恐ろしいこと……。小説がなくなったら僕は生きていけない」
「本当に生きていけなくなるかどうか、やってみればいいじゃない。何事も、やってみないとわからないわ。本当に無理だと思ったらまた小説を書けばいい。とにかく、あなたは小説から離れるべきなのよ。頭を冷やしなさい。今のあなたはものごとをきちんと考えることができないし、自分の考えを人にわかりやすく伝えることもできない。あなたの小説を面白がる人もいるけど、それで調子に乗ってはいけないわ。あなたのお友だちのブロートさんがいけないのね。あの人があなたの小説を大げさに褒めるものだから、自分はこのままで良いって勘違いしてしまったのね。小説は小説、現実は現実よ。その違いを見失ったら、あなたはずっとこのまま。自分の不幸せを幸福だと言い張ったり、婚約したのにやっぱりやめようとダダをこねたり……。そういうけじめのない態度は社会では許されないわ。あなたは小説を口実にして、考えなくてはならないことから目を背けているのよ」
「考えなくてはならないこと?」
「考えるのよ。小説にあなたの人生を追い抜かれてはいけないわ。あなたの人生を生きるのはあなたよ。主導権を握っているのは決して小説の神様じゃない。あなたよ。わたしのことを好きだって言ってくれたのは、あなたでしょう? あのときの言葉は嘘だったの?」
「嘘じゃない。あれは本気で言ったんだ。そして、今もその気持ちは変わらない」
「わたしもあなたのことが好きよ。フランツ」
「本当?」
「ええ。言ってなかったかしら? 好きな者同士が結婚するのよ。それは自然なことだわ。あなたのお父さんだって、積極的に賛成してくれているのではないけれど、反対しているわけでもない。そして、あなたは勇気を出してわたしにプロポーズしてくれた。結婚しない理由なんて、どこにもないでしょう?」
「わかった……。わかったよ、フェリーツェ。しばらく小説を書くのをやめてみる。そして、君と結婚する。保険事務所の仕事はやめて、僕のしたいことを見つける」
「その言葉を聞けてうれしいわ」
「でも、何をすればいいんだろう? 僕から小説を取ったら何も残らないよ」
「死にゲーをつくるのよ」
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