#34 未達成のノルマが砂のようにたまっていく

 水槽の砂をシャベルで掘り返すと干からびた糞が数粒見つかった。他にフカフカの痕跡は何もなかった。砂をすくい上げては2枚重ねのゴミ袋に詰めていった。砂は燃えないゴミだ。しかしそれは私の直観が認めない。砂が燃えないゴミだとしたら、砂漠は広大なゴミ捨て場になり、浜辺で遊ぶ人々はゴミと戯れていることになる。常識的な風景がほしい。私はいまや社会の一員なのだから。


 砂はフカフカの墓の上にかけてやろう。捨てるのではない。お供えだ。そうすれば私の風景は安定し、フカフカの死後の風景にも意味が与えられる。しかし私はもう墓の場所を忘れかけている。早く行かなければ。ああ! おっくうだ。せめて明日にしよう。墓の場所を正確に覚えてなくても構わない。ちょっとくらいずれた場所に砂を捨てたとしても、川辺に砂があるのは常識の範囲だ。川辺は浜辺ではない。それでも少しくらいの風景のずれは、常識も融通を利かせてくれるだろう。


 砂の詰まったゴミ袋をリュックサックに入れ、玄関ドアに立てかけた。コバヤシがやってきたときのためのつっかい棒になるかもしれない。水槽は納戸にしまい、フカフカのビスケットは私のおやつにすることにした。ホットミルクと一緒に三枚食べた。まだおなかが満たされず、コーヒーを入れ、ホットケーキをつくって食べた。まだどこか物足りない。糖分と炭水化物ばかりとって、かえって物足りなさが際立った。


 夕方までだいぶ時間があるのに何もすることがない。私はコバヤシを待っていた。待つつもりはなかったが、私は待っていた。私はもうコバヤシの期待に応えられない。裏切られたと知ったらどんな顔をするだろうか。私が小説家だからこそ、コバヤシは毎日ここに通ってきてくれた。毎日私の小説を読んで、ヘルマンが登場するのを最後まで待っていてくれた。私とコバヤシは小説だけでつながっていた。


 私は、小説だけで世界とつながっていた。ビジネスパースンになれない私は、普通の人が普通にできることを普通にできずに、小説を書くことしかできなかった。いや、それは順番が逆だ。小説を書いていたからこそ私は脳がヤバくなり、ビジネスパースンになれなかった。いや、どっちも正しい。小説は、私の才能であり、私の言い訳であり、私の運命であり、私の過ちだ。私にはこれしかない。だから、私はこれに束縛される。束縛から解き放たれれば、世界から私がいなくなる。後に残るのは、私には似ていない社会人だ。


 小説の神様は死んでしまったし、死にゲーの神様はいつまでも降りてこない。未達成のノルマが砂のようにたまっていく。その砂が見えるうちは、私は小説家なのだろう。小説家でいるうちは、何を食べても満たされない。しかし明日になればノルマなんていらなくなる。ビジネスパースンになって、本当に考えなければならないことを全部なかったことにして、みんなが大事だと考えることだけを私も考えよう。彼らの高級タワーマンションも、自慢の高級車も、パリッとした高級スーツも、センスしかない高級ネクタイも、本棚にずらりと並んだ高級ビジネス書も、肌つやのよい高級妻子も、近づいて見ればみんな砂まみれ。それを彼らは見ようともしない。忙しいから。ビジネスと社交と家族サービスと睡眠に明け暮れて、余分な時間は1秒たりとも残されていないのだから。小説家には、余分な時間しかない。それは社会において、小説家が余分な存在だからだ。


 書斎のドアが勝手に押し開けられ、砂があふれ出てきた。風も無いのに砂が舞い上がり、床に降り積もっていった。あっというまに私も砂まみれになった。砂を止めなくては。砂はどんどん湧き出している。書斎に足を踏み入れたとたん、全身が砂に埋もれていった。雪崩に飲まれた人のように。体内に砂がどんどん侵入してくる。口を閉じても関係ない。人間には9つの穴があるから、1つだけ閉じても無駄なのだ。体が乾燥していく。数パーセントの水分が失われただけで人体の機能は大幅に低下するという。数割の水分が失われれば死が待つのみだ。口以外の8つの穴から砂を大量に摂取して、私はここで死ぬようだ。昼食後の物足りなさがどんどん体内で膨れ上がっていく。大量の糖分が大量の砂に入れ替わっていく。


 私は声をあげようとした。な、な、な、な、という音が出た。これは悲鳴ではない。声ですらない。な、な、な、な。そのために口が、最後の穴が開いてしまい、喉の奥まで砂が詰め込まれた。な、な、な、な。私の声ではない。声ですらない。な、な、な、な。耳の穴も砂が詰まって音が聞こえない。それなのに聞こえるこの声は、声ですらないものは、空気の振動ではない。私の肉の振動か、振動の記憶か、あるいは無そのものの振動か。真空のなかで、振動そのものが振動している。


 目からも大量の砂が入り込み何も見えない。毛細血管まで砂がつまり心臓の音もきこえない。私はこのまま死ぬようだ。「ようだ」だなんて、まだピンときていない「ようだ」。どうせこれは私の夢、あるいは何かの比喩だ。しかし、人は夢や比喩で死ぬこともできる。それが何の夢なのか、何の比喩なのかわからず、いつまでも現実に着地できずに、いつまでもピンとこないまま、私はここで死ぬ「ようだ」。小説家らしい死に様ではないか。


