#30 無理に長引かせた一日

 マンションに戻ると私はコタツに潜り込み、目をつぶった。おなかの調子があまりよくない。私は辛いものが好きだが、体質的には苦手なのだ。日本酒だって、好きだけど強いわけではない。キムチ鍋ブームと毎晩の晩酌がつづいていたころ、実はずっと下痢気味だった。夕飯はもっとおなかに優しいものを食べよう。おかゆとかさ。おうどんとかさ。ゆどうふとかさ。


 フカフカは今日も砂に潜っている。冬とはいえ、絶食状態がこれほどつづいて大丈夫だろうか。砂に手をかざしてみたが、ヒーターはちゃんと暖かかった。我が家の電力の四分の一くらいはこのヒーターが消費している。ペットに贅沢させてやれる身分ではないが、これは私の自意識だ。死んでしまったら二度と小説は書けない。だからこれは投資なのだ、経費なのですよ? そう自分を納得させてきた。


 だが今は、死にゲーを書かなくてはならないのだ。なんの経費がかかるのかも算定できない未知の分野だ。これまではフェっちゃんがいたから書けた。私がいつものように薄暗い内面の旅を始めようとするたびに、フェっちゃんは舌打ちし、原稿用紙を破り捨て、私を「ノー」と罵倒した。


 ノー。わたしはあなたの小説をノーと否定する。それはまさに、私にとっての死にゲーだった。書いても書いても私の小説は否定され、くずかごに放り投げられ、ひからびたみかんの皮とともにみじめな死を迎えた。それでも少しずつ、できなかったことができるようになり、ひとつひとつのステージを着実にクリアしていった。それが死にゲーの醍醐味なのだ。自らの無数の死を踏み越え、見たこともない世界に出会うこと。フェっちゃんのいない今、私はどうやって死ねばいいのだろう?


 水槽をしばらく眺めていた。ヒーターを切れば、フカフカは一晩のうちに死ぬ。ジャケットは着ているが、スリーシーズン用のペラいつくりなのだ。フカフカを殺せば、私にはもう小説は書けない。だから殺さず、毎日のノルマをせっせとこなす。しかし、そのくりかえしで何が手に入ったというのか? 


 何が書けるかはフデマカセ。どんなものが書けても「シュールですね」の一言で許してもらっていた。小説にとってそれは褒め言葉だが、死にゲーにとってはたぶんちがう。「クソみたいな操作性ですね」と言われてるようなものではないか。死にゲーというは死ぬことと見つけたり。シュールなだけでは、何か足りない。


 こたつから顔を出すと、もう真夜中だった。まだ夕飯を食べてない。おうどんを茹でて、月見そばにして食べた。あ、まちがった、月見うどんだ。こんなときでも私の脳はとぼけてる。フェっちゃんにピストルを突き立てられて暮らすうちに、少しはましに動くようになったと思っていたが、そんなことはなかった。おうどんをすすり、箸先で月を破壊して、薄黄色く染まったぬるいおつゆをごくごく飲み干した。まだおなかの調子がよくない。カレーのせいではないと思う。


 眠れそうにない。風呂に入った。湯船に浸かっているあいだ、何の音もしなかった。フェっちゃんがいたころは、人が近くにいるという気配があった。そのときはフェっちゃんのことを考えていたのだろう。今だってそうだ。でも、静かすぎる。湯水がぬるすぎる。浸かっていると、体の芯がどんどん冷えていきそうだ。人ひとりいなくなると、こんなにさみしくなるのか。さみしいの語源は、さむい。それは嘘だと言語学者に怒られたとしても、私は私のさみしさの根源にさむさを感じる。


 フカフカが死んだらどこに亡骸を埋めようか。ときどき考えることがある。飼育禁止の生きものだから、ペット斎場では扱ってもらえない。川辺に埋めてあげようか。川辺って、掘り返せるような感じだったっけ。なんか石がゴロゴロしてた気がする。実行する気もない計画をもてあそんでいる。そもそもシャベルなんか持ってたっけ? 独身男性の部屋にシャベルがあったとしたら、そこには犯罪の臭いしかしない。


 もしもの話さ。もしも小説が行き詰まったら。どんなにがんばってもこれ以上先に進めなくなり、ノルマが達成できなくなったら。そうなったら、私はフカフカを殺すかもしれない。いつかは殺さなくてはならない。自意識とは、寿命が来て安らかに眠ってくれるような存在ではないから。へたしたら主が死んでも生きつづける。自意識を持つ生きものは、自分の死だけでなく、自意識の死のことまで考えなくてはならない。自分の死には無責任でいいが、自意識の死には責任がある。小説を書いたって責任を果たしたことにはならないが。


 フェっちゃんはフカフカをかわいがっていた。私のことはかわいがってくれないのに、私と瓜二つのあいつを抱き上げ、肩に載せていた。砂に潜る時間が長くなってからも、フェっちゃんは毎日フカフカの心配をしていた。お人形が戻ってからは興味を失ったようにも見えたけど、それでもときどき水槽のなかを覗き込む姿を見かけたものだ。フカフカを殺したらフェっちゃんが悲しむだろう。そうだ、フェっちゃんは確かにそう言っていた。そんな気がする。


 浴槽のなかで結論は出なかった。さむい、さみしい。フカフカが死んだらどこに埋めようか。私の考えることはだいたいそれくらいで終わっていて、そんなもの、考えるともいえないただの思考の断片だ。賽の河原で石積む子どもだって、もう少しましなことを考えるだろう。無理に長引かせた一日を終えて、ぬるい風呂を出て、私は寝た。

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