#35 虚無への投資

 ヘルマンは考えた。息子はどうしてわしに似なかったのだろう? 幾度もくりかえしてきた問いだ。かつてそれは意味ある問いだった。しかし、くりかえしの末に意味がすり切れ、答えなど最初から期待しない、ただの不満の鳴き声に変わった。


 ヘルマンはものを深く考えない。ビジネスパースンたるもの、ものは浅く、広く考えなければ。顧客たちは深海ではなく浅瀬にいるのだから。深く潜らないこと。それは優れたビジネスパースンの条件だ。小説なんて大人になってから読んだこともない。愛読書は話題のビジネス書だけ。その浅薄さがヘルマンを「常識」という浅瀬につなぎ止めてくれる。


 息子のことはヘルマンにとっていつも頭痛の種だった。いい年して保険事務所でアルバイトのような仕事をしている。父を嫌いながら、いっこうに家を出る気配がない。空いた時間に資格の勉強でもすればいいのに。家に帰れば部屋に閉じこもり、一心不乱に小説を書く。一晩中書きつづけて体を悪くしている。リターンの見込めない虚無への投資だ。ファイナンスの基本くらい、あいつがまだ幼かったころに教えてやれば良かった。わしもまた悪かったのだ。大人になれば自然と勤勉になるものだと思いこんでいた。わしらの世代はみなそうだった。まさか子育てがこんなに長引くなんて、思いもしなかった。


 息子が婚約したという話をヘルマンは最初から疑っていた。どうせ子ども同士のお遊びだろう。ところが、息子が連れてきた女性をヘルマンは気に入った。フェリーツェというその女性は、息子となんの共通点もない、やり手のビジネスパースンだった。父親の経営していた潰れかけの雑貨店を引き継ぎ、富裕層向けの高級スーパーマーケットに一新し、数年で市内に3店舗を展開するようになった。ヘルマンもその新進の女社長のことは聞いていたが、まさか息子の婚約者だとは思いもしなかった。


 息子が執筆のために早々に自室に引き下がった後も、ヘルマンはフェリーツェと酒を酌み交わし、話し込んだ。フェリーツェはヘルマンを「お父さん」と呼んだ。彼は満足した。息子の婚約者として認めたからというよりも、彼女が娘であったらどんなにいいかと夢想したから。息子のような甲斐性無しにはもったいない女性だ。ワインの酔いが回ってきてから、「なぜあんな盆暗と婚約したのです?」と冗談めかして、しかし内心は真面目に訊ねた。「わたしもわかりません」とフェリーツェはほほ笑んだ。何を聞かれても的確な回答をする女性なのに、このときだけは曖昧な返事だった。


「手紙がくるんです」

「手紙?」

「ええ。毎日毎日。日によっては、1日2通届くことも珍しくありません。わたしは筆無精ですし、彼の手紙は何度読み返しても主旨がよくわからず、それでめんどうになって直接お会いすることにしたんです。でも、やっぱり彼の言うことは難しいし、常識外れに思えました。ただ、会ってとりとめのないことをおしゃべりしていると、なぜだか気持ちが落ち着くんです。彼と一緒にいて、わけのわからない彼の話に耳を傾けているあいだだけ、自分が女社長であることを忘れているのです。まるで、不思議の国に迷い込んだ小さな女の子になったみたいに」

「わしは、何度もあいつを勘当しようとしました」

「わかります。当然でしょう」

「いつまで好き放題生きているつもりなのか。この家から出て行けと何度も言いかけました。自立できないくせに、わしのことを軽蔑しているらしい。わしに宛てて、やつが抗議の手紙を書いたと妻から聞きました」

「あの人、なんでも手紙で済ませようとしますから」

「手紙は結局渡されなかったし、読みたいとも思わない。それでもわしは、やつをこの家に住まわせつづけている。なぜだかわかりますか?」

「どうしてですか」

「たぶん、あなたがあいつと婚約したのと理由は同じですよ」

「癒やされるから?」

「あなたは癒やされたいから結婚するのかね?」

「いえ、ちょっとちがう気がします。彼ならもっとうまい言い方ができるでしょうね。私は小説を読まないので、こういうとき、どういう言い方をすればいいのかわからないのです」

