#15 チーズナンをシェアするように
「インド」の店内はどこかラーメン屋のようだった。全体的に壁も床もテーブルも黒く、間接照明しかないので薄暗かったが、目を細めればカウンターの向こうで湯切りする昭和の頑固親父の姿が見えるようだった。「なまーすってー」と方言のようなインド語のような挨拶とともに現れた色黒の中年女性に「私ですが」と名乗ると「ワターシさまですねー? はいーん」と奥の部屋に案内してくれた。ナマステはインドの挨拶だったろうか、タイの挨拶だったろうか。日本人の私にはわからない。案内された部屋は小さなお座敷席になっていたので、「どうも」と言って靴を脱いで上がり座布団に座ると目の前にコバヤシがいた。
「あれ、コバヤシさん? 親分さんはまだ来てないんですか?」
「親分?」
帽子にサングラス、マフラーでもこもこになっていて、どう見てもコバヤシだ。しかしコバヤシはしゃべらない。中身がちがうようだ。
「失礼しました。どうも私です」
「カフカさんですね」
「ええ。でもそれは本当の名前ではないんです。あまり人に名前を言いたくないのですが、言った方が良いでしょうか?」
「いえ、結構です。私も今日はフェリーツェのパパで通すつもりです。本当の名前を軽々しく人に言うべきではありません」
「魂が取られますからね」
「そういうことではありません」
フェっちゃんのパパは皮手袋をしたまま右手の人差し指を立てた。
「カフカさんは脳がヤバいのでしょう? フェリーツェがよく聞かせてくれます」
「いやあ」
「あ、これが噂のいやあですね」
「でも大人になるとこんな物言いも必要になるのではないでしょうか?」
「なまーすってー」
「あ、どうも」
「らっすぃーですかー? おミズですかー?」
「じゃ、ラッシーを」
「はいーん」
「今の人、インド人だと思うでしょう? でも日本人なんですよ」
「カタコトでしたよ?」
「練習のたまものです。人間は1万時間訓練すると誰でも天才になれます。彼女は1万時間インド人の訓練を積んで、日本人でありながらインド人の天才になったのです」
「インド人の天才」
「天才のインド人ではありませんよ。そんな人はいくらもいます。なにしろインドは人が多いですから」
「80億人でしたっけ」
「それは地球人口です。やはり脳に問題があるようですね」
「パパさんはギャングをされているのですね?」
「ええ。今日もこの町のゴミクズを1人屠ってきたところです」
「ピストルで」
「いえ、匕首で。ほら、まだ手がちょっと生臭いでしょう」
フェっちゃんのパパが皮手袋を外して右手を差し出してくるので私はくんくん嗅いだ。なるほど。
「鼻血みたいな臭いですね」
「内臓の方の血ですよ。まあ、血は血ですから」
「なるほど」
「カフカさんは小説家でしたね?」
「でも最近は死にゲーばかり書いています」
「ホワット?」
「ホワッと?」
「小説なのか、死にゲーなのか、はっきりさせようとは思わないのですか。そんなにホワッとしていていいのですか」
「フェっちゃんの入れ知恵ですよ」
「フェっちゃんとはフェリーツェちゃんの略称ですね?」
「イエース」
「胃エキス?」
「ホワッと?」
「おじゃマしまーす。らっすぃーでーす。サらーだでーす。どもー。さーんきゅー」
「あ、じゃあまずラッシーで乾杯」
「乾杯」
「甘い」
「甘すぎですね」
「でもここのチーズナンは絶品ですよ。まるでピザみたいだ。でもナンなんです」
「楽しみです。私はこのところキムチ鍋ばかりなので」
「フェリーツェは食の細い子でした。でもカフカさんの家にご厄介になるようになってから少し太ったように思います」
「ものすごく食べますよ。おいなりさんはあればあるだけ食べるし、キムチ鍋の肉はすぐ取られるから私はほぼ菜食主義の生活を強いられています」
「私との食事は楽しくなかったのでしょう。殺伐としてますからね」
「殺伐というと」
「コンビーフとか、オイルサーディンとか、乾パンとか、缶入りのものばかりなのです。毒を盛られるリスクを考えると缶に頼るしかありません。あの子はあれが洋食だと言ってくれますが、まあ、洋食といえばいえなくもない……。あとはインドですね」
「インドがお好きなのですね」
「いえ、ここは私のもっとも信頼できる人物の店なのです。本当は唐揚げが好きなのですが、もう十年以上食べていません」
「唐揚げ、今度私がつくりましょうか?」
「よろしいんですか?」
「ええ。暗殺が不安であれば、わざわざお越しにならなくても、唐揚げをタッパーに入れてフェっちゃんに持たせます」
「それはありがたい!」
「最近は料理ばかりしています。フェっちゃんのリクエストは厳しいですから」
「ところで小説の方はどうなったんですか?」
「おまーたっせーしやしったー。ちーじゅナーンでーす。かぁりーでーす。ごゆーくーりー。はいーん」
「どうぞ、チーズナンは焼きたてがうまいんです」
「カレー、不思議な味ですね」
「マトンですよ」
「マトン」
「あの子はマトンカレーが一番好きなんです」
「フェっちゃん、臭いものが好きですからね」
「たぶん臭いに飢えているのでしょう。缶に入ったものは味気ないですからね」
「フェっちゃん……」
「あなたは私の娘のことが本当に好きなのですね」
「いやあ」
「いやあなんて言っちゃいけませんよ」
「はい。大好きです。かわいくて、かわいくて、娘にしたくって……」
「そのことについてどうお話しようか、ずっと考えていたのです。さっきゴミクズを屠っていたときも、奴の瞳から命の火が消えていくのを見届けながら、どうしたものかと考えていました」
