#18 土用の丑の日にうなぎを食べると
私は朝からずっとそわそわしていた。小説家になってからこんな気持ちにはとんとご無沙汰していた。毎日毎日ノルマの10枚をこなすだけの日々。主人公が死のうが恋に落ちようが私の生活は何も変わらず、盆もなければ正月もなかった。
今夜、フェっちゃんのパパが来る。揚げたての唐揚げをたくさん用意してお迎えしなくては。ノルマを早めにこなすと私はクローゼットを開けて、もう何年も袖を通していないジャケットを羽織り鏡の前に立った。
「どうしたの?」
「そわそわしてるんだよ」
「パパは人の格好なんて気にしないよ」
「でもいつもの格好だと気後れしちゃうし」
「いつものセーター、穴だらけの毛玉だらけだしね」
「え、そうだっけ?」
「それになんか丈が短いし。もしかして洗濯機で普通に洗ってる?」
「普通に洗ってる」
「それ縮むよ。縮んだのも気づかなかった?」
「そういえばおなかのあたりがすーすーしてたかも」
「だっていつもおへそ見えてるもん。腹巻き持ってる? わたしの貸してあげようか」
「いいの?」
「男女兼用の、大人子ども兼用のだから」
「やさしいね」
「わたしはいつもやさしい」
「でも最近とくにやさしいよね。何かあったの?」
「あったよ。忘れちゃったの?」
「忘れてないよ。フェっちゃんとのことは何も忘れてないよ」
「じゃあ忘れてるのと同じだね」
「忘れてないよ」
「いったん忘れないと思い出すことはできないよ。思い出すことができないと忘れてるのと同じだよ」
「何を言っているかよくわからない」
「おじさんの小説の言葉だよ?」
「え」
「自分の小説のことはすぐ忘れるのにね。まあいいや。唐揚げつくろっか」
唐揚げづくりはフェっちゃんにも手伝ってもらった。私が切った鶏肉に下味をつけてボウルの中でもみ込むのだ。
「もむの上手だね」
「手、くさくなりそう」
「ネギとショウガとニンニクが入ってるからね」
「私も今度から料理しようかな」
「ほんとう?」
「食べるのも楽しいけど、つくるのも楽しそう」
「揚げるのもやってみる? パパのために唐揚げつくってあげたら喜ぶよ」
「やってみる」
「よし、準備はこんなものでいいかな。揚げたてを食べさせてあげたいから、パパが来たら揚げよう」
「今日のお酒は何」
「今日も飲むの?」
「うん」
「パパはどう思うかな」
「娘にお酒飲ませてぶち抜かれるって思ってる?」
「やっぱりぶち抜かれるかな」
「さあね。わたしを10歳だという人もいるし、25歳だという人もいるし」
「どっちなの?」
「どっちでも。今日は飲むよ。今夜はパパにも酔っ払ってもらいたいな。ずっとお仕事たいへんで、家にいるときも緊張してるから」
「やさしいね」
「わたしはいつもやさしい。しかしその理由は誰も知らない」
「今日はスパークリングワインを用意したんだ。知ってた? 今日はクリスマスイブなんだよ。クリスマスイブにスパークリングワインを飲むと一般人の気分になれるよ」
「何を言っているかよくわからない」
「一般人はクリスマスイブにスパークリングワインを飲むんだってWikipediaに書いてた」
「おじさんは、一般人になりたかった?」
「いやあ」
「普通にビジネスパースンになって、普通に結婚して、普通に子どもが欲しかった? 暖かい家庭をつくって、クリスマスイブにスパークリングワインで乾杯したかった?」
「そういうのを馬鹿にしてた気もする。いや、いまも馬鹿にしてるよ。それでも……うっ」
「どうしたの? ココロ? 脳?」
「これはココロ……」
「ところでクリスマスプレゼント用意した?」
「あ」
「それは脳だね」
「ごめん」
「一緒に買いに行こっか。わたしたちみんなの分」
「みんなの分?」
「おじさんには新しい脳を買ってあげようね」
「じゃあフェっちゃんには」
