#25 イカガデシタカ?
その日、フェっちゃんは帰ってこなかった。コバヤシを探したが、いつもはマンションの前に止めてある黒塗りの車は消えていた。コバヤシはきっと別のどこかでフェっちゃんを見守っているのだろう。そう思うしかなかった。大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせても、なかなか寝付けなかった。空っぽのベッドを何度も見た。何度見ても空っぽのままだった。明け方にうつらうつらして、ベッドに誰かいる夢を見た。よかった。フェっちゃん、戻ってきてくれたんだね。しかしそれはフェっちゃんではなく、知らない人だった。知らない人はむくりと起き上がり、ベッドから出て私のスリッパを履くと何も言わずに寝室を出て行った。再び空になったベッドを私はじっと見ていた。見ているうちに目が覚めた。目が覚めてもベッドは空だった。寝不足でまた寝た。
起きたのは昼前だった。フェっちゃんの手がかりが何かないか部屋中探した。洗濯物のカゴには私の服しかなかった。タンスの引き出しにもパンツ一枚見当たらない。歯ブラシはあった。しかし毛先がまっすぐでどう見ても新品だ。フェっちゃんの枕のにおいをかいでみた。新品のにおいしかしない。スリッパも、バスタオルもフェイスタオルも、フェっちゃんのものはぜんぶ新品のにおいがした。
私は2畳の書斎に入り、しゃがみこんだ。小説を書くつもりはなく、ただ、なるべく狭いところにいたかった。現状を整理しよう。いや、それはいけない。現状を整理したら当たり前の結論が出てしまう。その結論は、きっと私をがっかりさせるものだ。私のなかの社会人が「常識」をささやく。
《フェっちゃんなんて最初からいなかったんですよ。常識的に考えてそうでしょ? ギャングの娘が売れない小説家のマンションに転がり込むなんて設定からして不自然なんです。ダメな設定からはダメな小説しか生まれてきませんよ。設定ノートからやり直しですね》
小説を書いたこともない人気ブロガーが、私に小説の手ほどきをする。
《まずは魅力的なキャラクターを考えましょう。キャラクターは雲やカスミの中から取り出すものではありません。あなたに身近な人々をモデルにしましょう。部屋に引きこもってないで仕事して、たくさんの人々と関わりを持ちましょう。カフェに行きましょう。バーに行きましょう。人生経験はきっとあなたの小説を豊かにしますから》
小説書いたこともないのになんでそんな自信たっぷりに言えるんですか?
《言えますよ。私のアドバイスでたくさんの小説家の卵たちがデビューを果たしました。ちなみに私のブログの月間PVは30000000000です。今度私のブログが書籍化するんですよ? マーケットは私を認めてくれる。私が小説家たちの卵を産み育てる黄金のニワトリであると。イカガデシタカ?》
この世界に小説家なんてひとりもいない。
《ではあなたも小説家ではないことになりますが》
私は小説家だ。
《証拠は?》
あの子がそう言ってくれたから。わたしのたったひとりの小説家さんって、あの子だけが言ってくれた。
《ああ。あなたが孤独のあまりでっちあげた存在しない女の子のことですね。あなたがあの子のために買ってあげたもの、ぜんぶ新品のにおいがしましたねえ。新品のいいにおいでしたねえ。バスタオルもフェイスタオルもフワフワでしたねえ》
ちがう。あの子は存在する。あの子は私の小説を死にゲーに変えてしまった。あの子がいなければこんな小説私には書けなかった。だからあの子は、フェっちゃんは存在する。絶対に存在する。
《おやおや。それは、小説脳という奴じゃないですかね?》
そうさ。私は小説脳だ。誰よりもヤバい脳の持ち主だって、あの子は私をさんざんなじってくれたんだ。
《だからそれ、あなたの妄想ですよ。かわいそうに。現実と小説の区別がつかなくなったんですね》
現実と小説の区別がついてたら小説なんて書けない。これは現実だ。小説という現実であり、現実という小説だ。お前は誰だ!
《私は社会人です。社会の中で、人生を生きています。あなたは人生から降りたんでしたっけ? 社会のどこにも居場所がない。楽しいですか? 幸せですか? 普通のビジネスパースンになって結婚して子ども作って幸せな家庭作ってクリスマスを祝いたいと思いませんか?》
いやあ……。
《 “いやあ” なんて答えは社会では認められていません。 “はい” か “いいえ” の二択です。社会に出たくないピーターパン・シンドロームのカフカさん。いつまで “いやあ” で時間稼ぎする気ですか?》
いやあ……。
《もう時間切れですよ。イカガデシタカ?》
いつのまにか今日の分のノルマが書けていた。
書斎から出るともう夜になっていた。空腹と喉の渇きにやっと気づき、冷蔵庫の残り物で適当に鍋を作ったらキムチ鍋になった。キムチ鍋ブームが去ってからはずいぶんご無沙汰していた。冷凍していたアサリを入れたのでダシが効いてる。食欲があるのが不思議だったが、考えてみたら別に私は落ち込んでいるわけではない。なぜならフェっちゃんは消えてないから。
食べている途中でインターホンが鳴った。モニターを見ると知らない若い男が立っていた。しかしどこかで見たような気がした。
「どなたですか?」
「コバヤシっス」
「え?」
「水曜夜担当のコバヤシっス。中でお話しても構いませんか。重大なことっスから」
「本当にコバヤシさんなんですか?」
「ジブンを疑っているんスか?」
「いやあ。そういうわけでは。だってコバヤシさんの顔みたことないし……」
チッという音が聞こえた。スピーカーの雑音だろうか? しかしそれはコバヤシの舌打ちだとすぐにわかった。コバヤシがスタンピングを始めた。私はあわてて玄関に向かった。まちがいない。こんな怒濤のスタンピング、私の好きなコバヤシにしかできない。そうか、彼は水曜夜の担当だったのか。
ドアを開けると、コバヤシは何も言わずに私の顔面をグーで殴った。そして舌打ちすると玄関に倒れた私をまたぎ越し中に入っていった。私は外に誰もいないことを確認してから玄関のドアを閉め鍵をかけた。鼻の下を触ってみたが鼻血は出ていなかった。コバヤシなりにやさしく殴ってくれたのかもしれない。しかしきちんと痛かった。
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