「やっぱりいけないことでしょうか」
「私はフェリーツェを手放すつもりはありません。このチーズナンは私のもので、誰にも渡すつもりはありません。それと同じことです。あなただって、今手に持ってるチーズナンを私が取ったら怒るでしょう?」
「かなり怒りますね」
「そういうことです。でも、チーズナンはシェアすることができます。実は、私のチーズナンにはベーコンが少し入っているのです。シェアしてみましょう」
「ありがとうございます」
「どうですか?」
「しょっぱくておいしいです」
「実はあなたのチーズナンにはコーンが少し入っているのです」
「あ、じゃあシェアしましょう」
「どうもありがとう」
「いかがですか?」
「コーンも悪くないですね」
「でしょう?」
「チーズナンをシェアするように、娘をシェアできたらと考えているのです」
「つまり私にママになれと?」
「おや、また脳ですね。ちがいますよ。そういうことではないです。私は妻をずいぶん前に亡くしましたが、まだ彼女を愛しています。再婚するつもりはありません。ましてや恋愛感情を抱けない同性とは結婚できません」
「恋愛感情は無理ですか」
「あなたの方だって無理でしょう? でも、友情なら抱けるかもしれません。友だち同士でいろいろシェアし合うのは普通のことですよ」
「そうなんですか。私は友だちがいたことがないのでよくわかりません」
「友だちがほしいですか?」
「いやあ。ただ、フェっちゃんのパパになりたいという欲望だけは抑えがたいのです」
「まずは友だちから始めませんか?」
「フェっちゃんと?」
「また脳ですね。そういうことじゃなくて、まず私と友だちになりませんか?」
「う」
「何ですか?」
「ナンじゃないです。ナンか、胸の中でムワッとするものが」
「それは、あなたにも人の心があったという証でしょう。友だちという言葉に何かを感じているのですよ」
「これが、ココロ……」
「あるいはマトンが臭かっただけかもしれませんね。ラッシーもシェアしましょう。実は私のラッシーはマンゴーラッシーなのです」
「あ、ほんとだ。マンゴーの味がして口の中が爽やか」
「まだ友情といえるほどのものはありませんが、親愛の気持ちなら少し芽生えたのではありませんか?」
「でも私はあなたの名前も顔もわからないのですよ? 食事中なのにそんなにもこもこでは」
「私のことはフェっちゃんのパパとでも呼んでください」
「バカボンのパパみたいですね」
「娘はバカボンが好きなんですよ。誕生日には愛蔵版コミックス全巻を買ってあげました。おまけにレッツラゴン第1巻もつけてあげました」
「フェっちゃんの誕生日っていつですか?」
「先週ですよ」
「え!」
「祝ってあげなかったのですか?」
「誕生日だったなんて教えてくれなかったし……」
「やれやれ。まあ、脳の悪い友だちがいるのも悪くないかもしれません。私はギャングのプロとして生きるうちに鋭敏になりすぎましたからね。
「フェっちゃんが私に?」
「ええ、ここはイキって良いところですよ。たくさんかわいがってあげてください。私の手はゴミクズどもの血で汚れていて、あの子の頭をなでるのも躊躇してしまいます。だからあなたと娘をシェアするというのは我ながら悪くないアイデアです。でもこのアイデアを実現するにはもう少し友情を育まないと。おっともうこんな時間だ。午後は3人ほどゴミクズを屠らなければならないのです。またお会いしましょう。大丈夫。私はあなたを屠ったりしません。仕事は仕事、生活は生活です。あなたは全般的にアレですが、生活の才能はあるようです。フェリーツェとの生活を楽しんでください」
「フェっちゃんのパパもお仕事がんばってください」
「ありがとう。ところで、小説はどうなったんですか?」
「いやあ」
「ま、それは次の機会にお話ししましょう」
「あーりやとやーっしたー。こっぷんかー」
インド人の天才に見送られ私たちはインドを出た。停留所まではフェっちゃんのパパの車で送ってもらった。後部座席にはたくさんの銃や手榴弾が段ボールに無造作に入れられていて、助手席の足元にもピストルやナイフがたくさん転がっているから私はずっと両足を浮かせていなければならなかった。
「片付いてなくてすみませんね」
「いやあ」
「人を乗せることはあまり無いんです。でも私たちは友だちですから」
「まだ実感が湧きません」
「無理もない。友だちがずっといなかった人に友だちができるのは、人を殺したことのない人が初めて人を殺すようなものです」
「人を殺したこともありません」
「大丈夫。あなたのように無為に人生を過ごしてきた父っちゃん坊やでもこれからたくさん経験を積んでいけますよ。ここで降ろせばいいんですか?」
「ええ、どうもありがとうございました」
「それじゃ、またいつか。唐揚げ楽しみにしてますよ」
「あ」
「忘れてましたね? いつかあなたの脳の唐揚げも食べてみたいものです」
「家に着くまで覚えていられる自信がないのでフェっちゃんに言っておいてもらえませんか?」
「やれやれ。私たちは良い友だちになれそうですね」
そうして私たちは握手をして別れた。その締め付けるような力強い握手にどんなココロが込められていたのか。ゴミクズどもの血に汚れ、娘の頭もなでられない手に私のココロはうっとなった。
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