#14 まっすぐ、10分、インド、パパ。
使ったことのない路線のバスに乗って、指定された停留所で私ひとり降りた。住宅街の真ん中で、近くに小学校がある。校庭は人っ子ひとりいない。みんな暖房の効いた教室でお勉強中なのだろう。
フェっちゃんも人っ子なのに、どうして学校に行かないのか。私がパパになったらフェっちゃんを学校に行かせたい。そしてたくさんお友だちをつくってほしい。私にできなかったことを彼女にはやってほしい。
私は子ども時代から今に到るまでずっと不人気者で、この歳になるまでとうとう友だちひとりつくることができなかった。彼女はひとりだけいたが、今にして思えばあれは需要と供給のはざまでたまたま取引が成立しただけなの棚ボタだった。恋人関係に期待していたような甘い安らぎは何も得られず、月1回のデート、年1回ずつの誕生日とクリスマスというノルマを淡々とこなすことに終始した。最後には「わたしあなたが好きなんじゃなくて、あなたとお話ししたかっただけなのかもしれない」と不思議なことを言われフラれた。彼女と何を話したのかほとんど覚えてない。いつも一方的に話しかけられるばかりで、私は「いやあ」とあいづちを打つだけだった。
スマホを持たない私のためにフェっちゃんが地図をプリントアウトしてくれた。しかしどちらが上なのか北なのかわからず、私は地図をぐるぐる回したり私がぐるぐる回ったりした。私の空間把握能力はどうかしていて、たぶん頭蓋骨の中に汚れたビー玉がひとつあるだけなのだ。ビー玉がどちらの方向に転がるかで自分がどちらの方向に移動しているかがわかる。しかしそのビー玉は地図とリンクしてないから、自分がどこをどう歩いているのかはわからない。しかも私の頭蓋骨はたいへんな欠陥住宅なので、座っていてるときに突然ビー玉が転がり出すことさえあるのだ。ナンの意味もない。ナンが焼き上がる前に店にたどり着けるのか、私の心は焦るばかりだった。
校庭を過ぎると交差点があった。地図にフェっちゃんが引いてくれたピンクのマーカー線は小学校の近くで折れ曲がり、小学校から離れてぐんぐん伸びている。力強い伸びで、フェっちゃんの高まるテンションと陽気な鼻歌が感じられる。私は折れ曲がり、横断歩道を渡った。これで私は小学校から離れてぐんぐん伸びていくことができる。実際、目の前には果てしのない国道があった。国道のことをフェっちゃんが何か言っていた記憶がかすかにある。国道何号線だっけ。私は数字に弱く、自分の部屋の郵便番号さえ覚えられないのだ。人様の国道の番号なんて覚えられるわけもない。
「ここで曲がったら、あとは余計なことを考えないで10分歩いて」このさびしい国道で、フェっちゃんの声の記憶だけが私を導いてくれる。「おじさんは脳だからぜったい余計なこと考えるでしょ。そのときはわたしの言葉を思い出して。まっすぐ、10分、インド、パパ。まっすぐ、10分、インド、パパ。それだけを唱えて。そうすれば、おじさんは行きたいところにたどり着けるから。これは特別サービスだよ。これはおじさんの人生だから、本当はこんなに手助けしちゃダメなんだよ。でも、おじさんもわたしのこと助けてくれたからね。だから今度はわたしがおじさんを助ける。まっすぐ、10分、インド、パパ。まっすぐ、10分、インド、パパ……」
まっすぐ、10分、インド、パパ。まっすぐ、10分、インド、パパ。自分語りがしたい。うまくいかなかった恋愛とか、きりのないことを考えたい。そして思考の中で迷子になりたい。でも、まっすぐ、10分、インド、パパ。ここで小説を始めることはフェっちゃんを裏切ることになる。まっすぐ、10分、インド、パパ。私は彼女のパパになりたい。まっすぐ、10分、インド、パパ。フェっちゃんの声が、私をインドへと導いていた。
インド料理店は1000円カットの床屋とペットホテルに挟まれた小さな店で、ベニヤ板に青ペンキで縦に「インド」と手書きされた大きな看板が店先に出ていた。「まっすぐ」と「10分」はもう踏破したようだ。そしてこれから「インド」も踏破し、「パパ」に出会うのだ。あとツーステップ。帰りのことなんて何も考えていなかった。
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