 フカフカもまた私の夢であり、比喩だった。あんな生きもの、現実に存在するわけがない。フェっちゃんと同じ、フィクションだ。だから、甘く見ていたのだ。その気になれば、ぜんぶ無かったことにできる。私は小説家をやめ、常識的なビジネスパースンになることができる。しかし、私は夢と比喩を現実と取り違えてこれまで生きてきたのだ。今さら現実が私を殺してくれるわけがない。私を殺してくれるのは夢と比喩だ。この砂は、本当に私を殺す。現実世界では自殺とでも処理されるだろう。小説にとりつかれた小説家の末路は、だいたい自殺か肺結核と決まっている。しかし彼らの本当の死因は、検死官にはわからないのだ。小説家の死は、夢であり、比喩なのだから。


 私は死んだ。何度も何度も死んだ。書斎に入り、砂に押しつぶされ、9つの穴から砂をいっぱいに詰め込まれて、まっ暗になった。また明かりが戻ってきて、また書斎に入る。そこで同じ死をくり返す。砂のあふれる部屋のなかで、私は考えた。この小説は、なぜ終わらないのだろう? なぜ何度も同じ場面をくりかえすのか。書斎に入るのをやめ、部屋の様子をじっくり観察した。フェっちゃんに言われたことを思い出した。死にゲーの基本は、なぜ自分が死んだのかをよく観察すること。砂漠のような部屋のなかを見渡しながら、埋まらないように慎重に歩き回った。わからない。どこにもヒントが見つからない。ヒントを求めて書斎に入り、砂に押しつぶされ、9つの穴から砂に浸食されて、乾燥しきって死んだ。同じところで同じミスを何度もくり返している。学習しなければ。行動パターンをわずかに改善すれば、死を回避し、次のステージに進むことができる。それが私がフェっちゃんとこの数ヶ月、死にゲーと向かい合うことで学んだことだ。


 押してダメなら引いてみなよ。これもまたフェっちゃんの教えだ。それでは書斎へのこだわりを捨て、部屋から出てみたらどうだろう? つっかい棒になっているリュックサックをどけ、玄関のドアを開けた。倒れたリュックサックの口が開き、なかから砂がたくさん出てきた。エレベーターまでの廊下もあっというまに砂であふれた。エレベーターが着き、ドアが開くと、なかに砂がいっせいに流れ込み、まだ私が乗ってないのに重量オーバーのブザーが鳴った。階段で行くしかない。しかし階段にもすでに砂が侵出していて、段が見えず、砂が急な斜面を滝のように流れている。急流に足を取られ、私は流されていった。このまま流れに乗って下までたどり着ければ良い。しかしそれは甘い考えだった。どんぶらこ、どんぶらこ。その殴打のような擬音とともに、私は何度も壁にたたきつけられたあげく、流れに飲まれてひっくり返り、9つの穴から砂に浸食され、またカラカラになって死んだ。何十回も同じパターンの死をくり返したあげく、私は外に出ることをあきらめた。


 また書斎に入った。砂に溺れながら、原稿用紙と万年筆を探した。何度も死んで、死ぬたびに、探す場所を少しずつ変えた。これは死にゲーだ。死ぬたびに私は学習し、身体の使い方の新たな可能性を探した。何のために? コバヤシのためではない。フェっちゃんのためでもない。ノルマが残っている。この砂はたまったノルマだ。砂から逃れるには、書くしかない。いずれ砂に追いつかれるとしても。


 数百回目のチャレンジで、やっと原稿用紙を一枚つかみ、引きずり出すことに成功した。しかし、万年筆が見つからない。練習を重ね、百発百中で原稿用紙をつかめるようになると、今度は万年筆探しに集中した。万年筆は書斎の奥の方に埋もれていて、見つかるまでにさらに千回以上死ぬハメになった。あとは、原稿用紙をつかんでから万年筆を手に入れるまでのタイムを縮めるだけだ。原稿用紙をつかんだ時点で、私が死ぬまでに残された時間は1分もない。何十回かやってみて、1分以内に万年筆をつかむのは不可能だとわかった。最終的に、私は砂の海にダイブするしかなかった。全身砂にもぐったまま腕と脚を思いっきりのばし、手で原稿用紙をつかむと同時に、足の指で万年筆をつかむのだ。完全に正確な位置にダイブすることが要求される。少しでもずれると、原稿用紙か万年筆のどちらか、あるいは両方に届かなくなる。うまくいっても、速やかに砂から脱出しないとあっという間に乾いて死んでしまう。普段ろくに運動もしない私にそんな身体能力はない。だが、やるしかない。何百回も死に、学習をつづけるうちに、私の身体の動きは洗練され、最適化されていった。まるで、鵜飼いに飼い慣らされた鵜が水中にまっすぐ飛び込み、獲物をくわえて戻ってくるように、私の身体動作は美しくなっていった。私はもはや砂の世界を極めつつあった。砂は障害ではない。いまや私の身体は砂がなければうまく動き回れないだろう。砂がなくなったとたんに、平らな床の上でどうやって歩けば良いかもわからずひっくり返ってしまうだろう。そうなったら、また何度も死ねばいい。何度も床に頭を打ちつけて死に、砂のない世界での動きを洗練されていけばいい。私は何度でも死ぬことを許されている。それは、私が小説家だからだ。これまで小説のなかで、私は何度死んだことか。破り捨てた反故のなかで、無数の私が死んでいる。何度でも死ねる。小説とは死にゲーのことだ。フェっちゃんが小説を死にゲーに変えてしまう前からずっと、小説は最初から死にゲーだった。小説の神様とは、死にゲーの二つ名だ。


 私は砂に埋もれながら体育座りして、砂まみれの原稿用紙に小説のつづきを書き始めた。万年筆は砂をものともせず、なめらかに線を走らせた。9つの穴が埋まっても、万年筆のペン先だけが、私を小説につなぎとめてくれていた。このインクだけが、私の体内にわずかに残された体液だった。

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