#33 私は機械《マシーン》だ

 納戸の奥にシャベルとリュックサックが見つかった。インドアの私がなんでこんなものを持っていたのかわからない。水槽の砂の中からフカフカの遺骸を取り出し、ティッシュとコピー用紙に包んでガムテープで留め、珈琲豆屋の紙袋に入れると袋の縁をホチキスで閉じた。袋とシャベルをリュックサックに放り込み、家を出たのはもう昼過ぎだった。ノルマを気にしなくなると時間があっという間に過ぎる。背中が軽く、何も背負っていないようだった。


 川辺の遊歩道には人気ひとけがなかった。土手の下に広がる河川敷は土がむき出しになっていて、石ころがごろごろ転がっている。整備されていないグラウンドみたいだ。降りて行ってシャベルを使ってみると、意外とさっくり突き刺すことができた。掘れるところまで掘ってみよう。キツくなってきたら別の場所を探せばいい。シャベルマカセだ。


 フカフカの入った袋をリュックから取り出して地面に置き、その周囲にシャベルの刃の先で一回り大きい長方形を刻みつけると、袋をどかして内側の土をひたすらえぐっていった。面白いようにさくさく土をかき出すことができた。まるで巨大なビスケットに土手っ腹を開けているようだ。


 墓にビスケットの1枚くらい入れてやったらどうか、とふと思った。私はフカフカの遺骸を処理することばかり考えていて、生きものを弔うという発想をまるで持っていなかった。そもそも埋めるのはここでいいのだろうか。目の前には川がゆるやかに流れ、向こう岸では男性が犬を散歩し、その上に広がる空には高層マンションが数棟突き出している。この風景と、フカフカの一生とのあいだに、いったい何の関係があるというのか。私はフカフカの一生を無意味だと思っているのだ。だから、こんな無意味な弔い方をしているのだ。


 きれいな四角い墓穴が完成した。フカフカの袋を置いてみると、計画通りにすっぽり収まった。計画性のない私にしては上出来だ。あとは掘り返した土を機械的にかぶせていった。うおおおん。私は機械マシーンだ。私はプレートコンパクターだ。人間プレートコンパクターは土を小刻みにとことこ踏みしめていった。墓標を立てるつもりはない。あれば誰かに掘り返されるかもしれないし、そもそも墓参りするつもりもない。もしフェっちゃんが戻ってきて、フカフカはどうしたのと聞かれたら、フカフカは旅行に行ったんだよと嘘をつこう。それでも納得いかないようなら、フカフカの小説を書けばいい。でも、私にはもう小説は書けないのかな。私は本気で考えてない。フカフカのことも、フェっちゃんのことも。


 帰ろう。土手を上がり遊歩道に戻ると、犬を連れた人に「何埋めてたんだい」と聞かれた。この人、さっき向こう岸にいなかったっけ? 犬のような顔の人だ。口元がたるんでいる。


「金魚です」

「ここに埋めていいのかい?」

「マンション住まいなので庭がないのです」

「ここはペットのお墓じゃないよ! 野菜育てる人なんかもいるけどさあ。本当はダメなんだよ!」

「すみません」

「公共の土地なの。あなたの庭じゃないのよ。ナスとかトマトとかインゲンとか育ててる人もいるけどさあ」

「インゲンとか育ててません」

「生意気なこと言わないの。次からは気をつけてよ!」

「はい」


 次は何埋めようか。


 相手の顔をよく見ると、さっき向こう岸にいた人よりずっと年がいっている。歯がよく見えず、声を出す前後でふにゃふにゃと空気の抜けるような音がした。犬のようだと思ったのは、その音がくーんくーんと聞こえたからだ。すみません、すみません、と平謝りに謝って、私は上半身を地面と平行にしたままその場を離れた。しばらく歩いて振り返ると、犬のような老人は犬のお尻に袋をあてがっていた。あの犬は死んだらペット斎場に弔ってもらえるだろう。老人の方が先に死ぬかもしれないが、そのときはきっと家族がペット斎場に弔ってくれる。犬も、犬のような老人も一緒に。


 私にとって、フカフカはペットというよりも持病のような存在だ。憎いとも思わず、治そうとも思わず、ただ一緒に暮らしてきた。その持病がとつぜん治ってしまった。きれいにこそげ落ちたかさぶたを、記念にとっておこうという人もいるかもしれない。しかし私は感傷もなしに河川敷に埋めた。それは割と常識的な対応ではないだろうか? 持病はペットではないのだから。感傷がないのは普通だよ。普通普通。


 持病が治ったのなら、私の脳はこれから良くなっていくだろう。小説とは、私にとって脳の持病だった。貯金が尽きるまでに、何か新しい仕事を見つけないと。これまでは脳のキャパに制約されて小説以外の仕事は何もできなかったけど、これからはいろんなことができる。私は何にでもなれる。わくわくすることじゃないか。こんな年になっても、未来がまだ開けているなんて。


 たくさん資格を取ろう。「士」のつく奴を10個くらい。私は社会にとって欠くことのできない歯車になって、いろんな人にありがとうを言われよう。みんなの笑顔をはげみに今日も私は頑張れる。そんな嘘くさいことを堂々と言っても、誰からも非難されない無敵状態になれる。小説家時代の私はあまりに無防備だった。本当のことばかり言って、世界を凍りつかせてきた。もう傷つかなくていい。


 お金にしか興味のない厚顔無恥なビジネスパースンになって、本当はどうでもいいと思っている問題に次々とソリューションをもたらしてやろう。どうでもいい脳無し美人受付嬢と結婚して、どうでもいい脳無し小ぎれいな子どもを2~3匹こさえて、どうでもいい脳無しタワーマンションに居を構えて、どうでもいい脳無し幸せな家庭を築こう。どうでもいい脳無し趣味には、そば打ちがいいかな、コーヒーの自家焙煎がいいかな、中古レコード収集がいいかな。ライフハックに精を出そう。どうでもいい脳無し成功者たちを見習って、どんどんどうでもよくなっていかなくっちゃ。どうでもいい脳無し年代物ワインで乾杯しよう。どうでもいい脳無しTボーンステーキでお祝いしよう。どうでもいい脳無し行きつけバーをたくさんつくろう。どうでもいい脳無し人生を終えたら、どうでもいい脳無し葬式をしてもらおう。どうでもいい脳無し弔問者が集まってきて、私のどうでもいい脳無し人生を引き継いでくれるから。


 今日はまだ、私は小説家だ。ノルマがまだ残っている。期待している読者もいる。しかし今日が終われば、もう私は小説から完全に解放される。コバヤシも二度と来ないだろう。期待外れな結果になれば土手っ腹に穴を開けてやると脅されているが、だったらドアを開けなければいいのだ。居留守を使おう。コバヤシがスタンピングをやめなければ、いずれ警察が来てコバヤシを連行していってくれる。警察は私の味方だ。社会の良心だ。脳が治ったのだから。私はやっと、社会に戻ってくることができたのだ。どうでもいい脳無し人生が私を待っているのだ。

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