「わしも似たようなもんですよ。小説なんてタイムコンシューミングなもの読んでいたらライバルに出し抜かれる」

「お父さんは、彼に癒やしを感じませんか?」

「わからん。わしは癒やしなんて求めたことないからね。そんな言葉、昔は誰も使わなかったものだよ。みんな、頑張れば頑張るだけ豊かになれると信じて、がむしゃらに働いていた。わしらの世代は疲れを知らないんです。疲れてるヒマなんぞないですから」

「わたしも彼と会うまではそうでした」

「あいつと結婚して、走り続けることができますか? あいつと結婚すれば、あんたは潰されますよ。今は癒やしで済むかもしれない。しかしいずれ、あいつはあんたの疲れを生む最大の重荷になりますよ」

「わたしもそのことは考えます。お父さんの前でこう言うのは失礼ですが、彼は年齢の割にあまりに幼すぎます」

「今から取り消すこともできると思うよ。婚約なんて、内々の話なんだ。知ってるのはわしらだけだし、わしはむしろあんたの方を応援したい。後悔してるのなら、なかったことにしても構わない」

「お父さん、わたしたちのような人間は、信頼を一番大切にするものではないでしょうか。一度約束したことをあとで反故にするのは、信頼を損なうことになります。その傷は、一生わたしにつきまといます」

「じゃあ、やはりあんたはわしらの家族になるんだね?」

「わたしはそのつもりです。でも彼が躊躇し始めているんです」

「ようするに子どもなんですよ。いざ婚約してみて、自分がどんな責任を負うことになるのかようやく気づいたんでしょう。人生は小説とはちがうんです。小説の言葉はぜんぶ空約束だが、現実で口にする言葉には責任が伴う。後戻りできないのが現実です。あんたはそれをわかってる。だから、一度した約束を反故にしない。だがあいつは現実を何もわかってない。書き損じの小説みたいに、丸めてゴミ箱に捨てれば無かったことにできると思いこんでいる」

「一度、小説を書くのをやめてみたら? と彼に提案したこともあります。しばらく筆を置いて、現実と向き合ってみたらって。そうした方が長い目で見れば良い小説が書けるようになると思います。私は小説のことなんて何もわかりません。でも、ひとりよがりでは世の中で相手にされないのはどの業界だって同じでしょう。本当に売れる小説を書きたいのなら、むしろいったん小説を捨てて、世の中のことを知るべきなんです。そうすれば、あんな風に自分を卑下したりしなくなるでしょう。彼には自尊心が足りません」

「それはわしも悪かったんだよ。あいつのこと、これまでほとんど褒めてやったことがなかったからね。あいつのやることなすこと、わしには無意味としか思えない。なぜ、普通のことを普通にやらないのか。重荷になるような要求はしてないはずだ。人として当たり前のことをやってくれれば、わしだってあいつを褒めてやれるんだが。しかし、あんたはあいつのいいところを見つけてくれたんだね?」

「はい。うまく表現できないのが残念ですが」

「癒やしでもいいと思うよ。時代が変わったんだろう。がむしゃらに働いてばかりではなく、ときには癒やしも必要なのかもしれない。ああいう人間のいいところを見つけてやれないのは、わしらの世代の欠点だ。あんたのような若い人がこれからの時代をつくっていくんだ。わしは、あんたを止めはしないよ。あんたにはもっと良い相手がいると思う。しかしそれはわしではなく、あんたが決めることだ。応援してるよ」

「ありがとうございます。フランツのこと、わたしに任せてください。わたしもこのままではいけないと思っています。現実にちゃんと向き合ってもらわないと。きっと、彼に小説を捨てさせてみせます」

「すばらしいことだ。娘よ」

「はい、お父さん」

「頼んだよ」

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