#32 恒温動物は、いつも少しさむい
目が覚めるともう昼過ぎだった。喉がカラカラに干からびていて、体から酢のような臭いがした。あんな馬鹿みたいに飲んだのは学生のとき以来だ。あのころは私にも友だちのひとりやふたりはいたのだ。しかし彼らは本当に友だちだったのか、友だちとは何なのか。彼らに会いたいとは思わない。今の私には、血に汚れたギャングとその娘がお似合いだ。この小説がうまくいかなかったらギャングに転職しようかな。いや、その前に土手っ腹に風穴開けられるか。
今日のノルマを書かなければ。シャワーを浴び、朝食のような昼食を食べ、狭い書斎に体を押し込み体育座りして画板の上の原稿用紙に向き合った。しかし小説の神様は降りてこなかった。ヘルマン、ヘルマン。書かなければならない言葉はちらつくが、それをこの白い紙のどこに置けばいいのだろう。そもそも私はヘルマンのことなんて書きたかったのだろうか? 口から出まかせで「ヘルマン」なんて言ったものの、デマカセとフデマカセとではわけがちがう。口が言うことを筆が素直に追いかけてくれるなんて、おめでたい幻想を私はもたない。「話が違うじゃないですか」読者や編集者に何度舌打ちされ、嘘つき呼ばわりされても、私にはどうしようもない。
小説の神様は降りてこなかった。この不在は、不在という形をとったメッセージだろうか? もうヘルマンなんて書かなくていいよ。だってヘルマンなんていないんだから。だったらちゃんと言葉にして言ってほしいな、小説の神様。書斎から出るともう夕方だった。こんなに遅くなってもノルマが達成できないなんて初めてだ。苦労した初の長編小説だって、毎日だいたい昼過ぎにはノルマを達成できていた。夕方以降の時間帯に小説の神様が降りてきたことなんてない。
おなかの調子が良くないので晩ご飯は湯豆腐にした。イカの塩辛の力を借りてご飯を半膳なんとか喉の奥に流し込んだ。それが限界だった。あとはお風呂に入って歯を磨いて寝るしかない。寝て、起きて、寝るだけの1日だった。小説を書かずに1日を終えるなんて、プロになってから初めてのことだ。私はもうプロではないのかもしれない。急に思いついて、砂のなかからフカフカを掘り出した。フカフカは両腕で両足を抱えた姿勢で固まっていた。冷たくはない。しかしそれは、ヒーターの余熱だ。外に出すとあっという間に冷え切っていった。まったく身動きせず、丸まった姿勢のまま背中だけ床につけている。背中を支点にした起き上がり小法師のようだ。眠っているのではない。死んでいた。
いつ死んだのだろう。ずっと砂のなかで眠っていた。最後に生きているのを見たのはいつだったか。それより、お墓はどうすればいいのか。飼育が禁止されている生き物だからペット斎場では扱ってもらえない。川原に埋めることまでは考えていた。しかしシャベルがない。
水槽のヒーターを切り、フカフカを砂のなかにそっと戻した。明日、なんとかしよう。でも、明日中に小説を書き上げないとならない。今日書けなかったから、明日で2日分書かないとならないのだ。フカフカを埋めに行くひまなんてあるのだろうか? 埋めるのは明後日にしたい。腐ったりはしないと思う。真冬だし、砂が水分を吸い取ってくれるから。うまくいけば、このままミイラになってくれるかもしれない。
湯船に浸かりながら、これからのことを考えた。とりあえず泣こうとしたが、悲しくないので涙は出なかった。フェっちゃんなら泣いてくれただろうが、フェっちゃんはいない。フカフカのために泣いてくれる人は誰もいないのだ。死骸の処理のことで、私は頭がいっぱいだった。私に心はないのかもしれない。
小説家になってから、ずっとひとりで生きてきた。毎日ノルマをこなすこと、ご飯をひとりで食べること。そのくり返しで生きてきた。フェっちゃんとの日々は楽しかった。しかし、そんな日々が失われても、私は悲しいと思わない。さみしさはある。しかしさみしさは、生きるということのことのデフォルトではないか。ずっとひとりで生きてきたのだから。フェっちゃんといたころだって、私はどこかさみしかったのだ。さみしいの語源はさむい。言語学者たちから何と怒られようと、この確信は変えられない。この地球はいつも少しさむい。恒温動物はこごえないように自ら体温を保たなければならない。地球の温度といつも調和できる変温動物とちがい、恒温動物は、いつも少しさむいのだ。
お風呂を出ると、もう深夜零時を過ぎていた。ノルマを果たせなかった私はもう二度と小説を書けない。そう確信して、小説家でなくなった私は、ただの人間のような生きものとして眠った。フェっちゃんがいなくなってからずっと彼女のベッドで寝ている。ベッドは楽だ。布団の上げ下ろしをしないでいいから。私はぐうたら主夫。もう小説家ではない。いなくなった女の子の匂いに包まれて、恒温動物はさみしかった。
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