#09 肉屋に行けばいいんじゃないスカ

 夕方になるとフェっちゃんが戻ってきて私はじんとした。かわいい人がいなくならずにちゃんと戻ってきてくれて、今日もこの部屋に泊まってくれる。その感動が顔に出ていたのだろう。フェっちゃんはニヤニヤして、手の平や肘で私を何度も押した。


「戻ってこないと思ってた?」

「少し」

「おなか空いちゃったからさ」

「何食べる?」

「キムチ鍋」

「また?」

「毎日キムチ鍋でもわたしはいいよ」

「もっと洋風のものはどうだろう」

「うち、いっつも洋食ばかりだからさ。まあいいけど」

「洋食屋さんなの?」

「だからギャングだって言ってんだろ」

「ごめん、脳が」

「知ってるよ」

「ヤクザじゃなくてギャングなんだね」

「ギャングのおうちは洋食ばかり」

「そうなの?」

「ヤクザのおうちはお刺身ばかり。マフィアのおうちはナポリタンばかり」

「ギャングならTボーンステーキとか?」

「Tボーンって?」

「昔読んだ小説にそんなステーキが出てきた……」

「ギャング小説?」

「いや。北欧の老夫婦が白夜をTボーンステーキと年代物のワインで祝ったんだ」

「サウナも入った?」

「北欧だから入ったかもしれないね。白夜でヒマだったんじゃない?」

「Tボーンステーキ食べたことある?」

「ない」

「じゃあ今夜はTボーンステーキにしよう。ワインは適当に飲んで酔っ払っててね」

「Tボーンはどこで売ってるんだろう?」

「コバヤシに聞いてみるよ」


(フェっちゃんはくしゃみを押さえる人みたいに肘の曲がるところを口に当ててぼそぼそつぶやいた。盗聴器が仕込まれているのだ。相手の声を聴くときは両耳を両手で押さえて目を力一杯閉じる姿が天使だった)


「肉屋に行けばいいんじゃないスカって」

「よし、じゃあ肉屋に行こう」


 しかし肉屋に行ってもTボーンは売っておらず、τボーンならあるよと言われて「τ」の形をした骨付き肉を2つ買った。τボーンとTボーンがどれほどちがうものなのか、私にもフェっちゃんにもよくわからなかったし、「τ」の読み方も店主に言われるまで知らなかった。τボーンひとつおまけね、と小さいτボーンをもらった。


「タウ」

「タウ?」

「タウ」

「タウ?」


 タウタウタウタウ言い合いながらスーパーにも寄って「甘いもの買っていいよ」とフェっちゃんを解き放つと、なんとスキップしながら食品棚の向こうに消えていったのだ。なんでスキップ? わたしはワイン棚からよさげな名前のワインを選んで買い物籠に入れた。「ヴォドリネーゼ」と「ミルフワーニー」で迷って「ミルフワーニー」を選んだ。「ミルクみたいなフワフワしたワインです」とラベルに書いてあるからフェっちゃんが飲みたがるかもしれない。


 とつぜん後ろから買い物籠にパックのおいなりさんを入れられ、私はびくっとした。フェっちゃんだろうなあ、と思いながらもびくっとするのをやめられず私は恥ずかしかった。スーパーを出て帰路に就いた。


「おじさんびびりだね。フカフカみたい」

「あいつは分身だから。素になるとほとんど同じようなものだよ」

「明日、フカフカと散歩に行っていい?」

「なるべく人目につかないところを選ばないと」

「人に見られるとどうなるの?」

「誘拐犯と見なされる」

「フカフカが?」

「フェっちゃんが」

「わたしが? うそなんで」

「だってあいつの方がフェっちゃんよりずっと小さいでしょ?」

「わたしがフカフカを誘拐して誰から身代金取ればいいの」

「日本ではああいうのを飼うのを禁止されてるんだよ。一緒にいると誘拐と見なされるんだ」

「せちがらい世の中だぜ」

「だからピストル振り回して誰も近寄れないようにするといいよ」

「わたし、バカボンのおまわりさんじゃないよ」

「バカボンのおまわりさんなんて知ってるんだ。フェっちゃんいくつなんだい?」

「いくつに見える?」

「10歳?」

「おじさんは10歳の女の子に恋しちゃうの?」

「いやあ。じゃ、46歳?」

「おじさんは熟女キラーなの? あいだを取って25歳にしとくよ」

「なら結婚できるね」

「キモいキモいキモいキモい脳!」

「ごめんごめん。フェっちゃんはうちの子にするんだった」

「だから脳っつってんだろが脳!」

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