#10 話が見えないから手短にお願いします
後ろで気配がして振り返ると車道脇に黒塗りの車が停まっていて、歩道の縁石にもこもこのコバヤシが墓標のように立っていた。サングラスなのでどこを見ているかわからない。もこもこ手袋の両手を上げて、空気のかたまりを押さえつけるみたいにゆっくり下げ、また上げて、ゆっくり下げた。ペースを下げろ的なことを言っているのだろうか? 私がぺこりとおじぎするとコバヤシもぺこりとおじぎした。
「コバヤシが、お嬢と結婚とか冗談にも程があるんじゃないスカって」
「え? コバヤシさん、今なんか言ったっけ」
「おじさんには聞こえないよ」
フェっちゃんはもこもこ手袋で両耳を押さえ、目をつぶった。
「コバヤシの声はわたしにしか聞こえない……。わたしの忠実な部下だからね。いつもわたしを心配してくれる。コバヤシがいなかったらおじさんはわたしに近寄ることも許されないよ」
「女の子用ピストルがあるじゃないか」
「わたしが寝てるときにおじさんがえっちなことするかもしれないでしょ? コバヤシが守ってくれてるから、わたしはおじさんの家に泊まれるんだよ。だからおじさんはコバヤシに足を向けて寝られないね。コバヤシに何かお礼を言いなよ」
「ここで?」
「わたしに仕掛けられた盗聴器があるから。おじさん、声に張りがなくて聞こえにくいってさ。少しがんばって声出してね」
ほら、とフェっちゃんが腕を上げて肘の裏の辺りを私の顔の前に近づけた。私はフェっちゃんの腕をマイクスタンドのようにして語りかけた。
「コバヤシさん。いつもご苦労様です」
遠くで墓標のようなコバヤシがゆっくり頭を下げた。
「結婚の話は忘れてください。冗談のつもりでした。笑えない冗談でした。私の職業は売れない小説家です。売れないのは一般人とセンスがずれているためです。私の小説をフェっちゃんはゲームにすると言います。正直、不安でいっぱいです。文体を捨てろ、死にゲーにしろ。本当にそんなことができるものか。コバヤシさん。あなたがもし、今日でボディガードの仕事をやめて、明日からスポーツジムのインストラクターをやれと言われたらどうしますか? 素人から見ればどちらも似たような仕事です。でも、どこか致命的にちがうのではないでしょうか?」
「ねえ、コバヤシが話が見えないから手短にお願いしますってさ」
「あ、ごめんなさい」
「寒いしもう帰ろうよ」
「私はフェっちゃんと遊んでいるだけなので、結婚するつもりはないと言いたかったのです」
「え、遊びだったの?」
「え?」
「わたしと結婚するんじゃなかったの?」
「結婚してくれるの!?」
「結婚しないよ」
「え?」
「真っ赤になってるね。フカフカみたい」
「フカフカになんかしたの?」
「知らない。ヒーターでのぼせたんじゃないの?」
「ねえフカフカにえっちなことしたの?」
「ざけんな。おじさんじゃあるまいし」
「あ、コバヤシさんおつかれさまです」
「おやすみコバヤシ-」
コバヤシはぺこりと頭を下げてから黒塗りの車に乗り込みどこかに走り去った。どこかって、たぶん私のマンションのそばに路駐するのだろうが。
フェっちゃんと結婚するとコバヤシもついてくるのだろう。それはお互い様だ。向こうから見れば、フェっちゃんが私と結婚するとフカフカもついてくる。人はひとりでは生きていけないからたくさんの付属品につきまとわれている。付属品もまた人なので、付属品の付属品の付属品……手をつないだら地球を七回り半するほどだ。
地球をまたぎこして宇宙人になれたらいい。そうすればどこか水素やらヘリウムやらでできた星でフェっちゃんとふたりきり、キムチ鍋やらτボーンステーキやらをつついて過ごせるのに。その星の1日は地球でいうと3万年くらいだから、私たちがいちゃいちゃ過ごしているうちに人類はあっという間に老化して死滅し、連鎖によりあらゆる付属品が死滅する。連鎖により静かな平和が訪れる。連鎖により私たちの星にコバヤシがついてきても構わない。どちらかというと私はコバヤシに好感を持っている。背中に草原を背負う雰囲気のそそり立つ墓標。寡黙で、年齢不詳で、考えてみたら性別さえもはっきりしない。人間嫌いの私が好感を持つのだからコバヤシも相当だ。ヘリウム星に黒塗りの車を路駐して私たちのことを見守っていてほしい。
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