「わたしはまだサンタを信じているの」
「サンタさんに何お願いしたの?」
「なんだと思う?」
「おいなりさんとか」
「やれやれ。今年はサンタさんがふたりいるけど、ひとりはあまり期待できそうにないな」
「がんばるよ」
「わたしはまだサンタを信じているんだけど」
「がんばってもらうようサンタにお願いするようがんばるよ」
「ヒントを出すから」
「ヒント」
「わたしのことよく見ててねって、サンタにお願いしておいてね」
「ぜったいに目を離さないよ」
「いったん目を離さないと気づくことはできないよ。おじさんには最高級の脳をお願いしておくからね」
「やさしいね」
「わたしはいつもやさしい。わたしは、いつも、やさしい」
料理の準備を手伝ってくれるフェっちゃんの様子をちらちら伺っていたが、何がヒントなのか見当もつかなかった。今日は黒いセーターを着ている。内側にあるタグにヒントがあるかもしれないと思い、床に落ちた野菜屑を拾うふりして下から覗こうとしたらばっちり通報された。コバヤシがドアをどすどすスタンピングするので、私は借金取りにおびえる人のようにしばらく息を潜めていなければならなかった。
「そうだ、コバヤシさんも呼んだらどうかな」
「嫌がると思うな」
「そうなの?」
「いちおう聞いてみるよ」
フェっちゃんはセーターの肘の裏側に向かってもごもご話しかけ、両耳を両手でふさいで返事を聞いた。
「やめとくって。仕事とプライベートは分けたい派だから」
「残念だな。じゃあ、余分につくった料理をパックして持って行ってあげようか」
「それなら喜ぶと思う」
まだ準備しないとならない料理は残っていたが、いったん休止してクリスマスプレゼントを買いにふたりで街にくり出した。クリスマスイブの街なんてカップルばかりだろうと思っていたが意外と少なかった。半裸の女性が脚を自慢するような姿勢で立っていたので、あああれが昔の小説に出てくるタチンボという奴かと思ったら、あれはクレオパトラだよとフェっちゃんが教えてくれた。よく見ると半裸の人は他にもいて、男も女も、老いも若きも、東洋人も西洋人も、みな半裸で脚を自慢するような姿勢で立っていた。
「知らないの? クリスマスイブにクレオパトラの格好をするのがはやってるんだよ」
「クリスマスと何の関係があるの?」
「クリスマスイブをカップルで過ごすのは前世紀の遺物なんだってさ」
「クレオパトラと何の関係があるの?」
「聞いてみよっか」
フェっちゃんは噴水の照明が微妙に当たらないあたりでクレオパトラをしている若い女性に聞きに行った。私は知らない人に話しかける勇気なんて無いのでひとりでドギマギしていた。
「聞いてきたよ」
「知らない人に話しかけられるなんてすごいね」
「あの人、いちばん目立ってなくて気が弱そうだったから。ふだんはカマボコ工場でカマボコ蒸してるんだって」
「で、なんだって?」
「知らないってさ。他の人に聞いても知らないと思うよって言われた」
「土用の丑の日みたいなものかな」
「なにそれ」
「土用の丑の日にうなぎを食べるんだよ。なぜだと思う?」
「わたしがいま、うなぎを食べたいから」
「じゃあうなぎも買おうか。でも高いからちょっとしか買えないよ。刻んでひつまぶしにしよう」
「クレオパトラの人たち肺炎にならないといいよね」
「やさしいね」
「わたしはいつもやさしい。でも、誰にでもやさしいわけではない」
「ところで平賀源内のことだけどね」
「平賀源内の人たちも肺炎にならないといいよね」
「やさしいね」
「わたしはいつもやさしい」
「土用の丑の日にうなぎを食べると」
「肺炎にならないんだよね。知ってる知ってる」
「いやあ」
「常識常識」
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